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2004年11月 6日 (土)

みわやま:三輪山遊行(3)森正と大神神社

大神神社(奈良県桜井市三輪)MSN地図
 お昼を過ぎていた。午前五時前にトースト一枚で、そのまま檜原(ひばら)から狭井(さい)神社への細い山道を歩いている間に、Muは空腹がこたえていた。狭井神社も鎮メノ池とイツキシマヒメを学生達に紹介しただけで、大神さんの前を風のように通り過ぎ、ただ一念「そうめん、そうめん」ととなえていた。
 あとで学生達は、ひたすら歩き去るMuの後ろ姿を見て囁きあったそうだ。「先生は、三輪そうめんがすきなのか、神社が好きなのか、わからないよねぇ」と。今にして思えば、空腹の前には神も仏もよそ事なり。このあたりの神々はMuにとって身内のようなものだから、あとでゆっくりご挨拶すれば、よろしかろうとの心境だった。

森正の冷やそうめん
森正のにゅうめん
森正門前、四人の巫女

大神神社拝殿
大神神社由緒書・駒札
大神神社の神事:献詠祭

 こうして旅は山を越えた。
 桜井線JR三輪駅からワンマン電車に乗り、奈良で降り、巫女さん達は大量の土産物を買っていた。
 そのあと、上手に京都行き近鉄急行に座り、やがて伏見桃山御陵に着いた。

むし鶏の和風ドレッシング
 伏見は鳥せいで、精進落としというのか、直来(なおらい)ともうすのか、一同にこやかに酒席についたのは、まだ午後四時だった(笑)。
 そこからは後日談にしておこう。ただ、ちょっとだけ写真をいれて、将来のお楽しみ。
 (巫女さん達の好みもわからず、まずは蒸した鳥に和風ドレッシングと、無難な物を選んだのだが。案に相違して、……。それからの二時間、四人は巫女装束をかなぐりすてて、臓物から、けったいなもの、原酒まで、まさしく阿鼻叫喚の酒池肉林であった。人とは、怖いものである。Muはひたすら黙々と無料の清水「伏見の水」を飲んでいた。なぜ水ばかりなのかは事情もあるのだが、ともかく実話である。)

参考サイト
  三輪山遊行(2)箸墓から檜原神社(MuBlog)  
  そうめん処・森正(MuBlog)

参考図書
  日本廻国記:一宮巡礼/川村二郎.講談社文芸文庫、2002.10

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コメント

三輪山紀行お疲れさまでした。

学生さんを連れての、旅はいかばかり大変か、経験が無いので判りませんが大変だろうな、と、思います。

私もMuさんと一緒で、三輪山に関してはBlogを数多く書いて来ました。東京での三輪山セミナーにも参加して、上田先生のお話を聴いたり、宮司さんの話を聴きました。

この場所は、Muさんが言うように日本の歴史で重要な場所です。日本の統一王朝が生まれたであろう場所なのですね。それが、出雲と大いに関わるところが又、不思議な奥深い場所なのですね。

学生諸氏もやがて、齢を重ね、家族を持ち子供が生まれる。是非、昔に先生とともに歩いた、大和の箸墓から三輪さんの道を思い出して、子供達と手を繋いで歩いて下さい。

1800年の歴史を受け継いで欲しいものです。

投稿: jo | 2004年11月 7日 (日) 21時35分

JO先生
 実に、苦労人のお言葉、みずからは気恥ずかしくて素振りにもみせられないことを、ようくぞ申してくだすった。「子供達と……」。そう思って歩いておりました。
 Muもやがて、さよならMuですからね、まあ30年後ぐらいに(笑)。

 ところで慧眼Jo先生ですね。四人巫女の本当の目的は、三輪伝承じゃなくて出雲神話だったんです。「出雲と大いに関わるところが又、不思議な奥深い場所」。いやはや、Jo先生、驚きましたなぁ。あなたには、隠し事はできませぬ。

 しかし指導として「無理に、出雲と三輪を結びつけなくて良い」と、伝えました。Muはじつに、常識をたっとぶ者也。

 それにしても、大物主神さん、笑ってるだろうね。

 

投稿: Mu | 2004年11月 7日 (日) 21時50分

え? 出雲神話を選ばれておられるんですか?

それなら、三輪山付近を探訪するは理にかなっていますね。
出来る事なら、諏訪大社迄足を延ばされると、いいですね。

私のblogで諏訪大社のお祭りについて、一度記述しましたが、参考にして下さい。出雲との関係がとても深いですので、参考になると思います。

昨日、安曇野より帰宅しましたが、これも出雲族の拠点でしたね。海洋民族国家として出雲族は日本列島を支配していたと、私は考えています。

崇神さんが、大和に来られる迄はそのような世界が原型日本としてあったと思います。

色々、想像の領域が広がり、夢が広がりますね。三輪山はその古代、原型日本の中心であったと思います。

投稿: jo | 2004年11月 8日 (月) 08時51分

JOさん
 諏訪大社の祭りと出雲とについて、JOさん記事を捜すにはどうすりゃよいかな。
 ともかく、出雲から諏訪に逃げて降参した神話はあるな。

 ところで、やはり三輪と出雲とを不用意に課題レベルで触り出すと、時間をとってしまって半期では無理かも知れない。だから、コラム程度の情報にとどめることになると思っている。

投稿: Mu | 2004年11月 8日 (月) 15時26分

Muさん

諏訪大社の記事かんれんですが、
2004年5月7日の記事です。旅行・地域の分類です。『縄文のビーナスと諏訪大社御柱』の表題です。

暇な人は見て下さい。だけど、出雲に興味がある若い女性陣とはやはり、巫女さんになる資格がありますね。

投稿: jo | 2004年11月 8日 (月) 16時30分

JOさん、出雲に関するところを引用させていただきますね。
「時代は下り大和に強力な王権が生まれ、出雲との国譲りの事件が起こりました。大国主神や事代主神らは天皇家に恭順しましたが、建御名方(たけみなかた)は最後迄抵抗して信州諏訪迄落ち延び、二度とこの地を出ない事を条件に生き延びました。
 日本海の直江津から安曇野にかけては古くから海人族、出雲の勢力が地盤を築いており大和の王権も簡単には攻める事が出来なかったと思われます。又、先程の尖石遺跡のように遥か縄文時代よりここには富が蓄積されていたと思われます。
 諏訪大社はこの建御名方神を祭っています。先日の諏訪大社の御柱の祭りを見ていると巨大な柱を掘建て柱の技術で立てて神が宿る。これは出雲大社の 16丈、32丈の高さの掘建て柱と似ていますね。三内丸山遺跡の掘建て柱も栗の木で巨大なものを立てていました。
 ト‐テム信仰ではないでしょうか?アメリカのインデイアンもト‐テム信仰です。環太平洋で巨大な柱を立てて、神が宿ると考えた海洋民族は今考える以上にグロ‐バルであった可能性が高いと考えざるをえません。」2004.05/07JoBlog
http://akatonbo-jo.cocolog-nifty.com/jo/2004/05/post_4.html

投稿: Mu | 2004年11月 8日 (月) 16時51分

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