0501011・日本・文学・小説:義経/司馬遼太郎
義経 / 司馬遼太郎著<ヨシツネ>. -- (BA65833468)
東京 : 文藝春秋、2004.2
2冊 ; 16cm.
(文春文庫 ; [し-1-110]、[し-1-111])
上 : 新装版;下 : 新装版
ISBN: 4167663112(上 : 新装版) ; 4167663120(下 : 新装版)
著者標目: 司馬、遼太郎(1923-1996)<シバ、リョウタロウ>
分類: NDC8 : 913.6 ; NDC9 : 913.6
目次情報
新装版・上
寝腐れの殿
四条の聖
稚児懺法
鏡の宿
蛭ケ小島
白河ノ関
弁慶
京の源氏
富士川
鎌倉の新府
木曾殿
木曾の猪舞
法住寺炎上
新装版・下
旭将軍一騎
堀川館
鵯越(ひよどりごえ)
八葉の車
屋島へ
讃岐の海
源氏八百艘
壇ノ浦
波の上
都大路
磯ノ禅師
腰越状
堀川夜討
浦の逆浪
帯情報
新装版・上
みなもとのよしつね―その名はつねに悲劇的な響きで語られる。源氏の棟梁の子に生まれながら、鞍馬山に預けられ、その後、関東奥羽を転々とした暗い少年時代……幾多の輝かしい武功をたて、突如英雄の座に駆け昇りはしたものの兄の頼朝に逐われて非業の最期を迎えてしまう。数奇なその生涯を生々と描き出した傑作長篇小説。
新装版・下
義経は華やかに歴史に登場する。木曾義仲を京から駆逐し、続いて平家を相手に転戦し、一ノ谷で、屋島で、壇ノ浦で潰滅させる……その得意の絶頂期に、既に破滅が忍びよっていた。彼は軍事的には天才であったが、あわれなほど政治感覚がないため、鎌倉幕府の運営に苦慮する頼朝にとって毒物以外の何物でもなくなっていた。
Mu注記
20050101の上巻
平成16年内に読もうと思っていたのだが、読み始めが大晦日の朝、上巻の読了が元旦になってしまった。
司馬さんの長編を読むのは、お正月らしいとうなずいている。
源家の異様なまでの骨肉の争い、とめどもない漁色、性格破綻者ぶりなど、当時の源家と争乱の中での義経の立場をより高所から理解出来る上巻だった。
『義経』となっていても、奥州藤原、蛭ケ小島の頼朝、そして上巻終盤は義仲のことで頁が埋まっている。
おそらく『吾妻鑑』がもとになったと思われるが、源頼朝の北条政子との出逢い、北条家婿としての謹厳実直さと並行して進む頼朝の女漁り、これには唖然とした。しかもその滑稽さの中に凄惨な血を同時に見る。源家嫡流の遺伝子が他家に漏れ出ることは、北条家にとっては許し難きことであり、ひいては存亡をかけた争いになる。おそらく頼朝の浮気相手はすべて兵をもって摘まれたのだろう。政子の嫉妬の強烈さ以上に、頼朝の滑稽なほどの女好き、ここまでならお笑いですむのだが、司馬さんはその背景政治状況をきっちり筆にしていた。
それにもまして頼朝の異様なまでの政治感覚がある。
この頼朝の政治感覚はいちいち司馬さんによって、義経に接する法理でわかるのだが、それにしても、そういう性格をもった頼朝があの時代、現実に鎌倉で幕府を開いたという事実に空恐ろしさを味わった。解きほぐすと、丁度信長公が幕府を開き恒久的に全国を治めたような凄さがある。
この頼朝の前には、義経も、義仲も、平家も、そして奥州藤原も、すべて敗北してもしかたがなかった、というそういう戦意を喪失させるような感慨が、すでに上巻で味わえた。
『平家物語』がもとになったと思われる義仲の行状、姿、滑稽さ、強さ。それにからまる大天狗「後白河法皇」の策謀。この中で義経が軍略上不思議な男として描かれ始めたところで、上巻が終わっていた。義経は、頼朝の指示に従っていたと言う前に、義仲を討つまでは忍者のような「影」に思われていたふしもある。
ともあれ義経が源家の血の濃さ故か、あるいは性格なのか、女性に対してマタタビのような男だったことが、その初期奥州での筆致に顕れていた。
20050103の下巻
3日に読み終えたのだが、諸々あって読後感を書きあぐねていた。
……
感慨が次々とわき起こるが、歴史は一人の力でも動くが一人では保てないという教訓を知った。
歴史とまでは行かなくても、幕末にあわせれば、近藤局長があってこそ新撰組は脱皮していったが、保ったのは土方局長がいたからだ、と思っている。土方の力をもってしても新撰組の核はうまれなかった、まして沖田やその他の隊長の力ではいかんともしがたかった。そして近藤局長だけでも、新撰組は保てなかった。
