NHK義経(30)義経&頼朝
感嘆した。
頼朝に、そして義経に、そして夏木マリさん、草刈正雄さんに。数え上げればきりがない、政子さん、大姫さん、……。後白河法皇。
昨年のこと、実は新撰組も夏頃からようやくエンジンがかかった記憶がある。それまではうらうらとした江戸の町を、近藤さんや龍馬さん、桂さん、みんな友人だったような、なんとなくトンデモな毎週日曜の夜だった。口の悪い人達がもうしておった「そのうち、近藤勇は携帯電話をドラマ中に使っても、おかしくない」とか。夏に変わった。
今夏、頼朝の苦渋が滲み出ていた。
政子、舅の北条時政の不安があふれていた。にわか安普請の幕府の屋台骨を支えるのは御家人。それは北条だけではない。河越氏も梶原氏も、内心なんの安堵もなく(まだ平家と戦っている。思い起こせば、東北の雄・藤原秀衡が背後にどんと控えている)、幕府の先兵となって外地に出向いている。
内政は大江広元らの京都官僚が公文所別当、問注所執事を勤めだしたが、御家人達がそれに賛成したかどうかは難しい。
法皇の舌先三寸で、世の中が逆転する危険も十分にある。一ノ谷では、平氏に源平の和睦をほのめかし、源氏には何も言わなかった法皇なのである。その足下に弟義経が絡め取られている。
義経は、検非違使別当の立場で都の治安を確立させ、法皇からは従五位下、昇殿を許された。その間の法皇、頼朝、義経三者のバランスのとりようは、頼朝が法皇にあることを願い出ることで、安全弁が作動した。
義経を、平家追討の大将に任命してもらいたいと、願い出たわけである。
頼朝を主にして考えるなら。
煙たい後白河法皇に願い出ることによって、秩序維持の意思を見せ、法皇のメンツをたてた。
法皇に絡め取られている弟を、水軍を擁した強力な平家にあてることで、どちらかの結果を得る。
義経が負ければ法皇は手駒をなくし、義経も官位返上となり、鎌倉に呼び戻す瀬が生まれる。
勝てば、平家という難物を消滅させることができる。
その際、三種神器を得れば、法皇に対して、圧倒的に優位に立つ。
斯様に、後知恵として見るならば、頼朝は平家が都を再度席巻せぬかぎり、失う物はない。
しかし。
政子がおもしろいことを申しておった。
つまり、頼朝は情の人であり、何重もの鎧を身につけて理をとく、と。頼朝が私情に走っていたなら、義経との和解さえあったかもしれない。つまり、年若い最強の大将として、北条をはじめとした御家人衆の中で、頼朝は強い力を持つことができたかもしれないからである。また、義経に対抗させて、北条一門を引き上げる可能性もあった。
史的には、北条が真に力を出し始めたのは、頼朝死後である。
頼朝は、情をおさえ、京都官僚知識人を内政の中心に置き、殿腹たちの不満は、北条を優位に立たせず、近親をただの御家人と扱うことで、すかし、安定を得た。
この間の中井貴一の名優振りは、なにかしら鬼気迫る雰囲気だった。たしかに、上手な人だ。これが、円熟というのかもしれない。
なお、義経の雰囲気は、ますます好ましくなってきた。力が出てきている。何故なのか。単純に考えてみた。滝田は、義経になってきたのだろう。
吉次が義経の前に置いた、奥州秀衡からの砂金の山がリアリティをみせた。領地も持たない義経が、頼朝からどれほどの自由になる軍資金や生活費(笑)をもらっていたのか、以前から不思議だった。法皇にまかり出る時の衣装など、最近、とみに上等になってきた。朝廷は貧乏だから、検非違使別当になっても、なんとなく、義経は無給だったように思える。
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コメント
最近は週遅れで観てます。
先週の義経の真っ白な衣装は高価そうでしたね。(笑) Muの旦那が心配するように、資金源はどうなってるのか?
ホンマ、Muの旦那も心配事が多いんですね。
オープンキャンパスでどれ位、いい学生が来年は来るやろか?経営も考えんといけない。
思わぬ、目の前に砂金の山!スポンサーがいたんやね。18万騎の平泉王国がね。
どこぞに、大スポンサーはおらんかね?
投稿: jo | 2005年8月 1日 (月) 10時18分
joさん、2005年8月 1日 午前 10時18分
資金源については、北方・水滸伝では、明確に「闇の塩の道」をとらえております。
頼朝はおいても、義経はどうだったんでしょうね。
こういうところ、考え出すと、従前の全ての物語、映画がぼんやりとしてきます。
坂の上の雲で、国債でしたか、イギリスが金をだしたとかださぬとかで、日露戦争も変わったような記憶があります。
さて。
我らの大スポンサーはいずこに隠れているのでしょうね(笑)。
投稿: Mu→Jo | 2005年8月 1日 (月) 12時11分
賢い家来
「毛利元就」でも「織田信長」でも、名将には賢い家臣がいましたね。今度の義経を見ていて、そういう点では(可哀想だったな)って思います。まともな家来は、秀衡からの佐藤兄弟だけでしょう?
