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2004年11月30日 (火)

原田勝遺贈・計量書誌学:Citation indexing/Eugene Garfield

Citation indexing : its theory and application in science、technology、and humanities / Eugene Garfield. -- (BA00598180)
  New York : J. Wiley、c1979
  xxi、274 p. ; 26 cm. -- (Information sciences series)(A Wiley-Interscience publication)
  注記: Bibliography: p. 235-239 ; Includes indexes
  ISBN: 0471025593
著者標目: Garfield、Eugene
分類: NDLC : UL681 ; LCC : Z697.S5 ; DC : 029.5
件名: Science -- Abstracting and indexing ; Technology -- Abstracting and indexing ; Humanities -- Abstracting and indexing ; Citation indexes

所蔵図書館 78 [2004/11/30 By NACSIS Webcat]

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2004年11月29日 (月)

ながさここうえん:長迫公園:旧海軍墓地

呉・長迫公園:旧海軍墓地(広島県呉市上長迫町)MSN地図

 2000年の10月世紀末、広島県の呉(くれ)に参った。呉や音戸が縁戚の地だったという理由もあるが、呉鎮守府の跡や、戦艦大和の慰霊碑を確かめておきたかったことによる。
 呉は戦前、海軍によって成り立っていたらしい。地図をみると瀬戸内海の入り組んだ中に、呉湾は倉橋島、能美島、江田島にすっぽり囲まれた良港に見える。真西には宮島も見えるので、このあたりは古代から瀬戸内海の一つの要所だったと思う。平家物語では、清盛が音戸の瀬戸を開拓したようで、音戸大橋には清盛塚もある。中世頃には海賊が一杯いたのだろう。

JR呉駅

JR呉駅
 写真のJR呉駅は呉線になる。「呉名物 帝國海軍鎮守府 海軍さんの珈琲」という看板と「桜に錨」のマークには、なんとなく全身がこそばゆくなった。いまだにこれを見るとアレルギーが悪化する人もおれば、にんまりする者もいる。そして何気なく訪れた若い人は、?と思うだけだろう。意外に、「亡国のイージス」とか、「終戦のローレライ」を愛読した人には、うけるかも知れないが。

長迫公園:旧海軍墓地

長迫公園:旧海軍墓地
 呉の山手に海軍墓地があると知り、なんとしても訪ねたかった。自分の父祖の墓参りさえ滞りがちなのに、どうしてそのような、と我が身を振り返り呟いてみるのだが、年齢とともにますます「亡国」という言葉が頭をよぎり、せめて、戦って散った人たちを忘れないようにしようという思いが、ふつふつとわき上がる年齢になったようだ。
 人類の歴史を振り返れば一目瞭然なのだが、建国というのは並大抵のことではない。そしてそれを維持していくのも大変な難事業なのだ。「私、戦いません。攻めないでください」という題目がどれほど無力かを、しっかり理性的に考えてみれば、ともあれ戦った人たちを偲ぶのは今のMuには当然すぎることになっている。

戦艦大和戦死者之碑

戦艦大和戦死者之碑
 戦艦大和と言えば、名作『戦艦大和ノ最期/吉田満』がある。松岡正剛が懇切丁寧な書評を記していた。Muがそこから足すことも引くことも、なにもない。読んだのは角川文庫判で、呉にいく数年前だった。
 墓を作り碑を建てるのは人の証。古来、王墓、前方後円墳を作ったのは在世中から時間をかけてのもの。しかし、つまるところは、残された者が墓を造って碑を建て顕彰してきた。生者が死者を弔い、偲ぶのは人の属性なのだろう。

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2004年11月28日 (日)

2004/11/28(日)新撰組:別れ別れ別れ

 あと何回か、今夜のような思いを抱いて日曜の夜、NHKのチャンネルをまわすことになる。
 別れ、とかけば愛憎陸離、別れ別れとかけば別の意味。別れの三乗で標題を選んだ。
 離合集散は世の常だが、かねがね新撰組の最期ほど胸うつ別れはない。

 生き残る者、斬首される者、華々しく討ち死にする者、労咳にひっそりと消えていく者。別れの多様性がある。どの者がよい別れ方をしたのかは、よくわからない。永倉も、斎藤も明治の御代まで名も変え生き残り青春を胸に秘めて天寿を全うしたようだ。流山で近藤が大久保と名乗って斬首されたのは有名な話だが、今夜と予告を見る限り、「大久保」と名乗ったのにはそれなりの、近藤の意地もあったのかもしれない。ああいう時代、上様から賜った名をつかうのは、男子の死生観に値する重大事だったのだろう。そういう精神がもしあったとしても、Muはめずらしく笑いはしない。人の寿命はやがて尽きるのだから、生まれた、生きた、と思い定めたなら、そういう死も受け入れられるものなのだろう。