千年に一人の軍事天才と作中描かれた義経は孤立していた。
言葉の綾としての百年にひとりではない。
千年に一人、そうとしか言えない男が、源義経だった。
彼には誰一人、参謀がいなかった。土方も、孔明も、幕僚もゼロの世界で戦った。すべての戦は、頼朝派遣の軍監梶原、その監視下での勝利だった。
……
義経は勝利の覚束ない寡兵で常に大勝した。四度の奇跡を見せた。司馬の克明な描写をよめば、それがどれほどの異常な勝利だったか。信長にてらしてみると、義経は短期間に桶狭間の勝利を四度得たようなものだ。理屈の上ではあってはならない勝利だった。それまでの軍事概念をまっこうから覆す史実だった。それ以後も、1800年近くない。日露戦争まで。
義仲追討。 義経、初陣、借り物の千騎で宇治川を突破し後白河法皇を救出した。その迅速さに、義仲は負けた。義経には終生軍がなかった。側近が二十名程度にすぎなかった。
平家追討、鵯越、一ノ谷。 神戸の鵯越(ひよどりごえ)、一ノ谷に陣する平家数万の本営をめがけて、義経は寡兵のまま延々と京都を西に進み亀岡経由、そして社(やしろ)まで達し南下し、断崖に立ったときは数十騎に満たなかった。その数十騎が真っ逆さまに下るというよりも滑り落ちる格好で、本営を襲った。驚愕した平家は沖の軍船ともども、さらに西海に逃亡した。こういう戦術はあってはならない、勝てるはずもない戦だった。
平家追討、屋島。 軍船を未だもたない義経は、次に四国香川県・高松の屋島に陣取る海軍十万に対してどうしたか。義経は暴風をついて徳島県にわたり、わずか百騎ほどで屋島の本営を襲った。あろうことか平氏は本営を自ら焼き、ついには下関・彦島(壇ノ浦近く)にまで敗退した。
平家追討、壇ノ浦(下関)、田野浦(門司)、平家滅亡。 義経は、最後の戦では潮の流れを相当に熟慮したようである。また、平家の軍事総帥は知将知盛だった。義経は日頃に似合わず、夕方の潮の逆流まで持ちこたえ、数千の平家軍船を追い込み、ついには天皇が三種の神器ともども入水し果てた。救える者は救い、戦は終わった。
この四つの戦で、義経の勝てる確率はいずれもわずかだった。すべてが、本当の奇跡にみえたことだろう。
これほどの大功をたてた義経は、しかし頼朝から観れば一種の軍事妖獣だったとも言える。次に戦があるまでは、手に負えない。檻にこめるか、殺すしか役にたたない人間だった。官職はすでに頼朝を超えていた。検非違使長官をつとめ、伊予守である。
頼朝の気持。後白河法皇の気持。坂東の殿輩(とのばら)の気持。すべてが義経には理解できなかった。また義経をだれも制御できなかった。法王がどれほど寵愛しても、義経は兄頼朝への反旗を揚げようとせず、頼朝がどれほど義経に、弟ではなく御家人の一人であると、シグナルを送っても義経は理解出来なかった。
軍事妖獣。司馬さんの義経を読み終えてそう思った。
義経は都落ちするとき、方々を回って25人程の愛人を集め、最後はその内、靜をふくめて12人程度を同行し、九州に落ちようとした。しかし、嵐に僚船ことごとく離れ、以後行方不明になった。司馬さんは、義経をそこで書き終えた。司馬さんは平家物語に合わせたと思う。義経の逃亡記に興味はあっても、不明確だし、それに頼朝の幕府に対置した義経を描くには、靜との別れ、その後の逃避行などは記すに値しなかったのかも知れない。
それにしても都落ちにあたって12人の愛人同行。これは、性的変質者であるよりも、女性依頼心が極端に高かった男と思えた。
義経にとって女たちは、想像するに、性奴というよりも、愛奴と言った方があたっているかもしれない。もうすこし心理的に考えると、戦、軍事以外の、すべての男性論理社会の掣肘から無条件で身を守ってくれる、母、姉、妹だったのかもしれない。
平家物語が描くところ、木曾殿最期は名文中の名文である。
が、義経の逃避行、最期は描かなかった。
さて、司馬遼太郎『義経』。
これは読むに値する図書だった。頼朝と、そして義経がこれ以上ないほどに、鮮明に描かれていた。義経は、制御のきかない危険な最終兵器だったのかもしれない。
そういうことが、司馬さんを読んで理解できた。
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コメント
Muさん
気合が入っていますね。いい加減な記憶でコメントするのは憚れるので、後日、再読してからコメントします。
