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2005年6月19日 (日)

NHK義経(24)旭将軍木曾義仲

承前

 法住寺(京都府京都市東山区三十三間堂廻り町)地図

 平家は一旦九州に落ちていたが、盛り返し、一ノ谷、屋島あたりまで東征(笑:最近神武さんのことをまたもや読んでいるので)していた。義仲を追い出すために後白河院は、義仲に平家追討を命じた。その留守中、行家は院の手玉にまんまとノリ、画策したが、平家との一戦にあっけなく破れ河内に遁走した。

 急ぎ帰京した義仲は院の策謀に業を煮やし、僧兵で固める法住寺を焼き討ちし、逮捕監禁した。
 命乞いする法皇への恫喝が「お命はとりませんが、おなじこと。やがて北国へお連れ申します」。
 法皇と夏木マリさんが、死より辛い顔をしたのが印象的だった。
 Muは北陸越前生まれだから、わが心の故郷を一天万乗の君がかくまで怖れ忌む様子にがっくり。

 ~となると。
 もろもろのことを含め、頼朝と手を組もうとした院を法住寺にあぶり出し、旭将軍となった義仲の心中が分かってきた。
 木曽軍の都での乱暴狼藉については、義仲、将として不手際だった。万死に値する。
 しかし実情は飢饉が数年続いており、都の住人も木曽軍も、餓死寸前だったという。また、もともと寄り合い所帯の木曽軍だから、軍規を保つのは無理で、かつまた兵達もつぎつぎと散逸していったようだ。そこから、去年信濃を出でしには五万余騎と聞こえしが、今日四宮河原をすぎるには主従七騎となりにけり、という名文句がうまれたのだろう。おそらく、都を席巻した五十余日間のうち、終盤は木曽軍、千騎にみたなかったはず。
 ……

 さて。
 てをかえしなかえ狼虎同士を競わせ弱体化させていく法皇の手練こそ、都振りの極み。兵なく金なく人無く、ただ弁舌と狡知と、威厳と、そして院宣だけがよりどころだった。よくぞ踏ん張ったものである。当時のお上、院はもとより、公卿たちも「いのちあってのものだね」状態が長く続いたのだろう。
 それにしても、朝廷は、したたかというよりも、粘り強いもんだと、今夜つくづく感服した。それが、京都の「姿」ともなった。

 宿題は。
 宿題と言うよりも、想いだが。かくまであしざまに描かれた木曾殿が、なぜ後世平家物語では指折りの名文に包まれ、また義仲寺があり、芭蕉が偲び、現代のMuが日々思い返しては、わが胸をうつことになったのだろう。
 今夜の描き方は、「愚かな」信長、という風情だった。

参考サイト
   『平家物語』を読むための六波羅・法住寺殿復元図
  後白河天皇法住寺陵
  木曾殿最期[MuBlog]

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NHK義経」カテゴリの記事

コメント

六波羅

地図を観ていまして、六波羅(六原)の山手から清水さんへの一帯は鳥部野ですよね。

平安時代いや、もっと古いかも知れないが、平安京に桓武さんが遷都あそばされ、人口が増え、葬送の場となった場所ですね。

珍皇寺の小野タカムラさんでしたか?昼は公務員で夜は閻魔さんの番頭されていた。(怖い人やね)

六道辻。平安時代は庶民は此処で、死人とお別れしたんですかね?清水さんの谷は死人が累々であったそうだ。

鳥部というのが、気になりますね、秦氏の一族かそれとも、物部守屋に仕えた鳥部なのか。

いずれにせよ、六波羅より山の方は墓場だったわけですね。平家武家政権以降、武門は六波羅ですが、墓場の傍というのが気になります。

投稿: jo | 2005年6月19日 (日) 23時17分

jo さん、2005年6月19日 午後 11時17分
 博覧強記のJO爺さん。
 それで、もっそりと考え込んでおりましたが、「武士」というのは相当に、公家社会から蔑視されていたのと違うでしょうか。

 以前、京都文化博物館でみた保元平治乱ころの、武装集団の行列人形は鬼気迫るものでした。すね毛丸出しの裸足で鎧をつけ、手にも槍穂先にも生首をぶら下げて、髭だらけの顔して、都大路をのし歩いている姿でした。

 たしかに、殺人鬼集団に見えました。
 だから武士は、古来、黄泉の国に近い穢れた存在として、墓の近くに住まわされたのか住んだのか。
 地図をみていてそんな気がしました。

 神道や仏教の穢れ思想の心髄はよくわからないところもあるのですが、生命はみんな大地に溶け込んで行って、そして循環している、という別の考えからみると、墓こそ安住の地かもしれないのにね。

 だから、Muはむやみやたらに古墳が好きです。
 穢れというよりも、浄闇を味わいますね。
 ただし当時の朝廷、公家達は、おそらく違ったのでしょう。御陵の奉幣使になっただけで、正月参賀を慎んだ時代もあったようですよ。(その逆もあるから、人の心は分かりませぬが)

投稿: Mu→JO | 2005年6月19日 (日) 23時59分

博覧狂気のjoどすけど・・・

Muの旦那は木曾冠者はんには特別のお気持ちがおありですね。以前のBlog記事でそう感じていました。

さて、神道の忌み嫌う、穢れ、です。子供の頃の北河内では家族、親戚で葬式があると、一年間は神社の鳥居を潜れませんでしたね。

神は穢れている人間がお嫌いなんやね。家の玄関に置く塩、葬式帰りには今でも家内は玄関に飛んで来て、この時とばかりに塩を投げつけて来ます。

誰かが書いていましたね、神道とは潔斎、祓い、に尽きると。

投稿: jo | 2005年6月20日 (月) 09時37分

今回は、法皇さんが主役みたいでした。ご指摘の朝廷・法皇の根性が凄かった。京都は、いろんな人々がやってきて活躍しますが、京都人が矢面に立った話はあんまり聞いたことがありません。京都人の恐ろしさの一端を見たように思いました。
義仲は横暴、義経は頼りない。平家は落ち目で、やっぱり頼朝という筋道だったんでしょうか。

