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2005年1月29日 (土)

0501290・いわふねじんじゃ:磐船神社

磐船神社(大阪府交野市私市9丁目19ー1)マピオンBB地図、MSN地図

承前
 2005年1月23日の日曜の午前7時に出発し磐船神社のそばに車を置いたのが8:50だったから、遠くへ来たという感慨は薄かった。
 だが、ついにたどり着いたという思いも一方であった。それは以前訪れたのが記憶にないほど昔のことだったからかもしれない。20代だったのか30代だったのか、思い出せない。
 ともかくこの日、たどり着いた地で、思いのたけをニギハヤヒに祈ろうととしたが、半ばは成り、残りはまた後日のこととなった。なったことは、この記事と写真とを我が手で得られたこと。ならざることは、記事なかば「岩窟巡り」で言及する。

磐船神社の由来
 この神社の由来は「磐船神社の御由緒」に詳しい。祭神はニギハヤヒの命(みこと)、天照国照彦天火明櫛玉饒速日命(あまてるくにてるひこ あめのほあかり くしたま にぎはやひのみこと) となり、御神名、これは『先代旧事本紀』からのものである。神武天皇が大和で建国する以前に、天磐船で河内国河上哮ヶ峯(いかるがのみね)に天降(あもり)なさったらしい。諸説があり、天照大御神の孫とも、素戔嗚尊の孫ともいう。この二柱は姉弟となっているが、夫婦だったという説も耳にした。

 さて、現代の磐船神社は、天磐船(あめのいわふね)がそのまま着陸したと言っても神話上では不審に感じない。12mほどの高さ、幅を持つ巨石なのだから、これが天降(あもり)した様子を想像すると、たしかに肝をつぶす情景だったことだろう。
 神社由来をみていると、現代にいたるまでのさまざまな経緯が伺える。磐船神社ではニギハヤヒを天神(あまつかみ)と記しているので天孫系ともいえるが、物部氏の祖であることから出雲系であることは最近とみに目にする。この件は将来の別記事として考えてみたい。つまり、一般にスメラギが天下るとき同行した物部は天津神系と思われてきたからである。それがなぜ、物部を土着の国津神系とするのか?
 そういう難しい問題は先のべにして、要するに磐船神社の古代は枚方・交野などを基盤とした河内物部氏の保護を受けていたが、物部本家が蘇我に破れてからは衰亡した。

近世以降の磐船神社
 その後、神仏習合時代を経て多様な変化を受け、近世には付近四村宮座として共同祭祀も行われたが、天野川の氾濫による社殿流失など苦難が続き、ついには各村が御神霊をわけて持ち帰り、当地の磐船神社の荒廃もきわまったようである。
 そして明治維新後、ようやく崇敬者の力によって復興され現在に至ったようである。
 後日別記事に掲載予定だが、天誅組乱において伴林光平がこの地で歌を詠んだとき、磐船山があっても、社の様子が少しも歌われていないことに不審だった。しかしこういう社伝を知ると、幕末には社の形態をなしていないほどに荒廃していたかも知れないと、推測が確信に変わってきた。

 かむさびていた。巨石の連なりは、太古のニギハヤヒ降臨を十分にイメージができた。

磐船神社の正面鳥居

磐船神社の正面鳥居
 ご神体が天磐船だから、社殿や鳥居は人々に「神さんがおられる」と気づいてくれるだけでよい。そういう意味で石の鳥居は他所のと変わりなく、道路直近に面して、結界を構成する要素になっていた。この鳥居の右にも左にも、そして私が写している場所の後ろにも、巨石があった。
 鳥居の向こうに見える建物は社務所で、社家の人の住まいのようだ。

天の川にかかる橋

天の川にかかる橋
 天の川の下流に立って境内を観てみると、可愛らしい橋と、その向こうに不気味な岩窟が目に入る。この岩窟の入り口は後述するご神体のそばかららしい。で、この岩窟で「思いの成らぬ」ことがあったのだ。
 要するに岩窟に入るのを断られた。まことに恥ずかしながら。明確な理由は二つ示された。三つ目は目で言われた。
  1.朝方は滑りやすく、危険。
  2.お一人での入山は断っている。(墜ちたときなど、連絡が遅れるよし)
  3.そして三つ目に、言外に、「お年をめした方には無理です」
 とても辛いことでした。はるばる何十年ぶりかに訪れて、最後の言外の眼差しが心に深くこたえた。そばに屈強の若者、ないし壮年の山男(Joさんをイメージ)がおれば、すいすいと白いはっぴをかけて、古代の深奥に旅立つことができたろうに。
 そして、こういうとき、精神的弱さというか、争いを嫌うというか(本心)、Muは「はい。そうですか」と言ったまま、気恥ずかしくて、その場をすっと去った。いまだ還暦にも間があるというのに、ああ。

あめのいわふね:天磐船(ご神体)