しかし、西日本の平家と東日本の源氏の、南北戦争であった訳ですよね。平安末期から力をつけた、荘園の農場主が公家に代わり、日本を支配しようとする時代。一所懸命の時代の幕開けでした。
多分、司馬さんは東日本の連中は生肉を食していたので、干物を食っていた、京とか西日本の連中は戦争に勝てないと、何処かで話していましたね。それと、東日本の良馬の戦闘手法ですね。
残念ながら義経は、子供の頃に京都で育った訳ですから、京文化、公家文化の殲滅者にはなれなかった訳です。ここが、頼朝と歴史観が違ったところでしょうね。
その、頼朝も三代で消滅するわけですね。歴史の苛酷を感じます。
投稿: jo | 2005年1月 2日 (日) 11時19分
joさん (1月 2, 2005 11:19 午前)
今日はちょっとあれこれしていて、さっきようやく義経の下に入りました。
(ふうてん日記を自由自在に読めて検索して表にできて、コメントをネットから誰でもつけられるように改造しておるんですが、加齢ゆえか、小一時間コードをいじくると、目がかすむ、手が震えるのていたらく(笑)。ほんと、手が落ちてまいりました)
木曾義仲が250年ぶりの征夷大将軍を後白河法皇からもらって、旭将軍。まさに崖っぷちであることを義仲も自覚し、囲われた法王は頼朝軍のくるまで、なんとかかんとか、義仲を絶望自暴自棄にならぬように、てなづけている所。
[メモ:征夷大将軍とは平安初期794年前後、坂上田村麻呂、そして天慶三年(940)に藤原忠文。それから義仲まで245年空白とのことでした。以後、源家、足利、徳川と続くわけですね]
義経を描くには、頼朝も義仲も平氏も描かないとならない。時代を描き続けた司馬さん、大変だったろうなと思います。
司馬さんの義仲へのスタンスは、微妙でして、なんとかバランスを保っておられます。義仲は悪逆非道でもないし、かと言って救われる武将とも思っておられない。
……
Muは木曾冠者をMu現代古典にあげたのですから、距離はかぎりなく義仲に近いです。
さて。
投稿: Mu→Jo | 2005年1月 2日 (日) 17時07分
平安時代には未だ東北以北は大和朝廷の管轄領域ではなかったんでしょうね。
従い、征夷大将軍という政所を許す自治権を与えた将軍を任命したんでしょうね。これが、大事でしたね、侍が政府を開くにはこれが必要でした。
木曾義仲は勝れた武将ではあるが、公家との交渉とか、政治に関わる参謀が欠けていたんでしょうね。
それと、京都という古い公家の世界では改新は難しかったんでしょうね。
その点、明治政府は美味くやりましたね。東京への行宮です。古い世界から脱却して、東京という、新しい器で改新した。
唯一、足利尊氏は京都で幕府を開けたが、南北朝の公家の世界を分断した特殊な世界でした。
さて、現代に於いては、東京100年の官僚支配の世界を小泉さんが、東京で改新できるか?ですね。
昔の公家さん、今の官僚さま。よ~~歴史を振り返りながら、行く末をチェックしましょう。
投稿: jo | 2005年1月 2日 (日) 19時43分
joさん (1月 2, 2005 07:43 午後)
遷都の歴史、都うつりのことを少しまとめて知っておきたくなりました。
天皇さんの居住地と、中央官庁のあるところと、昔は一緒だったけど、平清盛が神戸に行って、頼朝が鎌倉に幕府を開いて、家康が江戸に幕府を開いて、明治さんが東京へ行かれて、そして現代……。
世直しするには、遷都が一番よいと、かねがね思ってきました。しかしここ数年来のその話は、たとえば石原都知事も反対したことだし、沙汰やみになったのでしょうかね。
Muは、天皇さんは三輪・橿原か伊勢に行かれて、政治は、三権を三新都市旧
都市に分散すればよいと思っています。
Muは心に決着を付けています。天皇さんは日本のニギタマなんです。これがあることのありがたさを、この十年ずっと観察し、考え、感じてきました。
そして。
政治は、飢えさせてはならない、この基本から始まって、現世の豊かさの追求と「安全」を確保すべきものです。
政治が、ドグマティックになるとろくなことはないでしょう、
……
三権三都市となると。
裁判、司法は会津か仙台がよろしいな。
国会、立法は三重県。
幕府は、九州太宰府でしょうか。
この根拠は別にないです。それくらいの大手術を、国力があるうちにしておかないと、できなくなる。