投稿: hisaki | 2005年6月20日 (月) 10時41分

joさん、2005年6月20日 午前 09時37分

「神道とは潔斎、祓い、に尽きる」
 とまあ、そんな風にも思えますが、神道にも教派があるし、時代によって変化もあるでしょうね。
 神話になってくると、汚濁、腐敗、穢れの中から神さんが生まれたり、五穀豊穣、花が咲いたり稲穂が実ったりという印象も多いから、なんでもかんでも禊ぎしてお祓いして終わりとも思えません。
 けれど、「水に流す」なんて言葉は、禊ぎ的ですね。

投稿: Mu→JO | 2005年6月21日 (火) 04時30分

hisakiさん、 2005年6月20日 午前 10時41分
 不思議なのは。
 明治くらまではまともな電灯も電信もなかったわけでして、パソコンもなかったし、ニュース番組も、新聞記者もいないかったろうし、……

 政治の中枢の人達は、情報をどうやって集めて集約して判断していったのだろうか、という疑問ですね。
 つまり、判断材料ですね。
 将棋さしと同じで、だいたい頭の中で全部想定して、行動していたのかな、と思った朝でした。

投稿: Mu→hisaki | 2005年6月21日 (火) 04時41分

義経と義仲

 義経→義仲→武士→殺し→祓い、禊ぎ
なんやエライ議論になってきましたなあ。

 神道が(祓い、禊ぎ)と何故関係しているのか?
については梅原猛さんが彼の論を展開していますね。
ハレとケというんですか、そういうメリハリをいつのころだったか、政権を取り、それを安定しようとした輩が考えたのではないか、というのが梅原古代学の基点にあると思います。
梅原学説ではそれをやった個人まで特定しているので、日本の学者さんたちから疎まれているようですが。
 
 神道というのは仏教とはまた違うのですね。
不信心な当方はそういう区別もつきません。
西方浄土と地獄。
天の上と地の下の黄泉の国。
西洋風に言うと、天国と地獄。

 JOさんもいうてはりますが、彦さんことMuさん、義仲とか三島はんとか(もののふ)がお好きなようですね。
なんや、越前の方面にナンゾ(訳が)ありそうですな。
水上勉の(越前竹人形)を思い出しました。
彦さん、骨相が似てはるんですね、水上はんと。

 すんまへん、つい(個人的な話)してしまいました。

投稿: ふうてん | 2005年6月23日 (木) 00時32分

ふうてんさん、2005年6月23日 午前 12時32分
 ご無沙汰。心身は50%水準なんですが、悲しいくらい日々おいまくれれていました。時間と時間の間に休憩がないから、昨日なんぞ、5時起床、7時登庁、準備、講義、会議、昼食、会議、会議、5時に会議を中座して市内出張、会議、8時終了、食事会、とまあ、まれに企業の幹部なみの状態になって、それが今週似たような日々が続いて、息ができないような。でした。
 こういう事が年中続いていたら、鈍感でないと死にますね。(笑)
 なのに今日もまあ、午前講義二つ、午後会議(笑)

 まあ、Muはおっとり15時間読書とか、15時間数日マシン相手なら、涼しい顔してられるのですが、人に倍して人と話すの嫌いというか苦手なので、拷問ですよね。小さなグループでの論議とかなら、茶飲み話のノリですが、フォーマルなのが続くと緊張で肩が痛くなり、脳がとろけて、あああああ、です。
 小泉首相とか、米国大統領って、よく日々プッツンにならずにいけますね。ああいう緊張(核ボタンとか、不意の攻撃)が続くと、それも、慣れなんだろうか。
 ふう爺さんも、開発の締め切り目前にして、トラブル起きると家に帰らなかったって昔言ってなすったけど、すべからく、強靱な神経と、無敵の体力がないと、現代は生きていけないようですな。

 蒲柳の質、ひ弱なMuはかくしてとうのむかしにどろっぷあうと、ぎぶあっぷ。今年は、ねていたところをたたきおこされて、会議、会議、会議、会議、会議、……。

 という日々でした。

 おっと、祓いでしたね。
 古神道と中世神道、現代神道とはみんな違う気がします。
神道は仏教によって相当に変化したし、人(現代の専門家)によっては、仏教のおかげで長らえたとも、書いてました。いろいろ反論もありますが、まあ、気持ちを静めないと、書けません。

 さあ、Muは、ちょっと勉強したいです。
 
 ところで、水上さんのことですね。
 ええ、ええ。
 まあね。
 越前うまれの男って、うむ。
 重くって、暗いとこありますよ(笑)

追伸
 梅原さんのことね。いろいろな気持ちが錯綜して、いままできたけど、そろそろ読み直したいと日々感じています。Muは二十代の頃、十字架、法隆寺、太子さん以来です。その前に、三輪山が神々の流されたところとかを、昴かなんかの連載で読み始めていました。
 不比等さんが鍵なんですかな?
 大昔の昔話ですね。

再見

投稿: Mu→ふうてん | 2005年6月23日 (木) 07時43分

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