 この問題は大東亜戦争時代に一部学徒兵が万葉集や古事記や、戴冠詩人の御一任者を懐中にいれて山野を跋扈したことにつながり、一言では言えない。言えないが、それを勝海舟が山岡鉄舟に「ロマンティスト」と説明したことは、さもありなんと思った。政治的ロマン主義はいつの世にもあるのだが、それが巧くいったためしはない。ロマンティストは近藤や土方のように、早い死を迎えるのが大方の歴史の事実だった。

 だが、なにが人をして支えるかは、そういうロマン的な情熱なのも事実だ。平穏安定の時期には、世の中には政治家すら不要だろう。軍警民政をかねたロボット官僚だけでこまかな手当はできるにちがいない。しかしシステムの根底をナタで叩き斬るような歴史の突風に襲われたときには、ロマンティストこそが世界を動かす。動かした後は、不要になるのは当然なのかもしれない。平穏な世の中に、酔っ払ったような夢見る人間ばかりだったなら、電気もガスも水道もコンビニサービスも止まってしまう。今夜の新撰組をみていて、その解釈を、そのようにした。

 斎藤一が、甲陽鎮撫隊の仲間割れの中で、誠の隊旗を雨中に打ち立てたのは、お芝居よ、演出よ、だまされちゃいかんと思いながらも、オダギリジョーの熱演に感動した。ええ、おとこや。
 土方歳三さんの洋装は、ほんとうに似合っていた。あのオールバックの髪型も、まるで山本さんが選ばれたのは、今夜の土方の為だったんか、とおもうほどに似合っていた。さて最期に「新撰組副長、土方歳三」と名乗ってくれるのかどうか。
 沖田総司は、ますます、いやあ、もう労咳役者専門というか、入魂の病中演技がたまらぬ。一般に、ああいう丸顔、大きな眼では往年の市川雷蔵のようなニヒルな眠狂四郎役はつとまらないのだが、最近の労咳ぶりをみていると、意外に彼はこういう役もこなすと、思った。

 勝海舟は、先回の「江戸弁」がとてもよかったが、今夜の老獪ぶりも板に付いていた。しかし、これまでの海舟評価はMuの中で変わってきた。これも演出や脚本の魔術なんだろう。要するに、江戸を火の海にしなかった功績、最期の幕府を支えて衆愚集団となることを止めた功績を高く評価してきたのだが。戦って矢尽き刀折れた近藤勇に、男子としての深い嫉妬を海舟がもったように思えた。人はいずれ寿命がつきる。どう生き、どう死んでいくのか。ああいう時代、明治の安定期に入った頃、海舟ほどの人間なら、近藤勇に複雑な思いをあじわったのかもしれない。
 五年間で、人の三十年分ほどを生ききった新撰組には、やはり、オーラがあったのかも知れない。いまの時代に、新撰組を題材にする演目がまだあり、それがMuを毎週釘付けにするなら、おそらく当時もそういう世相はあったのだろう。葵と菊。この単純な入れ替わりではなかったのだから。

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日本・文学・小説:凍える牙/乃南アサ

凍える牙/乃南アサ著
  東京 : 新潮社、2000.2
  520p ; 16cm
  (新潮文庫 ; の-9-10)
  ISBN:4101425205
著者標目:乃南、アサ(1960-) 〔ノナミ、アサ〕
分類:NDC8:913.6、NDC6:913.6

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2004年11月27日 (土)

葛野追想:葛野図書倶楽部2001創成紀

2001年の夏
 生まれて以来毎年夏は来る。しかし、この21世紀最初の年の夏は格別なものだった。
 事情があって、それまで在籍していた学科から、新しい部署に移ったのがこの年の春だった。しかし図書や雑誌は早々と移転することもできず、夏までおいておいた。
 移転は一人でしようと決めていた。組織なのだから事前に予算の相談などしておけば、すんだことなのだが、Muは気むずかしい面も僅かにあって、そういう事務的折衝をすると必ず激怒するようになっていた。要するに、邪魔くさいのだろう、人にきっちり説明し、意をつくすのが(苦笑)。
 皇帝なんだからしかたないと、諦めている。
 「余は、このようにする」の一言で、有能な官僚、将軍、秘書団がすっと、遅滞なく実現する以外は、大抵難儀なことになり、なるものもならず。

