うじがわのさくら:宇治川の桜、先陣争い、柿本人麻呂
宇治川先陣の碑(京都府宇治市宇治)マピオンBB地図
承前(MuBlog)
久しぶりに宇治に戻ってきたという感がある。今春は京都府、京都市を桜さがしてめっぽう歩き回った歳だった。桜ばかり写して掲載していると、皮肉なもので、少ないコメントもメールも「伏見港の柳がよろしい、あれこそ一番」と言われるばかり、うれしいような、ちょっぴりむっとしたりで、人間とはおもしろき存在である。たしかに、伏見、そして柳を見直した、さすがに「伏見伏水」である。これはこれで年々歳々行ってみよう。鳥せい、月の蔵人、カッパ黄桜、魚三楼、そのほかMuも知らない美味しい料理やお酒があるはず、景観と味からして日本国内でも、伏見港界隈は一等優れた地だったのだろう。
とはいうものの、宇治。これまたよろし。電車で10分、車で10分、朝夕行ける。
その桜ですが、実は、当日は雨でした。承前の恵心院を朝の七時半過ぎにでて、宇治川沿いを歩き、対岸の平等院に移った、その経緯です。
うじかわ・うじはし
「千三百年以上もむかし、大化二年(646)に初めて架けられたと伝えられる、わが国最古級の橋です。
その長い歴史のなかで、洪水や地震などの被害はもちろん、戦乱に巻き込まれたことも数えきれません。しかし、橋はそのつど架けなおされてきました。ここ宇治が、交通上重要な場所であり続けたことのあらわれでしょう。~」
ということは、この川を遙かに遠く下ったあたりに住み処をもつ鎌足さんあたりの発案なんでしょうか。ともかく、ものすごく古い歴史がありそうです。宇治が交通の要所である事情は、川を上れば琵琶湖に着きますし、途中進路を変えれば信楽を経て、三重県上野市まで行けますね。南に下れば奈良、飛鳥。川を下れば淀川に達します。陸路も水路もクロスするところだったのは、事実でしょう。
また、宇治天皇の故地ですし、藤原家の別荘地帯ともなった由緒正しき土地柄なれば、橋もおりおりに立派なものが架けられたのでしょう。
宇治神社前、岸辺の孤桜
朝霧橋と橘島の桜
柿本人麿歌碑:やそうじがわ
人麿さんの歌、よく知らないのですが、高市皇子が亡くなったときの挽歌、ものすごく壮大な長歌「虎かほゆると~」というのは時々思い出します。高市皇子は天武天皇の長男だった人で、母親の家柄から、天皇にはならなかった方でした。
人麿がパトロンを持った歌人だったとしても、当時の政治、世相に強く反応して歌われたはず。近江を偲び、さらに勝った天武天皇・皇子高市を偲ぶ、両方とも心に感銘をもたらす歌でした。なにがあったのだろう。
このあたりのことは、梅原猛先生を再読する必要にせまられるところです。
朝日焼窯芸資料館あたり
宇治川桜姫
宇治川先陣の碑
先陣争いについては感興も湧きません(と、冷淡な)。ただ、この宇治川の京都よりに義仲軍、奈良よりに義経軍が対峙したことの、歴史的風景は、胸に迫ります。
佐々木、梶原両名が馬乗り入れたのですから、それだけの瀬がないと無理です。だから、場所がどこだったのか興味は湧きます。この石碑のあたりとは、誰も言っていないはず。渡河作戦は昔から難しいことですから、両軍どこで相まみえるか、どこから渡るか、渡ってくるか、すでにスパイ斥候が多数おったのではないでしょうか。
このたびは桜については触れもせず、ひたすら宇治橋と人麿と、そして不承不承先陣争いに言及しました。しかしそぼ降る雨の中(当日)、ぐるりと360度このあたりを見回して、「宇治は良き地なり」と呟いたのも事実です。川と橋と山と、寺社、そして伝承・歴史。これはMuのお好みのようです。
高校生のころから宇治に出没していたのですが、当時の記憶では、住んでいた嵐山とこの宇治とに、妙に同質性を味わっておりました。両者共に、平家物語、源氏物語の主要舞台なのです。それに、{川、橋、山、寺社、伝承、歴史}。どこにでもありそうで、よく考えると、宇治と嵐山とは珍しい対なのかもしれません。
このこと、また、今度考えてみます。
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コメント
Muさん
この写真群は記事で掲載される前に、何度も見させてもらいました。楽屋裏を覗くようで、気が咎めましたが、ま、許してたもれ。
宇治については、私も何回も記事を書いていますが、日本の歴史では重要極まりない場所であります。
今まで、あまり注目されていないのが、不思議であります。私も過去の記事の目次を作りますので、近いうちにリンクします。
人麻呂さんが出てきましたね、”明石のとより、ヤマト島みゆ”ですね。明石の人丸さんは、連休は津和野に行かれたそうで、ふうてん親爺と私に、貴婦人という機関車の写真が届きました。
しかし、最近のMuさんの記事は力が入っていますね。
村上龍さんの記事に関しては、私は本を一冊も読んでいないので、コメント出来ません。
しかし、息子がファンでして、目の前の本棚には彼の作品が殆ど、ありますよ。勿論、毒カエルが福岡ドームに落下する本は有りませんがね。
私は彼がテレビで”Ryu's Bar"とかいうトーク番組をやっていましたが、時折観てました。
それと、サッカーの中田君が友達なんですよね。
そんなわけで、昔から気にはしていた作家です。長女のふうてん娘も気にしていた、人で同じ武蔵野美大ですからね。
いけません、宇治川の話が脱線しましたね、ともかく、この場所から八幡にかけて、Muさん小説を書いてください。
投稿: jo | 2005年5月 5日 (木) 21時36分
桜シリーズの大トリ?
