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2005年4月10日 (日)

NHK義経(14)源三位頼政の宇治平等院

承前

鑑賞前
 今夜の義経は、タイトルが「さらば奥州」となっていた。しかし、Muがきがかりなのは、源三位頼政(げんざんみ・よりまさ)のことだ。頼政の墓所は、いくつか伝承があるようだが、Muの住む宇治市の平等院に「最勝院」があって、そこに墓がある。
 平等院近辺の地図をみてみると、鳳凰堂の隣になる。

外からみた平等院観音堂
 頼政が自刃したのは、「扇の芝」という箇所で、これは地図の「観音堂」と地図カーソルの間にある塀の内側に当たる。この写真は右手に観音堂の屋根が見えるが、その塀との間で頼政は辞世を残したのだろう。この詳細地図は平等院公式頁の「平等院マップ」を参照されたい。
 ちなみに写真の階段を上がると宇治川の堤で、全体が見渡せる。この川をはさんで、平家の知盛(とももり)らと、頼政親子が対峙したのだ。しかし、頼政は当時八十に近い高齢だったはず、思いやられてあはれなり。現代なら百歳前後と考えてもよかろう。
 なお、地勢として見てみると、多分おそらく、以仁王(もちひとおう)や頼政親子は大津の三井寺から、この宇治川上流にある天ヶ瀬ダム沿いの道を、この地宇治まで敗走してきたのだろう。以仁王はさらに奈良へ逃れたが、途中討たれたようだ。

盗撮鳳凰堂
 実は、この二葉の写真は、過日早朝の宇治川桜を観に行った時に写したものである。京阪宇治駅到着が午前七時だったから、対岸の恵心院は入れたが、その後八時過ぎの平等院は入れなかった。そのせいもあるのだが、堤に上がって垣根の間から鳳凰堂をともかく盗撮しておいた。もちろん、古来粋な計らいがあって、庶民はこの堤から、ありがたーい阿弥陀さまを拝むことが出来たようだから(ほんとかな?)、Muが盗撮しても、まあバチは当たらないだろう。正面からの鳳凰堂盗撮もあるのだが、なんとなく掲載は控えておく。

 さて。
 今夜は頼政公のことだけではなく、福原遷都や、義経一行の奥州からの旅立ちなどがエピソードになっている。福原のことは神戸なのでよくわからない。「義経」を観て把握するつもりだ。
 そうそう、ときおり「西八条の清盛館(やかた)」が解説にでてくるが、思い立ったので地図を示しておく。実は、この角を南から左折して八条通りを西行するのがMuの、車で葛野へ行くときの道筋なのである。付近にワコール(本社は京都なんです)なんかがあって、それが目印になる。

 入道清盛さんの「西八条の館のあった所」(MSN地図

鑑賞後

 また、今夜22時にお会いしましょう(笑)
 ……
 そろそろ21時、ふーっつ、さっき見終わりました。
 今週の附録は宇治でした。NHKというかプロの手にかかるとどうしてあんなに綺麗に写るのでしょう。実は、先週某日雨の中、宇治橋にたって中の島の桜を撮ったのですが、レンズに水滴がかかり、ぼやけ、風で傘に力がかかりブレ、ようやく撮れたのは傾いていて、まことに撮影というのは静止画も動画も、まるで生き物相手というか、難しいですね。
 しかし、宇治が平安朝以来別荘地であったのは事実だし、かの紫式部姉さまもこの地を題材にして源氏物語の残り十巻を書き上げたのですから、佳いところであるのは確信をもっています。ただ、NHKの映像とMuの映像の違いに、あらためて愕然とした、それだけのことです(笑)。

 まず。
 丹波哲郎さん扮する入道頼政さんの戦(いくさ)ぶりですが、なっとくしました。77歳の高齢、老将の最期として雰囲気がありました。長身、頬骨のうきあがった丹波さんならではの台詞まわし、廻りの喧噪とは浮き上がった、放心した目つきと声調、そういうズレが宇治平等院での戦をよくイメージしてくれました。
 もともと阿弥陀様の膝元での戦というのはそぐわないものですが、出家した老将にとっては、生と死とが画然とせぬままに終結を向かえる地として、平等院は本望だったのでしょう。
 なお、以前から院内「観音堂」で亡くなられたというイメージがあったのですが、NHKもそういう雰囲気でした。