 ところが、書庫予定の部屋は納戸も椅子もなんにもなく、それらの古物収集(大学の倉庫には必ずある)や、一人で図書を運ぶうち、全体の三割くらいで音を上げて、べそをかいてしまった。
 しばし呆然。
 大学の夏は閑散としている。当時は、のんびりしたもので、相談する事務も同僚も機能停止。もとより、相談する気持も薄く、結局困ったときの学生頼みをした。大学で、一番有能なのは学生であるという持論の実証も兼ねていた。相手は二十を越えた成人なのだ。
 一部の有能な学生達は、ひと言で言えば、「理屈が通る」。往々にして、若いものを相手にする社会人は、見くびって無理に動かそうとするのも多いが、相手はモラトリアム時代の中にいるのだから、それは逆効果である。一瞬なら効く場合もあろうが、持続は無理だ。で、Muの理屈は一つ。
 「余は困っておる」(笑)
 さっそくに回状が行き渡り、都合五名の学生が集まってくれることになった。
 (史官として正確に記すなら、昼の実働は後日の局長、書記局長、一番隊長の三名。夕方の慰問参集は当日近所でバイトをしていた後日の副長、経理局長の二名だった)

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2004年11月26日 (金)

JO記事『クエ料理 九絵家(大阪)』のこと

 畏友Joさんが、よい記事を掲載した。
 クエ料理のことだ。
 酒のこと、魚のこと、バスタブに造ったジオラマのこと。
 なかなか、得難い情報だった。
 この記事の内容は、登場人物の物知りレベルではなく「知恵」に昇華している。それが文化なのだろう。
 なかなか出せない味わいだ。
 Muが七転八倒してだせるものは、左手にマック・マウス、右手にWinマウスをもって、並行指示をするくらいだろう。これは、人間が両手をもつことに気づいたMuの、知恵である(やや、苦笑)。

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ごこうのみや;ごこうぐう:裏から見た御香宮

御香宮北門(京都市伏見区御香宮門前町)
  MSN地図(詳細

 先回、伏見奉行所跡について記録した。観点は、幕末から明治にかけて、1868年、鳥羽伏見の戦いで伏見奉行所に新撰組や会津藩軍が陣取り、北の御香宮に布陣した薩摩藩軍の砲弾攻撃をうけたという歴史の追想であった。「目と鼻の先なんだなぁ」という感想が関東の知人達からあった。

御香宮北門石柱
 普段、御香宮に参詣する人は京阪ないし近鉄電車をおりて東へ徒歩二分で正門に達する。ここで向きを変えて門に入り、200メートル歩くと、北の裏門に達する。写真は北の裏門に立っている石柱で、明治のものだった。凝った字体は篆書(てんしょ)だろうか。先頭の二文字が埋め消されている。最初は「官幣」(往時、国の管轄になる神社)と思ったが、調べてみると「府社」が消されたのだと考えた。御香宮は、大東亜戦争敗戦時までは、地方官の管轄だと分かったからである。
 消さなくても良いのにと思った。歴史の解釈は多様に変化するが、おりおりに記された記録は、抹消改変すべきではないというのが、Muの持論である。そういう意味では、「京都[帝國]大學附属圖書館」という石碑も同じことだ。戦後、消さなくても良かった。
 ただ、……。消した痕跡を残したまま、そこにあるというのは、もう少し複雑な事情があったのかもしれない。あるいは単純に経費節減のためだったのか。 

御香宮境内北門
 北門に立って南に向かい、境内の写真を撮った。広い境内だった。薩摩の布陣まではイメージ出来ないが、官軍となった彼らが右往左往しているのは想像できた。ただ、ふと思ったのは、広いと言ってもここに数千の兵がかたまり、そして砲門がいくつも南に向けられていたことを思うと、あふれた兵は北門を通してさらに北に数珠繋ぎだったかも知れない。往時も北門は小さな門だったろうから、長い待ち行列が発生していたと想像すると、笑えてきた。

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2004年11月25日 (木)

