0501301・NHK義経(4)鞍馬の修行
さて日曜の夜がやってきた。いつもは義経を見終わってから書き出すのだが、そうすると書き終わるのが夜も11時ころになるので、睡眠不足になりがちなので、フレーム(枠組み)だけは事前にしるしておこう。
朝刊のTV欄をほんのちらっと眺めてみると、今夜は清盛が坊主になり心身すぐれず、義経は敵(かたき)でありながらその身を案じる。
義経は少年から青年になるようだ。
今回の主役は兜がよく似合うな。オタッキーとか、そうそうタッキーいう愛称らしいが、むかし、石原裕次郎さんの恋人か奥さんかは、なんとなく、タッキーとか呼ばれていたようだが、はて、ああ「ターキー」だった。
また、いよいよ鞍馬での武術(幻術?)修行が始まる。以前から義経は忍者だった説を耳にしているが、どうなんだろう。
それから弁慶がでてくるようだ。彼については、大昔、常陸坊海尊とかいう流れ者坊主の演劇をみたような記憶もあって、海尊と弁慶とが兄弟とかいう変な記憶も残っている。
昔の記憶を確かめるのは、最近しげしげとやっているが、まあこれは一種の野暮かもしれない。
記憶の変化はうけいれておこう。と、すると今夜のみどころは義経忍者説かもしれない。
さっき目元の下まで温泉の素湯につかったので、そろそろ番組が始まる時間のようだ。マシンをおいて深呼吸しよう。(あと、30分もあるが、せかせかとするのがしんどい)
……
見終わってほっとしています。
しらぬまに時間がたってしまいました。まだ義経世界に慣れていないので、ひとつひとつを、配役も台詞も確認している状態です。
来週は京の五条の橋の上、大の男の弁慶が、長い長刀ふりかざし、……だからわかりやすいのですが、今夜のエピソードは修行でありました。遮那王が天狗と立ち回りをするところはよかったですね。義経が船を八艘も飛び回ったという伝説は、そのころの天狗飛びが役に立ったのかも知れない。
それに、けっこう難しげな兵法書を読んでいました。寺に修行に入ると読み書きは一応出来るようになるので、よかったです。
延暦寺と園城寺との確執なんかはよく調べないとわかりません。それに南都興福寺もからんでくるのだから、当時の寺院はどういう性格の集団だったのか、すくなくとも現代のようではなかった。後白河法皇も、清盛も髪をおろしているのだから、逆にお寺の言い分を聞かざるをえなくなる。そして幼い牛若らの命をとる代わりに出家することで現世の掟から別の掟に変わる。お寺には相当な力があったのでしょう。
法王の院宣すら効力が薄くなるくらいだから、鴨の流れと賽の目と、比叡山山法師の力は世俗権力者の力をもってしても、動かすのが難しいようでした。
それにしても、僧兵。これは遠く古ヨーロッパの、ローマとの対立、カノッサの屈辱、聖職叙任権問題、などなど世界史的な問題だったのでしょうか。ええ、つまり十字軍は一種の僧兵、……じゃなかったか。うむ。
僧兵。
これは、仏法を守護する神兵みたいな、……またまたおかしくなった。
むつかしい。
で、今日の義経は目立つところはなかったけれど、おタッキーのお披露目というものでしょうか。
五条橋該当の橋が少し小さかったのがイメージを狂わせましたが。
まあ、よろしいのでしょう。当時は。
番組終了後のゆかりの地案内はよいですね。鞍馬山、行ってみたくなりました。まだ寒いでしょうね。
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コメント
さすがです。短時間のうちにこれだけの文章を纏められるんですから。体調を崩されていたようですが、完全復活です。
今日の義経観ました。私なりに感じたところは、
①天狗から兵法を伝授されるところの、天狗の鼻を折ったところで皆伝となるところです。分かりやすかったです。
②五条の大橋に、薄い絹織りを被って女性のように美しい義経があらわれるところです。あのように美しいスタイルは、能によって考え出されたことが、市立図書館で借りた「歴史探偵団がゆく日本史が楽しい」(文藝春秋)の「謡曲の義経」で論じられていました。私の読み方が不十分かも知れませんが、たしかに荒々しい武士のイメージとは違っていました。このこと、興味がありますので、いろいろ読んでみたいと思っています。