 次に。
 女優さんが多い番組です。もちろん先年の新選組!が、男優陣でかためた残映もあって、強く感じるのでしょうが。ただ、政子にしても巴にしても、時子(清盛の奥さん)にしても、あの当時は、後世よりも夫婦ないし男女がペアになって活動し、相談し、陰謀し、働いた感が強いです。だから、政子も、巴も、時子も、予告にでた静も、もしいなかったら、歴史の動きがわからなくなる、それほどに力があったのだと思います。
 丹後局と後白河法皇と申せば、後世では、阿野廉子(あのれんし)と後醍醐天皇の関係を思い出しました。
 今夜の夏木マリさん、なんちゅうか、生き霊じみてよかったですね。もちろん、後白河さんにぴったりでした。

 次に、男優陣ですが。これはエピソードからみで、清盛さんにまとわりつく怨霊、頼朝さんを押し出す北条一門、頼朝を救う梶原景時の存在感。そして奥州に目をやれば、出立せねばならぬ義経の心情、押さえる父性・藤原秀衡。一方、信濃の義仲。短時間にマルチに表現するこういう形式は近代以降のものなのでしょうか。ただ、それほど違和感なく次々と場面転換を受容していたMuも、あっぱれ現代人なのでしょう。

 今夜の最後。
 実は、宇治で「宇治川戦陣争いの碑」を撮っているのです。これは、後日に義仲軍と義経軍が宇治川をはさんで、義仲軍が敗走したことの記念碑です。というよりも、宇治川は大津の瀬田川と同じく、西欧のノリでもうしますと「ルビコン川」みたいのものですね。そこを渡ると後戻りできない、川。そこにかかる宇治橋、瀬田の唐橋。
 歴史は時代や所をかえて、類似点があるようです。

参考サイト
  平等院公式サイト
  宇治平等院(MuBlog)
  宇治平等院と頼政のページ

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コメント

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 要するに、現在のココログは、スタイルシートの扱いで、黒字に白枠を使えないようです(IEの場合)

投稿: Muからのお知らせ | 2005年4月10日 (日) 10時48分

梅翁さんからの連絡で、
 ココログのページ中央幅を500ピクセル固定にしました。
 これで、当面ブラウザIEでも、うまく見られるようです。

(なお、これまでは可変にしていたので、MuBlog は画面一杯にも、小さくもできました。合わせて中央領域も、幅が変化したのです。しかし、しばらく我慢します)

今回の件、ネットスケープと、ファイアーフォックスでは、うまくいっていたのですが、IEだけに生じた不都合でした。

投稿: Muからのお知らせ(2) | 2005年4月11日 (月) 00時53分

会社のWindow2000、IEからは大丈夫です。

頼政敗戦、頼朝挙兵、義経参戦、観ました。

今回の大河は必ず観ていますね。気楽に観れるのがいいんでしょうか?

しかし、律令体制が崩壊し平安時代が終わり、新しい農園主である武士が台頭する。しかし、依然として天皇の権威、上皇の権威、が存在する中での、歴史の大回転。

司馬さんによれば、関東に入植した朝鮮半島からのモンゴリアンが馬を育て、肉食を行い、戦闘力ある武士団が出来た。と、言われていました。

さて、次回は兄弟の出会いですね。腰掛けた石が今も残っていますね。(頼朝、義経が座った石)

投稿: jo | 2005年4月11日 (月) 09時25分

joさん、2005年4月11日 午前 09時25分

 このころの都人は、もう肉食はさけたのだろうか。
 このあたりのことは、不思議です。
 あんなおいしい肉類をすてるなんて、正気の沙汰じゃないな。
 で、Jo話のどっかに、関東へのモンゴリアン入植があったような気もしますが、……。とすると、うむむ、時代は1000年ころでしょう。モンゴルは13世紀でしょう。
 ああ、義経がジンギスカンになったんだから、時代は合うね(大笑)

投稿: Mu→JO | 2005年4月11日 (月) 18時14分

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