日本・文学・小説:京は人を賤うす/中谷孝雄

京は人を賤うす:中谷孝雄作品集/中谷孝雄著

京は人を賤うす/中谷孝雄
  東京 : 皆美社、1969.7
  239p ; 20cm
内容著作注記:京は人を賎うす / 敗者の歌 / 才女の運命 / 妄執 / 若き日の詩人
注記:著者の肖像あり
著者標目:中谷、孝雄(1901-1995;明治34年-平成7年) 〔ナカタニ、タカオ〕
分類:NDC6:913.6、NDLC:KH418

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2004年11月23日 (火)

ふしみぶぎょうしょ:伏見奉行所跡と魚三楼

伏見奉行所跡(京都市伏見区西奉行町:現・桃陵団地)と魚三楼
  マピオンBB地図(概略)、MSN地図(詳細

伏見奉行所跡石碑
 新嘗祭、勤労感謝の日の午後、ふらりと電車に乗った。カードは210円しか残っていなかったが、木幡研からは200円ですんだ。駅は京阪電車・伏見桃山(近鉄だと桃山御陵前)で下車した。で実は、伏見奉行所跡よりも先に駅のすぐ東、御香宮へ行ったのだが、……。いまディスプレイに向かい、二週間前、NHK新撰組の源さんの討ち死にや、土方歳三のことが頭をよぎり、整理する段階になって、伏見奉行所を先にすることにした。
 この石柱が、往時の伏見奉行所跡を示している。詳細地図で見るならば、現在の桃陵(とうりょう)団地全域がそうだったと思って良い。今から136年前、新撰組の頭上に、すぐ北の御香宮から砲弾が飛んできたのである。
魚三楼軒燈
 となると、どうしてここに瀟洒な軒燈が写っているのか。この老舗料亭に、Muがしれっと女将に挨拶して入っていったわけじゃない。この魚三楼(うおさぶろう)は、MSNの詳細指定地図の左上に店名がでている。石柱の位置からは徒歩で250m、数分のところだ。たしかに家族連れがでてきて、品の良い女将らしい人が客を見送るそのときに、Muは店先にいた。
 明治元年(1868)の正月、おそらくこのあたりは戦場の争乱にまきこまれていたことだろう。伏見の戦い。マピオンの概略地図で見るとわかるが薩摩藩軍の陣はすぐ北の御香宮、そして伏見奉行所には会津藩軍と新撰組とが中心だった。NHK新撰組では、砲弾が飛んできたとたんに新撰組だけが残ったように描かれていた。

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2004年11月21日 (日)

2004/11/21(日)新撰組:どうすればよいのか

 もうため息もつかず、日曜夜の新撰組を観ている。
 まとめて人が死んでいく。
 哀しさが次々と眼前を通り過ぎていく。
 哀しみよこんにちはではなく、次の哀しみのために、今の哀しみよさようなら、という感じだった。

 かくして明治維新の初っぱな、鳥羽伏見の戦いもふくめて、歴史に必然性があったとは思えない。
 ずっと、必然として御一新を向かえたと思いこんでいたのだが、それは後智慧。
 おりおりの判断で右にも左にも歴史が変わっていった。
 あとからみれば分明でも、その時当事者達は右往左往した。
 
 Muが慶喜ならば。
 大阪、京に出立したとき覚悟をきめていただろう。それは将軍職に魅力を持たなかったからだと思う。だれが見ても後始末役に見える。Muは迷いすぎて、やがて迷うのに疲れる。
 大阪で、
 江戸の海軍を呼び寄せ、城と艦砲射撃(そういう力はあったはず)で、錦旗を打ち砕く。
 勝海舟や榎本武揚なら、命をうけるだろう。
 新たな錦旗をつくり、会津兵に持たせる。
 新撰組は敗残兵を集め、新撰組・遊撃隊とする。
 伊勢から畏くも天照大神さまを大阪城に一時お招きする。
 朝廷には資金を渡し公卿を窓口とする。三条公雪辱の機会。
 三種の神器奪取。
 上御一人を、難波の宮にお連れする。
 薩長討伐の詔。

 薩長と、淀川をはさんで決戦。
 勝利時は、薩長解体、朝廷ミヤケとする。列公会議議長となる。もう一つの明治維新。
 敗北時は、江戸へ退却。善後策を練る。
 この間、列強干渉を避けるため勝海舟を全権委任大使とし、各国と交渉。 
 