天磐船(ご神体)
 ご神体。巨大である。圧倒されると言って佳い。高さや幅が12mというから、そばで見ると、見上げるような大きさだ。ところどころ苔むしている。この大岩が空を飛んで、神や人を運んできたと想像すると、心が空になった。着陸にはものすごい衝撃があっただろう。天野川がもっと豊かな水量ならば、水煙、加熱されて水蒸気の湯柱が立ったかも知れない。イメージできる神話はつきることなくわき上がってきた。
 ここを聖地として、2千年ちかくあがめてきたのは、気持としてよくわかる。


磐船神社拝殿

磐船神社拝殿
 拝殿と本殿との関係は、三輪山でいくつか味わってきた。たしかにご神体は巨石であり、山であった。三輪山もいくつかの磐座(いわくら)群がご神体だと耳にした。そうしてみれば、ここ磐船神社のご神体が天磐船であり、社は拝殿であるとうなずける。だが、天磐船はみようによっては自然石である。神話が文化文明が、人が「天磐船」に造化したと言って良いだろう。造化の妙を前にして、一定の建築様式で拝殿を建てたとき、人々の気持ちを深くつかむ境界、場、もっとわかりやすく言えば結界空間がそこにできる。その結界、境界を我が国では、石を一つおく、縄をはる、鳥居をおく、じつに曖昧なそうして穏やかな方法で、作り上げている。
 Muは拝殿から仰ぎ見るご神体に、心を深くつかまれた。来て良かったと、思っていた。

ご神体の横顔

ご神体の横顔
 あらためて写真で見ると光線の具合もあるだろうが、金属質の光沢が味わえる。神の横顔は硬質だった。しかし一方飛鳥の亀石をでっかくしたようなお姿にも見える。印度風に言うならば、神は様々なお顔で顕れるということだろう。
 このような、巨大な天磐船を大切にする雰囲気は、写真ではうかがい知れないもの、現地に立つと背景のなかにあって、地域全体が圧倒的なオーラを立ち上らせてくる。その中にご神体が鎮座まします。

岩窟の入り口

岩窟
 拝殿前から左にいくと岩窟への入り口があり、鍵がかかっていた。20代のMuならおそらく、ふふふ、無鉄砲で掟破りが自然なところもあった故に、……。
(自転車を担いで嵯峨野の山を越えた経験からして、「行く」と決めると、無意識に行動するふしもあった。若年時に限るが)
 中世には行場として盛んだったよし。現在もそう言う面があるのだろう。修験道は、ときどきTVで観るが、日本の山野に昔から危険な場所を聖地として持っていたようだ。なによりも、ご神体が不意に離陸をし始めたなら、危険極まりないことになろう。当然、岩窟の一部は衝撃で壊れる。それを思うと、やはり一人じゃ危ない、と得心した。(こういう物わかりの良さもある(笑))

 ということで、岩窟巡りはかなわなかったが、神韻縹渺とした朝の境内に十分な神々の加護を得た、という気持にみたされて境内を後にした。
 物部氏、ニギハヤヒのことなどは、もっと体系的に考えないとMu自身が混乱するので、後日のこととしたい。
 また、境内には幕末の国学者、歌人、志士、伴林光平翁(ともばやし=ばんばやし:みつひら)の歌碑もあり、その不思議さに胸を打たれたが、これは別記事に近々まとめる。

参考
  古代物部氏と『先代旧事本紀』の謎/安本美典.勉誠出版、2003.6[Mu註:pp156-157に生駒市北部のニギハヤヒ関係地図がある]
  磐船神社(公式サイト)
  岩所神社(磐船神社)と哮峯/神奈備

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地図の風景」カテゴリの記事

コメント

 懸案の磐船神社記事、今朝完成しました。どうぞ、ご笑覧ください。

 巨石、磐座、天磐船というものに思いがこもりすぎていて、なんとも書きにくいことでありました。

 しかし、まだまだ書き尽くしたわけではありません。もっと研究してから、いつか、続編を書くつもりです。

投稿: ★★★ Mu | 2005年2月 2日 (水) 10時21分

先代旧事本紀のニギハヤヒの降臨の記述については、ある程度史実ではないか?と、認める学者も多くなってるんでしょうかね。

河内湖か淀川を遡上し天の川の遡上、私市に上陸。物部氏の祖先はここに拠点を作ったんでしょうね。淀川を挟んで向かいは三島ですね。瀬戸内海への航路が開き、淀川を遡上すると小椋池に又、木津川に通じ山背から若狭湾に抜け、日本海航路が開く。

神武さんが東遷する前にニギハヤヒは王権を獲得して地盤を築いていたんでしょうね。大和には最初にニギハヤヒが王権を獲得していた。これが、箸墓を盟主とする日の巫女の邪馬台国でしょうね。

物部氏が邪馬台国を支えていたと考えて、不思議は有りませんね。出雲と物部氏は同体と考えれば出雲王権とよんでもいいかもしれない。これからも、このあたりの研究が面白いです。

投稿: jo | 2005年2月 2日 (水) 15時32分

joさん(2月 2, 2005 03:32 午後)
 河内になると、ものすご話がはやくなりますね。
 ニギハヤヒが大和(旧称 邪馬台国)連合とまでいかはりますか。
 うわ〜