来週の日曜日の夜が楽しみです。
投稿: hisaki | 2005年1月30日 (日) 23時07分
hisakiさん (1月 30, 2005 11:07 午後)
天狗の鼻折れはおもしろかったですね。しかし、実は面の下から誰がでてくるか迷いました。鬼一さんの美輪さんが出てくるとは思わなかったのが、いささか悪達者な見方をしすぎと、反省しきり。(鬼一の配下で、後の義経の強力な部下の一人かな、と思ったのです)
五条大橋は来週としても、弁慶の装束と義経の装束、ああいう一般化されたイメージをみて、ほっとしました。そして今年の義経は「これなんだ」と納得しました。内心は、先年の奇想天外な新撰組解釈が残心しきりで、今年の義経をどうみればよいのか、解らなかったのです。
しかし、それこそ鬼一の台詞じゃないが、「あるがまま」、日本の多くの人が幼少期から知っている義経、とそうみればよろしいようで。じつに義経の女装も、弁慶の仁王立ちもサマになっていましたね。
なお、古来女装は、やまとたける以来、義経も、大塔宮も、日本の英雄は男前だったらしいです。つまり、女装しても変に見えないくらいに、みんな宝塚だったんでしょうか(爆笑)
もっとも、吉良上野介が炭小屋で女装して隠れているのは、ちょっとはずれているようですが。
投稿: Mu→hisaki | 2005年1月30日 (日) 23時25分
昨夜は私も、番組を楽しませて頂きました。
義経の戦法は正統派の武士の戦法ではない。軍学とよばれる部類からは程遠い戦い方をしています。その秘密が鞍馬山にあるんではないでしょうか?
時代は違いますが、楠木正成も同じように、ゲリラ戦法、相手の裏をかく、少数精鋭突破、忍者が味方にいる、山での戦いが得意、山伏からの情報、・・・・。
鞍馬山での修業は面白かったです。天狗相手に修行ですからね。
投稿: jo | 2005年1月31日 (月) 12時48分
joさん (1月 31, 2005 12:48 午後)
1.義経流という忍者の流派があってね、跳躍術が基本らしいね。
2.物語伝説では、太公望が記した(嘘と思う)、六韜(りくとう)という中国太古兵法書を鬼一法眼がもっていて、義経は鬼一の娘と懇意になり、娘に父の持つその兵法書を盗ませたとか。
3.忍者伝説、六韜伝説と、いろいろな人が判官の特異な戦術を、解き明かそうと、理屈付けをしてきたようですね。
投稿: Mu→Jo | 2005年1月31日 (月) 16時34分
先日テレビで 義経流派の剣法を放映してましたね、確か九州方面でした。
そう言えば、跳んでましたね。鞍馬山の土地は木の根っこが地表に沢山でてますから、跳んでいないと、転ぶね。
忍法ですか? 面白そうやね~~。山で修行すると役小角のような妖怪じみた能力がつくんでしょうか?
私、大学時代4年間、年間100日も山で修業したけど、妖術は身につかなかったな~~。(笑)
投稿: jo | 2005年1月31日 (月) 16時44分
joさん (1月 31, 2005 04:44 午後)
義経流派が九州とは、ちとげせないな。なにかいわくがあるのかもしれませんね。
てっきり奥州と思ったが。
いや、JOさんのは妖術です。
人、お客たらしこみ妖術。だから、お仕事がさかんなんですぜ。
投稿: Mu→Jo | 2005年1月31日 (月) 18時48分
Googleに聴いてみました。
鞍馬寺は鑑真和上の弟子で中国の武術やね。その後、鞍馬寺は天台宗に改宗して最澄の伝えた中国の武術と混じる。
その後、鞍馬の武術は何派にも分岐するそうな。鞍馬楊心流が鹿児島に伝わり、(免許皆伝)明治の時代では警視庁に流れが行く。
詳しく説明が有りました。私がテレビで観たのは確か九州でしたよ。
投稿: jo | 2005年1月31日 (月) 21時51分
追加ですが、最近は密教の伝来と土着の山岳信仰との合体がどのように、日本の文化というか、精神に影響を与えたか?