東京は。いまのまま、商売の都市にしておけばよろしいな。大阪は、お笑い都市に専念できればよいのですが。奈良・京都は、それぞれヤマト國、平安の朝廷、これを再現すべきでしょう。
投稿: Mu→Jo | 2005年1月 3日 (月) 06時01分
Muさんの 新年の新しい国家像を拝聴しました。
日本の国家の形をどうするか?大それた問題ですね。
私は、梅安さんと以前新幹線の関が原で決めた、遷都論(還都論)があるんです。
それより、最近強く思うのはインターネット時代に今の間接民主主義の必要は未だ、存在するのか?という、疑問ですね。
例えば、住民税を私は多額の額を払っている。二人しかいないのに、仰山税金を取られ、殆ど人の乗らん地下鉄の赤字路線を作り、巨大なスタジアムも建設する。
市議会でインターネットで投票させて欲しい。大事な事はネットで投票させて欲しい。それが、出来る時代である。
国会は、niftyに運営させて国民インターネット投票させれば宜しい。大事な法律は国民で直接決める。
所謂、電子国会ですな。
これだけ、情報網とインターネットが発達したんですから、国の制度も体制も変えた方がえ~と、思います。
投稿: jo | 2005年1月 3日 (月) 12時49分
joさん (1月 3, 2005 12:49 午後)
1.専門家
政治も経済も軍事も専門家、プロの技能を必要としますから、代理人制度がほしいです。ネット利用の直接投票意見具申にあわせて、個人レベルで代理人を立てる。たとえば、政治・経済はJoさんにMuの一切合切をゆだねる。映画や歌舞音曲など文化行政は梅翁にまかせる。
Muは軍事(笑)と文学振興だけ自らキーをたたき込む。
まあ、株式、相場を会社にゆだねるようなもんやね。
今の政治家はあまり想定していない。代理人および本人の評決で左右される世界。
いっそのこと、国会、議会の長はマシンにまかせておきたい。
2.そうなると、ややこしい不正があっちこっちに出てくるでしょうな。コンピュータやソフト開発会社のまわりには、つねに公安監視や、自衛隊の警護までつくようになるかな。
3.Joさん、そういうシステムやソフトの監査は、もうかりますようぉ。住基はその嚆矢かもしれん、歴史的に。
*.なんか、へんな、夢みたような。
投稿: Mu→Jo | 2005年1月 3日 (月) 14時52分
専門家代理制度は面白いね。
従い、政治家は専門職となる訳やね。土木行政とか交通とか、経済とか金融とかね。
大体今でも、企業の会計監査はコンピュータシステム化されてるので、情報処理のシステムが判らん奴では監査が出来ない。
軍事はMuの旦那が専門でしたか?知らんかったな。
20世紀は戦争の時代でしたよね、21世紀もこのままでは、いかんね。何とか、戦争の無い時代は作れんのかね?これは、青い鳥を求めるようなもんかね?
投稿: jo | 2005年1月 3日 (月) 18時05分
joさん(1月 3, 2005 06:05 午後)
昨日は義経下巻も読了しました。まだコメントはまとめていませんが、司馬さんにあおられて、いつのまにかMuが「軍事専門家」になっただけのことです。
戦争観ですが、最近Muは随分変わってきました。あれだけ、悪い悪い、悪、と言われ続けてきた戦争を、人類史の初めから、現代まで、ずっとやってきましたね。どうしようもなく、戦争の歴史=人類史です。
第二次大戦後、日本は戦争に一応巻き込まれなかったが、あの英国だってはるばる海を越えて、軍艦をうごかし、砲門を開いたのが、20世紀後半のことでした。
卑近化させて悪いが、火事と消防署、盗み殺人デイリと警察署、あの関係をついふらふらと思ってしまう。消防署の人が火事好きでもないし、警察の人が殺人好きでもないでしょう。
すると、軍人が戦争虐殺好きでもないと、推論できます。
しかし、消防署も警察署も必要ですね。軍事だけが和平外交でこなせる、貢ぎ物でこなせると思うのが間違い、それが2005年の感慨です。
そういう意味での「軍事」専門家になりたいです。
分かりにくいでしょうが、Muが半世紀生きた結論ですね。地球にユートピアは無い、これが今の気持です。
投稿: Mu→Jo | 2005年1月 4日 (火) 06時18分
新春おめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。