 実はMuはそこらあたりが難しいですね。
 三輪山はニギハヤヒとか、あるいはなんと素戔嗚尊の陵墓であるという説もあるし。
 それと、河内の石切さんもあるし。

 ともかく。Jo説と、昔(昭和36年頃)の司馬さん「生きている出雲王朝」とをあわせて、ラフな記事を後日に考えます。

 Muはまだごちゃごちゃしていますが、ニギハヤヒ・物部は、神武さんとは無縁のグループだったと思っています。前者が先で、後者が後入りでしょうね。

 ではまた。

投稿: Mu→Jo | 2005年2月 2日 (水) 16時13分

私も色々と迷いがあるんですが・・・・。

基本的には多くの考古学者の賛同を得るのは、何波にも渡り大和への東遷が過去の歴史に存在した。

そこで、重要なのが朝鮮半島系統の馬韓・弁韓・辰韓系の民族であるのか、江南地方の呉の長江文明人であるのか?

南九州に上陸したニニギは明らかに江南系統の民族である。ニギハヤヒもこの系統ではないか?と、即ち南九州と日本海に辿り着いた二波の江南の連中が存在し、日本海は『越』の連中と呼ばれ、明らかに中国長江流域の連中である。

問題は日本海でも出雲である。ここは朝鮮半島とりわけ、新羅の香りが強いので、迷う。

応神天皇はんは明らかに、朝鮮半島系の民族であり河内王朝は朝鮮半島系統である。継体天皇は越の国なので、長江文明の王権奪還であったと想定してもいいのでは?

問題は崇神天皇であるが、これが難問であり未だ、判らんです。しかし、神武天皇と同じやまと言葉の名前なので、江南系統の部類とみます。

大和を舞台に東アジアの規模で民族のせめぎ合いが存在した。しかし、移動した連中は少数でしょうから地元の大和の部族から推挙されねば王権は取れなかったでしょうね。

投稿: jo | 2005年2月 2日 (水) 17時08分

joさん (2月 2, 2005 05:08 午後)

JO史観のまとめ

■中国江南・長江文明→ニニギ(南九州上陸)→神武
          →ニギハヤヒ(日本海・越)
          →崇神天応?
          →継体天皇(日本海・越)

■朝鮮(馬韓・弁韓・辰韓)
△朝鮮(新羅)→ 出雲?

       → 応神天皇

 さてさて、そういうことになると、土着日本人とは、……むつかしいね。縄文人と弥生人との関係、混血、何千年もの波状渡来。
 でも、なんとなく、大王家は、中国や朝鮮からの渡来である雰囲気は分かります。本当だろうか? 陸続きだったころから考えると、アフリカ発生以来、延々と拡散していったのかな。

投稿: Mu→Jo | 2005年2月 2日 (水) 18時52分

私は、大陸系から沢山の人が亡命、逃亡、敗走、等々ありました。しかし、膨大な人間が来れたわけではない。しかし、技術と文明をもっていた。

日本の土着の王を擁立するのに奔走した。私は自ら外国人が日本の王にはなれなかったと思います。

この、日本独特の伝統は藤原鎌足、不比等迄受け継がれ、外戚という形を形成したと考えています。

従い、先ほど述べた大和王権の王は誰に担がれた王であるのか?という、意味ですので、誤解のないようにお願いします。

そうそう、蘇我氏、秦氏、賀茂氏、葛城氏、東漢氏、等々の氏は朝鮮半島系統です。

投稿: jo | 2005年2月 2日 (水) 20時44分

joさん (2月 2, 2005 08:44 午後)
 おっしゃるニュアンスはよく解ります。

 大陸からの民族の大移動の痕跡は、この2千年なかったとします。
 古代史を観ていると、総てよそから入植したという雰囲気に取り込まれ、それが米国史におけるネイティブ(インディアンですな)とのような悶着を起こしたのか、という危惧を持ってしまう。が、それもなかっただろうとします。
 すると。

「日本の土着の王を擁立するのに奔走した。私は自ら外国人が日本の王にはなれなかったと思います。」
 縄文期以来、土着勢力が形をなし、力があったと、します。

「大和王権の王は誰に担がれた王であるのか?という、意味です」
 これは、どの土着集団、ないし入植歴がながく土着化した者達に担がれたのか、とするとわかりやすくなりました。

「蘇我氏、秦氏、賀茂氏、葛城氏、東漢氏、等々の氏は朝鮮半島系統です。」
 技術と知恵とを持った人達だったのでしょう。それ以前の、土着氏族とは、するとヤマトでは磯城、三輪山あたりの人とかでしょうね。
 九州だと、隼人ですか。
 関東以北だと、蝦夷でしょうな。

 ……
 秦氏は気がかりです。いつか葛野近所の蚕ノ社を記事化しますが。


投稿: Mu→Jo | 2005年2月 3日 (木) 04時03分

2006.01.02Joblog『ノアの箱舟と天の磐船』で、磐船と、メソポタミアのギルガメシュ叙事詩との関連記事があった。

http://akatonbo-jo.cocolog-nifty.com/jo/2006/01/post_00d0.html

投稿: Mu追加メモ | 2006年1月 3日 (火) 15時25分

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