頼朝の真意が、義経には読みきれなかった・・。持つべきものは、偉大な教師じゃなく、賢い学生ってことでしょうか。
投稿: wd | 2005年8月 1日 (月) 12時32分
ほんまね・・・・・・。何処にお隠れなんでしょうね?(笑)
お盆には、お墓参りもあるし、老人介護の問題もあるし、色々ありまして、京都に帰ります。
暑い京都は勘弁なんやけど、そうは言えない年代になり申した。お盆の灼熱のもとでの墓参りは大変、草むしりも大変なんやね。
ついでに、王仁博士の碑に挨拶して来ます。
投稿: jo | 2005年8月 1日 (月) 12時45分
wdさん、2005年8月 1日 午後 12時32分
ところがね。最近思うに、義経は、みなさんが考えるほど、甘ちゃんじゃなかった、頼朝の気持も理解していたんじゃなかろうかと、思うようになってきました。
検証は不可能ですが。
つまり、分かっていても、「僕には僕の思いがある」ということでしょうか。
新説・真説は、義経は尊皇だったということです。後白河法皇に籠絡されたのではなくて、明確に鎌倉に一線を画していたという、珍説かな。
彼は。従五位下なんです。昇殿もゆるされたから、殿上人なんですね。
その格式や、名誉は、現代人が想像する以上のものだったのでしょう。
腰越帖なんかは、鎌倉縁故余人の偽作かもしれませぬ。
投稿: Mu→Wd | 2005年8月 1日 (月) 18時54分
joさん、2005年8月 1日 午後 12時45分
終戦記念日以外は、まず、ひまでひまでひまで、しかたないMuですから。北河内にご帰参あらしゃれますおりには、お近くに参上し、犬馬の労もいといません。
やれ法隆寺がみたいの、飛鳥の夏を楽しみたいの、鞍馬貴船で涼みたいの、なんなりとおっしゃってください。
投稿: Mu→Jo | 2005年8月 1日 (月) 18時58分
今回は、田舎であった法事から帰ったのが11時過ぎていましたので、止む得ずパスになりそうです。ヤッパリ、義経は頼朝・法皇・清盛を超越した人物であって欲しいです。
今回、義経役良かったとのことですが、私は五条大橋で弁慶と出会う場面が目に焼きついています。よくビジネスの世界では、「職が人を作る。」といわれますが、「役柄が人を作る」。ということでしょうか。
投稿: hisaki | 2005年8月 1日 (月) 19時13分
hisakiさん、2005年8月 1日 午後 07時13分
優れた俳優は、近代演劇観、映画観ではどうなのかしりませんが、私は一種の憑依ができる人だと思います。巫女さん、シャーマンでしょうか。
対象人物の物まねではなくて、対象人物がのりうつる、と考えています。
昨年の近藤さんも、今年の義経、頼朝さんも、なんとなく140年前、1000年前の人達が、現代に動き出したという雰囲気が湧いてきました。
投稿: Mu→Hisaki | 2005年8月 2日 (火) 05時22分
新説 義経がでましたね。
考えてみると、傍証は沢山ありますね。幼少の頃の育ちが清盛さんという、ご落胤説のある公家風の家庭。
常盤御前が最後に嫁いだのが公家さん。そして、鞍馬寺の生活。ここでは、役小角の流れを汲む山の民との生活。山の民は特別に天皇さまより、特権を認められていたのでは?
そして、奥州王国です、天皇は認める国ですね、そして砂金を膨大に献上して自治を認められていた。文化はこよなく京都を理想とした藤原氏の庇護で生活をした。
最後は検非違使です。この職業は差し障りがあるので、記述できませんが特殊で、皇室と深い繋がりがなければ出来ない。
一の谷の戦いで活躍した道案内は誰なのか?山の民ですね。
思想として頼朝とは全く異なっていたのかも知れませんね。
お盆の帰省ですが、色々と忙しいそうなんですね。又、別途ご連絡です。
投稿: jo | 2005年8月 2日 (火) 11時03分
joさん、2005年8月 2日 午前 11時03分
山の民や修験道や、天狗や、奥州や、そして義経の部下の面々。
宮尾義経を今夏宿題にしましたが、早く読んでおきたいです。NHKだから薄められていますが、義経の扱いが少し、透けてみました。
この回では朱雀の翁、闇社会を束ねる男ですね。薄められているからドラマとしては映えないが、いろいろあるかもしれません。検非違使別当として、義経が朱雀の翁と話を付ける場面がありましてね。象徴的です。
伝説として残る義経の部下達は、佐藤兄弟も含めて(秀衡の息がかかっているという状況から)、表社会とは違いますよね。
なんとなく、義経のイメージが、この夏から、大きく変化していきそうです。Muの心中で。
すでに、義経は「尊皇」に見えてしまいました。
頼朝や北条が、当時の日本や朝廷からは、遙かに遠くにあり、秀衡や義経が「日本」そのものに見えてきました。不思議なのですが、義経は、足利尊氏や、楠木正成に似てきたのです。
義経は、兄弟相克に負けた武将というよりも、裏社会を支えようとして、新興の頼朝・関東武士団に負けた、と一応の所感を記しておきます。
また平泉への逃亡は、敗走というよりも、ともかく外地、飛び地の強大な「基地」に撤退したと、しておきます。
投稿: Mu→Jo | 2005年8月 3日 (水) 10時08分