同じ本を読んでいるのに、これだけ書けるとは恐れ入りました。私も義経(上)読みましたが、サーット物語を追っかけただけでした。読後感想を書けといわれても書きようがないです。正月早々圧倒されました。これでは、同じ価額で本を買うのは不公平です。将来は、理解度に応じて書物の値段が決められるようになるでしょう。
それでも、Muさんの「頼朝の政治感覚の凄さに、義経も義仲も平家も負けた」との趣旨の文には、感銘を受けました。チッポケな自分の人生を振り返ってみても、感覚と努力が欠けていました。
NHKの大河ドラマを一年間そんな見方をしようと思いました。どうも有難うございました。
投稿: hisaki | 2005年1月 4日 (火) 10時32分
hisakiさん (1月 4, 2005 10:32 午前)
正月早々に、過分なるコメントをいただくと後が大変です。
実は下巻は昨日3日の夕刻に読み終えているのですが、さあ書こうとおもってみると、hisakiさんのコメントがあって、……。
いやはや、書きにくくなりました。
下巻は、義経の軍神の姿でしょうか。
一種の狂気、そして凶器だったことでしょう。
合戦の様相は、司馬さんにかかると、眼前の波間に白旗、赤旗がたなびき、文学の強さを味わいました。
で、続きはいずれ。
投稿: Mu→hisaki | 2005年1月 4日 (火) 14時42分
義経、上下巻の感想を書き終えました。
投稿: ★Mu★ | 2005年1月 5日 (水) 05時43分
『義経』読まれましたか。
昨夜、本棚を調べていたら幸いに文春文庫の『義経』出て来ました。15年前に読んでいましたね。
司馬さんには独特の美学が有り、歴史から見つけ出した面白い人物の自分の美学に合う部分だけを切り取る手法です。
自分でその人物の核を見つけると、その核はこうあるべきであると考える。枝葉はいらない。彼の速読は司馬美学の目で資料を読む。
イデオロギーを排除し、人間の核に迫る手法です。『義経』を取り上げる時には彼をどの様に、描くか?私は、司馬さんは多分、彼の動物的感覚に支配された軍事行動に興味があったと思います。
歴史を振り返り、信長の桶狭間、秀吉の一夜城、武田騎馬隊との鉄砲による戦法、義経の一ノ谷、屋島、宇治川の戦い、楠木正成の赤坂山の戦い、秀吉の大返し、等々考えると、戦いに常識は無い。
およそ、戦いには相手の裏をかく、相手の弱点をつく、新兵器を使う、相手が油断してる時に戦う、等の必勝法則がある。義経は参謀がいないのが幸いしたし、当時の軍事常識を持たなかったのも、教育を受けていなかったのも幸いした。
その後、鎌倉幕府の軍は蒙古襲来で集団戦の近代戦法と戦い戸惑う。義経は速度、油断を衝く、裏をかく、小集団戦法、
という戦いの近代戦法とは知らずに、あみ出していたと見ます。
これは、動物的感覚による才能であると思います。その才能を頼朝は恐れたのでしょうね。
しかし、英雄、色を好むとか古人、よくいいましたね。
投稿: jo | 2005年1月 5日 (水) 10時05分
joさん、 (1月 5, 2005 10:05 午前)
よく理解できます。
司馬さんの方法論ですね。
しかしそれにしては、司馬ファンは多いです。どなたさんか、少壮の評論家が「司馬と池波ともう一人?」を読んで感動しないのは男じゃない、とか以前もうしておりました。
つまり。多くの日本人は、司馬遼太郎のトリミングの美学にほぼ同意しているわけですね。
Muも、司馬さんの描く人物は大抵好みです。いや、司馬さんのを読んだから好きになったとも言える人が多い。
そこで疑問。
そんなに都合よく、司馬さんの美学があれだけ幾人もの歴史上の人物にあてはまるのだろうか?
司馬さんのフィクションは、沖田と土方が仲良かったという程度で、膨大な源資料のなかからつむぎあげたものと、信じてきたのですが。
はて。
全部嘘でした、なんてことになったら、えらいこってすね。坂の上の雲がひっくりかえったなら、防衛大学校の戦史学もひっくりかえる(笑)。
追伸
義経に参謀が居なかった事実については、つまり政治参謀が居なかったことを強調したかったのです。軍事参謀は、Joさんの申されるように、おそらく義経には邪魔でしかなかったことでしょう。
再伸
義仲の描き方が苦しかった理由がようわかりました。Muは保田さんの「木曾冠者」で別の美学があることを過ぎこし日に味わいました。司馬さんは、義仲が好みじゃなかったのかも知れない。彼の美学にあわなかったのだろうか?
投稿: Mu→Jo | 2005年1月 5日 (水) 13時35分