2005桜シリーズの大トリに宇治を持ってきましたね。
1300年も前の歌の(碑)があるような土地柄なのですねえ。
国立の近くに(鎌倉街道)なんてのが走っていますが、まあせいぜい800年くらい前でしょうね、鎌倉幕府が出来てからだから。
柿本人麻呂の歌を読ませてもらって(水底の歌)を読み直したくなりました。
権力闘争に捲き込まれたのだろうとか刑死だったのではなかろうか、などの歴史的な経緯は想像するしかありませんが、伝わっている(歌)は一応、確かな証拠物件と考えられます。
略体、非略体、長歌と段々と日本語の表記が成熟していく様を人麻呂の一生とからめて梅原猛さんは表現しています。
彼の説が正しいとするならば人麻呂どのは日本語表記の大恩人ということになりますね。
僕は勿論そう信じる方でして、最高の文学者が表記に関しても最も鋭い感覚を持っていたはずだと思うのです。
日本の国家が成立した700年前後・・・・思えばホットな時代だったのでしょうねえ。
投稿: ふうてん | 2005年5月 5日 (木) 21時39分
joさん、2005年5月 5日 午後 09時36分
龍さんのことは別口として。
宇治は、うじのわきいらつこ以来の事ですよね。
それと、気になるのは、歴史推理作家井沢元彦さんがね、天智天皇の真の墓が宇治のどこらにあるとぼかしてかいてはるんです。
天智天皇は実は木幡のあたりで殺害されたとも、いうてはりました。ところが、ついちょっと木幡をしらべてみると、えらい広域でね、山科あたりも木幡とか~
……
要するに灯台もと暗し、木幡も宇治もえらい古代史にどっぷりの地域だったと、さ。
ここらは古代史家Jo先生のご高説、訓導にしたがって、後日踏査いたします。
こう、ご期待。
投稿: Mu→Jo | 2005年5月 5日 (木) 23時13分
ふうてんさん、2005年5月 5日 午後 09時39分
まだまだ桜大トリじゃござんせん。
すみません。
まだ桜はいくつもあって。
Muが選ぶ桜姫べすとテンあたりが、今年の桜〆です。
人麿さんですが、やはり「水底の歌」になりましょうか。ただ、知る限り、人麿さんと宇治との繋がりがよく分かりません。むしろ、奈良市猿澤池とか、三輪山あたりに縁が深いようですな。
それと、近江朝ですから、いまの大津市とか、さがせばなにかでてくるのでしょう。
この人麿歌碑が宇治にできたのは、事情がなんかあったのかもしれません。ヤソウジガワ。
宇治に立って、琵琶湖、近江朝廷を思い出す、偲ぶなんてことは、人麿さんくらいのイメージ喚起力がないと無理かも知れませんな。
投稿: Mu→ふうてん | 2005年5月 5日 (木) 23時23分
朝日焼の検索で入ってきましたが、相当奥が深そうなので、またやってきます。
今日は時間がないので足跡だけ残してゆきます。
投稿: hosai | 2005年6月12日 (日) 08時58分
hosaiさん、2005年6月12日 午前 08時58分
「ちゃわんや15世 豊斎のblog」
http://blog.goo.ne.jp/hosai15/
blog、ちらと拝見しました。お仕事、楽しそうですね(笑?)。それと、「半島を出よ」が載っていたので、焼物とうまくかみ合わず、びっくりしました。
そうそう。勝手に朝日焼建物を、遠望盗撮してしまい、もうしわけなかったです。
投稿: Mu→hosai | 2005年6月12日 (日) 10時27分