すこし、真面目に調べてみようかな~~~と、考えているんどす。
投稿: jo | 2005年2月 1日 (火) 08時42分
joさん (2月 1, 2005 08:42 午前)
修験道、山岳信仰、山伏、行者、役行者……。
このあたりは、Joさんの論考が欲しいですね。
いま、磐船神社の見学記をまとめていますが、少し深入りしそうでなかなか、記事が完成しません。
ひとつは、諸説入り乱れているのと、もう一つは、たとえば磐船神社も昔は行場になっていたようなのです(現在も残っているようですが)。そうすると、仏教とも神道ともつかない、土俗の入り交じった、なんともいえない世界なので、イメージが混乱してきますね。
磐船神社については、結局、そういうのを忘れたふりして、数日内になんとかケリを付けますが、……
昔ね。和歌森太郎『修験道史研究』平凡社のを読んだ記憶はあるけど、中身はすっきり忘れている。カレントな、佳い本あれば教えてくださいな。
投稿: Mu→Jo | 2005年2月 1日 (火) 09時49分
先生、
私が中学生の頃に、
鞍馬の山の木の根が地面から盛り上がってうねっているところで
ホームビデオを撮影したものがあります。
もちろん、修行してたわけじゃないですよ。
義経は、あんなところで飛び跳ねてたんですね。
投稿: 羊 | 2005年2月 1日 (火) 14時19分
羊さん (2月 1, 2005 02:19 午後)
あそこは、大昔からああだったんでしょうね。
鞍馬あたりは、必ず、京都のミステリゾーンにあげられますね。
なんども行きましたが、気持ちの良いところです。
しかし、NHK義経なんかみていても、あの坂を走って上り下りしたり、山中を飛び跳ねるのは、現代人には相当にこたえることですね。俳優さんたちも大変だと思います。
投稿: Mu→羊 | 2005年2月 1日 (火) 15時44分
密教が中国に入った時に道教と戦う必要があった。空海が学んだ恵果ですが、司馬さんの”空海の風景”では彼が、初めての弟子だったそうですね。
呪術面に於いて、道教に負けないショウーをしなければ、大衆は納得しない。今でいうマジックまがいの事を沢山開発したそうです。
中国では華は開かなかったが、日本で密教は華が開いた。何故か?
日本には、土壌が存在したんでしょうね。役小角のような葛城の呪術と妖術の世界が。従い、比叡山、高野山で密教は全盛期を迎える。
義経は比叡山の密教と鞍馬の鑑真伝統の中国武術とを学んだと考えましょう。
義経は役小角(えんのおずぬ)の伝統の山の妖術と密教の秘儀と鑑真の弟子の中国武術を伝授された、珍しい環境で育った武芸家に育てられたと。
投稿: jo | 2005年2月 1日 (火) 17時54分
joさん (2月 1, 2005 05:54 午後)
義経が噂通り、鞍馬で修行したとするならば、その背景の深さがよくわかりました。
「義経は役小角(えんのおずぬ)の伝統の山の妖術と密教の秘儀と鑑真の弟子の中国武術を伝授された、珍しい環境で育った武芸家に育てられたと。」
疑問はいくつか涌出してきました。
1.鬼一法眼との関係は物語と聞くので、実際義経は鞍馬でなんらかの兵法をどうやって習得したのか。
2.葛城の呪術妖術の淵源は如何なるや。
いずれも難しいことなので、いずれ縁があれば解答の書かれた兵法書(笑)にであうであろう。いま、修験道にまで手が回らないな。
投稿: Mu→Jo | 2005年2月 2日 (水) 05時57分