 列藩が徳川治世にあきあきしていたかも知れない、とは思ったが。
 黒船が来たから幕府が滅びたわけでもないだろう。
 もし必然があったなら、単純素朴な経年変化、国の中心を支えるには古くなりすぎた、というわけだろうか。
 鎌倉幕府1192年→200年→室町幕府1392年→200年→江戸幕府1600年→260年→明治1868年
 歴史の方向に必然はないと思う。
 長き治世がほころび、飽きてくるのだろう。
 正義も不正義もあとでの理屈合わせ。
 「勝てば官軍」とは、よくぞ言ったものよ。
 当事者達には一寸先も闇。

 だから、一本気な会津藩主松平容保(かたもり)も近藤勇局長も、時代に殉じたというのが分かりやすい言葉なのだろう。近藤勇は斬首となり、容保は明治十三年に東照宮宮司、明治二十六年没した。

 土方と斎藤の組合せがやけにぴったりしていた。
 斎藤一は、明治を生き残り、端座して死んだと聞いたことがある。
 彼の胸中を想像した。
 20代のことは60、70になっても昨日の夢。
 不思議な男だ。

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欠伸軽便鉄道・乗車切符/森博嗣庭園鉄道

庭園鉄道の乗車切符

欠伸軽便鉄道(弁天ヶ丘線)乗車切符
 というわけで、一行八人は三々五々に土曜の森邸にたどり着いた。Muは2002年の夏にヴィッツRSでこちらへうかがったことがあり、ナビゲーションシステムには場所が記録されている。しかし今回は、新幹線に乗りたく、また名古屋駅を確かめたく思い、とぼとぼよろよろと歩いていった。
 たどり着くまでの艱難辛苦だけで記事が数編記せるが、それはよしにして、庭一杯、家屋をぐるっと取り囲んで、そしてガレージ書斎の中までレールが敷設してあることを、実見し、驚喜した。

 全員がそれぞれ客になったり、運転士になったりで、約二時間。スバルさんのいれた珈琲やら紅茶にみなみな喉を潤したあと、十数台ある電車、機関車の説明を、森先生兼作家兼運転士兼車掌兼、技師長ケンケンさまから懇切丁寧にうかがった。
 それで終わったわけではない。
 夕闇迫る頃になっても熱気さらず、再び、次々と薄暮の中をライト照らして機関車は走った。

 それが終わっても、まだあった。
 森一級機関車整備士は、黙々とすべての列車をガレージの中に、あるものは手動で、あるものは跨り自走し、あるものは、なんと無線で次々と格納していった。暗いなかで、それを手際よく丁寧になさっていく姿に、一同感動を新たにした。車両によっては本体重量45キログラムもある世界なのだ。
 バッテリーや、油、レールの点検、準備・後始末、ご隠居しているわけではないのだから、この庭園鉄道お披露目にかかった労力時間は、想像するだに恐ろしい。

 切符は、その記念に、わがMuの第一級宝物としよう。すなわち、Mu大帝國國寶なり。

JR名古屋駅前(北側)
 ところでなんですなあ。
 名古屋というのは不思議なところであります。京都からわずかに30数分電車にのっただけで、言葉も空気も違う。異国なり。現代に続く日本の統一を、手早くなしとげた信長や秀吉の出身地。そして、三河の徳川も、京都からみると名古屋のご近所。柳生新影流も名古屋に伝授されたと、どこかで耳にしている。
 その名古屋にものすごでっかいビルが建ったと聞いたのは、たしか京都駅ができてしばらくしてのことだった。Muはこの日、初めて双子のビルの、写真で左側を探検したが、ダイナミックな人いきれで、めまいがした。まさしく、異境のシティーであった。
 名古屋。
 不思議な土地である。近いうちに、大きな催し物があるようだが、みんな名古屋に来るとびっくりするにちがいない(笑)。要するに、名古屋は信長と秀吉をこき混ぜて世に送り出し、そして御三家尾張として維新を迎えた、……。

参考サイト
  ミニュチュア庭園鉄道・機関車制作部/森博嗣
  オープンデイ(2004年11月20日にあったオープンデイ記事ですが、長大な記録ですから頁内で「A&Bオープンディ」という検索をかけた方がよろしいようです。
  

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2004年11月20日 (土)

