武家用心集/乙川優三郎
さっき読了した。
時代小説の短編集で、内容は以下の通り。
田蔵田半右衛門
しずれの音
九月の瓜
邯鄲(かんたん)
うつしみ
向椿山(むこうつばきやま)
磯波
梅雨のなごり
作者乙川は、2001年『五年の梅』で、山本周五郎賞、2002年『生きる』で直木賞を受賞した。
帯には「静謐な筆で描く時代小説集 己を見失うことなかれ」とあった。
集中、どれもよかったが、向椿山を第一に推す。私は、この年になってはじめて「女」という生命体の心の襞をみた思いがした。まことに、こういうものであるならば、襟を正して、これまでと、今と、これからの世界を、同数存在する「女」を見るに、視点を変えねばならぬとぞ、思った。
だが、知らぬが仏という言葉もある。なまじ、「女」の精神の動きを知らぬ故に、気楽に過ごせてこられたのかも知れぬ、とふと思いもした。
さて、「男」はどうなんだろうと、思っても見たが、男は私なのだから、私が思うところがすなわち男なのだろう。あまり、他の男の精神の動きを考えても、しかたない。滅ぶべき者は滅び、生き残る者は完爾と笑う。古来、そういうものであった。(笑)
ジェンダーとか、男と女とか、よくぞ申すではないか。
笑止千万。
男と女とは、世界を見る目が互いに宇宙人。その深淵を、この作品に読み取った。乙川なる作者、もし男ならば、なぜ男の作者がかくまで男がわかるように「女」の存在の苦渋を描ききれるのだろうか、不思議。それが才能というものなのだろう。
たしかに男女ではない、それぞれの「人」なのだろう。しかし、土台がことなる、性ホルモン構成がことなる、脳の形成が異なる、遺伝子構成もことなる、よって違って当たり前。その違いがここまであるとは、ああ、天を仰ぐものなり。
いつぞや、ミームによって男女の考え方の違いに愕然とした。今度は、時代小説によって、さらに核心に触れた思いがした。
今にして思う、私は男であってよかった。さらに、近親、知古の女達は、まさに女であってよかった。いまさら、性を転換すると、二重の苦渋を背負い込む。このまま、手慣れた「男」であることがうれしい。また、江戸や木幡や葛野の女達、いまさら「じつは、男だったんです」なんぞと、冗談にも言うてくれるなよ、な。
さて、物語。
パターンをひとつ分析してみる。いくつかの短編がそれに類していた。
妻に先立たれ、幼い息子をかかえた男に、これまた幼い娘をかかえた女が、後妻に入る。
息子と娘とは、実の兄妹として育つ。
男が、先に死ぬ。
息子と娘と、後妻が家を保つ。
やがて、息子が嫁をもらい、娘は他家に嫁ぐ。
そして。
娘の実母は病の床に沈む。
看病するのは嫁(義理の息子の、嫁、となる)
そのうち、嫁がおかしくなる。
義理の息子は、義母を実娘に任せようとする。
実娘は実母思いだが、亭主の意向も考える。
その間、徐々に病の深くなる実母は、荷車に乗せられて両家を右往左往する。
すなわち、血縁のない「家」を中心にして、「女」の一生が描かれる。
本来、私がもっとも避けて通る、人間関係の深奥にせまるどろどろしさである。
しかるに、今期、私はこの作品を、晴明な気持で、終始感動しながら、読み終わった。
何故か。
ある意味で単純、そして得難い理由からである。
文体が晴明で薫る。これが第一。
「女」が、いずれの場合にも、背筋を伸ばして、生きる。この姿勢のすがすがしさ。第二なり。
第三に、結論がある。
「男」は、やがてその「女」の姿勢の良さに気がつき、自らも背をすくと伸ばし、生きようとする。
以上もって、この作品集は、実に優れた時代小説であったと、私は識るなり。
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