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2004年12月 5日 (日)

2004/12/05(日)新撰組:時の流れ

 今夜、日本の時の流れがいつもより速くなった。まだ30分しか経っていない、あと15分と思ったのに、終わってしまった。そして、来週は最終回「流山」。
 どう考えても、新撰組を描くのは「新撰組!」しかあり得なかったような気持ちになってしまった。春頃の、田舎の若い衆たちが、ふらふらと江戸の町を歩き、目だけは高見を見つめ、青雲の志にもえていた。そして、そのまま京洛の地、壬生の八木家に転がり込み、にわか普請の組織結成。

 若かった。本当に、血なまぐさくも命がけの若さだった。
 誠旗と組番で印した小隊編成で、不慣れな京の町を刀と槍だけで昼夜巡回した。長州も、不逞浪士も、新撰組以上の凶暴さを秘めていた。
 池田屋に乗り込んだのは、近藤、沖田、永倉、藤堂のわずかに四名。相手は二十数名だった。後で駆けつけた土方率いる隊士をいれても、たった三十数名での強制捜査、殴り込みだった。
 そんな京の生活が、多分五年程度。近藤勇は享年三十五だから、試衛館時代からみると、京都は遅れた青春だったのだろう。沖田総司にいたっては、十代で京都に来たことになっていて、永代「一番隊組長」。あの永遠の新撰組副長土方歳三でさえ、近藤とは一歳年下だったのだから。

 大久保(近藤勇)と薩摩藩軍有馬某との絡みがよく描かれていた。
 日本人の。というよりも、世界史的にもののふ同士はかくあれかしと、描かれてきた無言の理解。
 これは近親憎悪の逆、身内のしがらみよりも、敵に友を見いだす人の心性。これがよく描かれていた。

 また、大久保が近藤と名乗った瞬間。
 今夜はそこが「新撰組!」屈指の名場面となった。近藤はあくまで大久保とシラを切ってまで、薩軍士官となった昔の部下に辛い思いをさせたくなかった。その、障子の柔らかな光と近藤の微笑とが瞼に焼き付いた。

 脚本なのか、演出なのか、はたまた香取君の演技なのか。これぞ、「人」という、すでに甘さを超えた信頼があった。これこそ今年の近藤勇像だったのだろう。土方ならああはしない、しないから土方が映える。そも、土方なら薩摩陣に行かなかっただろう。近藤だからこそ、ああいう映像が切り取れた。そのことのために、延々と一年間をかけて、近藤像が撮られ続けてきたと言ってよかろう。

 今夜に限って捨助の決死の大芝居がきいていた。
 斉藤一と沖田総司の別れもよかった。
 有馬某が最初姿を現したとき、それは薩摩陣地の庭先で、有馬が異様な奇声をあげて何度も素振りをしている場面だった。示現流というのだろうか。撃剣の怖さを知った。

 さて、来週は「流山」。
 すでに、今夜の土方の言葉にもあったが、切腹でなくて斬首とは。相当なひらきがあったようだ。つまるところ、斬首とはただの破廉恥罪と同じ刑。そのゆくたてがどうであったのか。悲しみを覚えつつ、知っておきたいと思った。

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コメント

私はその流山の近くで生まれ育ちました。いまでもあの辺りは高い建物がなくて、雰囲気だけは当時をしのばせる感じですよ。流山では「うちのじいさんは近藤勇に会った」とか語るおじいちゃんがご健在だったりして(←本当かウソかはわかりませんが)幕末ってそんなに昔じゃないんだなぁって子供の頃思っていました。

投稿: hiromi | 2004年12月 5日 (日) 23時18分

hiromiさん、 (12月 5, 2004 11:18 午後)

「流山では「うちのじいさんは近藤勇に会った」とか語るおじいちゃんが」
 いまなら、もう130年以上経ちますから、無理でしょうが。慶応生まれの人は、Muが幼き頃は健在だったようです。

 しかし、流山で育ったかたが、奇しくもMuの新撰組シリーズにコメントしてくださるとは、望外の喜びでありました。
 来週は、その流山が、昨夜よりも一層にクローズアップされますね。じっくり堪能いたします。
 なお、新撰組陣地あととかいう映像がNHKの最後についていました。あるんですね。嗚呼。

投稿: Mu→hiromi | 2004年12月 6日 (月) 05時48分

現在ならば彼等はどうしたんでしょうか?

志ある若者が数名、集まり、雄飛海外に飛び出し、ベンチャー・ビジネスを始めたかも知れませんね。

時代が異なるので、難しい設定でしょうが、青雲の志では何かを目指したい気持ち、が通じると思います。別に、日本でもベンチャーは出来ますので、何処かで会社を創り、社長は近藤さん、副社長は土方という案配ですね。

次元が違うかもしれませんが、過酷な時代の運命に翻弄された若者達でしたね。しかし、歴史に燦然たる碑を残しました。

投稿: jo | 2004年12月 6日 (月) 17時19分

joさん、 (12月 6, 2004 05:19 午後)
 NHK「新撰組!」が、現代のわかいもんに理解しやすいように、造られているふしもあるけど、それでも、彼らは若く青雲の志に満ち、野心があって、そうして剣(近藤、沖田、……)と知謀・組織造り(土方、……)に自信があった。野心や志や運だけでは、かくまで後生のわれわれの胸を打つ「青春群像」は造ることが出来なかったと思います。

 現代なら。
 やはり、経済戦争、政治戦争に足を踏み入れたことでしょうね。
 傭兵としての世界参加は、いまは無理だし、大儀が弱くなる。
 志となれば明白な大儀無しでは、うごけないし、動かない。
 世界全体への切実な大儀は、当面むりだと思います。
 (宇宙人でも襲来したら、また、変わるかも)

 皮肉を言うなら、われらが青年期に、はやった海外からの借り物の思想では、長続きもしない。

 どうころんでも、歴史に断絶をもたらすやり方は、本邦では駄目です。

 新撰組は、尊皇攘夷であり、公武合体まで身をそわせたのですから、十分な大儀があった。売国奴とはならなかった。そういう単純さが、結局永続的に人の賛同をえるのでしょう。

 いずれにしても、明治維新で、薩摩王がでなかったのは、うーん、やっぱり明治天皇を玉(ぎょく)にした西郷さんや大久保利通さんのええとこだったんかな。島津さんは、自分の活躍の場がなくて、随分怒っていたみたいやね(笑)

投稿: Mu→JO | 2004年12月 6日 (月) 18時14分

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