2004/11/20(土)大津絵のこと

 されば天智紀六年(667)、都は飛鳥から近江の大津に遷った。正確に記すと、天智の母にあたる前代の斉明天皇は晩年、飛鳥の「後岡本宮(のちのおかもとのみや)」から九州に遷り、福岡県朝倉の「広庭宮(ひろにわのみや)」で亡くなられたので、福岡から近江の大津に遷ったことになろうか。もちろん、後代の天武天皇はまた飛鳥に戻ったので、近江朝へ遷ったと言っても、飛鳥の施設はそのままあったのだろう。
 近江大津宮跡(地図)は、滋賀県・大津の近江神宮近くと推定されている。滋賀県大津市錦織(にしごり)に遺跡がある。
 しかしなんですなあ。
 大津といえば、大津皇子はMuBlogでもいくつか記事にしましたが、この「大津」という地名を冠した「大津絵」が、わが宇治は木幡研究所の壁に数枚飾られているというのも、奇縁。
 奇縁と記したが、皇子の大津さんとは関係はなく、江戸時代に三井寺周辺(同上地図)で売られていた素朴な、民芸絵画だったらしい。肉筆から版画に移ったようで、写真は版画である。

木幡研の大津絵:仏さん

木幡研の大津絵:鬼さん

木幡研の大津絵:猫と鼠と瓢箪

 仏さんも、鬼さんも、猫鼠も可愛らしく描いてある。
 調べてみると、それなりに由緒があって面白い。
 仏さんなのか、坊さんなのか穏やかなお姿に心が和む。
 私は鬼の表情が見飽きない。「鬼の寒念仏」というらしい。
 猫が鼠にたらふく飲ませて酔わせて、うふふ。

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2004年11月19日 (金)

2004/11/19(金)blogの工夫

 今朝起き抜けに梅翁からメルがあって、「MuBlogには工夫があるね」と言葉をもらった。
 返信として、
 「記事はMuに向けて書きます」
 「コメントは、九割は相手その者にむけて。ほんのわずか公開性であることを意識する」
 つまり、不特定多数の人に書いているようで、実際は、モノローグと、次に自分自身を第三者として扱い、別の第三者のコメントに解説をしたり、同時に記事執筆者Muに返信していることになる。

 日記という考えは薄い。
 もちろん、日記がそういうものだったなら別だが。

 ある講演で、昨日のMuと数週間前のMuと、数年前のMuは全部別人、他人。数年前のMuという人の知識や情感を、いまいる別のMuが読んで学んだり、感心したり、罵倒したりしています。と、言った。

 以上のようなことは、心理学や異常心理学では単純に解明されていることかもしれない。多分、自我の多重化、なんだろう。しかし、それを実践して今いる自分の役に立てるのは、これは異常であろうが正常であろうが、なかなか便利なものだと、いまさらながら気が付いた。

 すると。
 blogの工夫は、リンクや、カテゴライズや、トラックバック、そしてMuBlog名物「自己参照トラックバック」だけにとどまらず、実にもっと単純で、役にたつものがあることに気が付いた。
 それは。
 自分の記事に、おりおりに、コメントすること。時間遷移をともなった、自注。後智慧自注とでも、記録しておく。
 これは、単純すぎることだが、実にblogならではのことと、今朝ひとしきり感心した(笑)。

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2004年11月18日 (木)

日本・歴史・古代:飛鳥発掘物語/河上邦彦

飛鳥発掘物語/河上邦彦著

飛鳥発掘物語/河上邦彦
  東京 : 産経新聞ニュースサービス、2004.10
  325p ; 20cm
  ISBN:4594048137
注記:発売:扶桑社
注記:カラー口絵写真、15葉。その他モノクロ、約100枚。
著者標目:河上、邦彦 〔カワカミ、クニヒコ〕
分類:NDC8:210.2、NDC9:210.33
件名:BSH:遺跡・遺物-奈良県(K)、BSH:日本-歴史-大和時代(K)

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2004年11月17日 (水)

あらしやま:嵐山・渡月橋遠望

嵐山・渡月橋(京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町)マピオンBB地図

愛宕山と嵐山
 この愛宕山と嵐山をまとめて撮せる位置は、大堰川・罧原堤(ふしはらつつみ)の松尾橋付近から始まる。京都は阿蘇や富士山、そして北海道の雄大な景観にくらべると、すべてが小さくまとまって人工の趣が強いのだが、それでもこの堤から愛宕山を見上げると、日頃味わえない開放感にひたることができる。だからMuにとって大切な場所である。
松尾大社遠望
 上に記した堤に立って、目を愛宕山から南に向けると大きな鳥居が見える。ここが由緒ある松尾大社である。京都の寺社仏閣の中でも少し外れた地なので知らない人も多いが、正月はこのあたりが人でいっぱいになって、未だに神威あらたかである。幼少期は単に「酒」の神さんとだけ聞いていたが、調べれば調べるほど謎大きく、興味深い神社である。これに付いては、別途記事をたてる予定。

