NHK義経(28)非情も情なりや
承前
今夜は、あらかじめ新聞のTV覧を読んでいて、観たくない一夜だった。
木曾義仲の息子で、鎌倉に人質となり、頼朝の長女大姫の入り婿となった義高が斬首されるという予告を知り、暗澹となった。
清水冠者義高と呼ばれた少年の死は、頼朝の非情さを示す逸話として有名だが、これを楽しむ者は少なかろう。若き夫を実父に殺害された大姫は、その後も体調を壊し、重なる縁談もすべてはねのけて、二十代で世を去ったとのこと。
そもそも義高が頼朝の人質になったのは、木曾義仲のもとへ逃げ込んだ行家を、頼朝の要請をはねつけて庇護した結果である。しかし、兵を起こした頼朝になすすべなく、義仲は和睦として義高を鎌倉に送った。
義高の待遇は悪くはなく、長女大姫と結婚した。
一説に、義高が出奔したのは政子の手引きとも聞いたことがある。娘の婿の立場を悪くしたいと思う親も少なかろうから、頼朝の性格を知り抜いた政子が緊急避難的に逃がした、とも考え得る。
そういう細かなことは当事者以外はだれも知らぬことだろが、義高が殺害されたのは史実である。
そういう頼朝の処断をどう思うかは様々だが、少なくともドラマの中では整合性を保っていた。すなわち、義高を亡き者にせよと言った御家人の首をはねた頼朝だからこそ、出奔を裏切りと断定した。その裏切りは、平家に助けられた頼朝や義経の今の立場と同じく、危険極まりない。だから、斬首とした。
情に流されず、先を見越した判断とするかどうかはむつかしい。
非情も情なり、とドラマの中で呟いた中井貴一の頼朝には、重みがあった。
だが非情も情も、頼朝や義経が無き現代となっては、むなしい。鎌倉源氏があっけなく北条にすり替えられた事実を知る現代人にとっては、「もののふの政治を造るには、源氏でなくともよい」と言った頼朝のセリフさえむなしい。
泣いて馬謖を斬った諸葛亮孔明ほどの説得力はなかった。
さて一ノ谷で義経に生け捕られた平重衡(しげひら:重盛の五男)は、軍目付梶原景時の即刻斬首論を振り切って、鎌倉殿の呼び出しで護送された。頼朝は許し、待遇を与える。しかし実は後日、以前の南都焼き討ちがたたり、重衡の運命は変転するのだが。
かくして義経、頼朝から「京都守護」を命ぜられ再び上京することとなった。
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コメント
今回は、頼朝の苦悩とそれが理解できない義経、目前の剣に動揺せず立派に最期を遂げた義高。人間の度量なんです。義高が凡庸な普通の子供でしたら、また展開は変っていたように思います。それにしても、「義高が、自分のようになったら困るんで、処罰した。」というのが、頼朝の言い分なんでしょうが。分かり易いけど、勝者の理論のように思えました。
MuさんのBlogで、ドラマは素直に観ることの大切さを教えてもらっています。ツイ、俗っぽい、茶化した観方をしてしまいやすくなっていますので。これからも宜しくお願いします。
投稿: hisaki | 2005年7月18日 (月) 09時44分
hisaki さん、2005年7月18日 午前 09時44分
ひさきさんが「茶化し」なら、JOさんなんか、出入り禁止ものですよ。
義経も、来年の功名が辻も、毎週連載予定(笑)ですので、どうぞお気軽に。
投稿: Mu→hisaki | 2005年7月18日 (月) 13時03分