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2004年11月16日 (火)

MuBlogアクセス傾向:2004/11/15

 先日の八万アクセス達成時の一週間前に、MuBlogがどういうキーワードでアクセスされたかを調べてみた。

MuBlogアクセス傾向:20041115
 円グラフを見てみると、ダ・ヴィンチ・コード関係が圧倒的に多くて32%を占めている。{歴史観光、古代史}を合わせたものが35%なので、MuBlogはこの2大分類で7割近くのアクセスを得ていることになる。
 さらに言うと、ダビンチコードは現代の、ミステリというよりも歴史小説とMuはとらえているので、結局{ダビンチ、歴史観光、古代史、小説}で8割を占めたことになる。これをまとめると、【歴史・小説】とでも言えようか。

 分析してあらためて思ったが、MuBlogは歴史・観光・小説の世界なのだろう。
 と、ここで自らうなずいた。それで間違ってはいない(笑)。
 考えてみれば、「美味しい物」も、観光に含まれてしまう。
 なんだか、当たり前の結果が出たが、一応客観的な姿がこの円グラフにはある。

参考データ
  アクセス・キーワードを分類したPDF文書ファイル
後から参照(記事掲載後の追加)
  客層分析 11月編(2004年)(JoBlog)同1番目にMuの解釈をコメントしておきました。

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2004年11月15日 (月)

八万アクセス

 いま午後五時前ですが、先程午後一時を回った頃に8万アクセスを超えたようです。
 7万アクセスからは、ほぼ一ヶ月ですが、先々週は日に500を超えた曜日もあり、なんらかの特殊な状態のようです。試算では今週中に8万になる予定でした。
  対象日: 2004年11月15日(月)
  累計アクセス数: 80083
  1日あたりの平均: 329.56

今日一日のアクセス推移です。
時間 アクセス数
  00 AM 8
  01 AM 5
  02 AM 5
  03 AM 5
  04 AM 11
  05 AM 0
  06 AM 6
  07 AM 4
  08 AM 5
  09 AM 17
  10 AM 13
  11 AM 22
  12 PM 35
  01 PM 31
  02 PM 21
  03 PM 9
  04 PM 15
 気がついたのですが一日のピークは、夜よりも昼食時のようです。おつとめの人とか、学生さんが見てくれているようですね。ひっきりなしは、畏友JOさんくらいですから(笑)。

  七万アクセス記事

ワードランキング
対象日: 2004年11月08日(月)~ 2004年11月14日(日)
合計数:1575
順位 検索ワード 件数
 1 ダヴィンチコード 163
 2 地図 26
 3 京都 17
 4 シオン修道会 13
 5 映画 13
 6 谷口敏夫 13
 7 図書 12
 8 ウィトルウィウス的人体図 11
 9 ローレライ 11
 10 写真 11
 11 ダビンチコード 10
 12 伏見桃山陵 10
 13 小川コーヒー 10
 14 新撰組 10
 15 飛鳥浄御原宮 10
 16 二上山 9
 17 最後の晩餐 9
 18 肉うどんレシピ 9
 19 ほづがわくだり 8
 20 ダビンチ 8
 21 柳生一族の陰謀 8
 22 角川 8
 23 そうめん 7
 24 グルメコンシェルジェ 7
 25 三角縁神獣鏡 7
 26 森正 7
 27 高山寺 7
 28 プロフィール 6
 29 感想 6 
 30 折口信夫 6
 31 水滸伝 6
 32 苅谷俊介 6
 33 葛野図書 6
 34 解説 6
 35 鳥越憲三郎 6
 36 らくししゃ 5
 37 ハリウッドハイランド 5
 38 京都駅 5
 39 口語訳 5
 40 四季 5
 41 奈良市 5
 42 宇治源氏物語ミュージアム 5
 43 小説 5
 44 平家物語 5
 45 映画化 5
 46 森博嗣 5
 47 河村能舞台 5
 48 神々の乱心 5
 49 美しいサイト 5
 どうにもこうにも、ダビンチコードですね。泣きそうになるくらい、多いです。ほかの記事が可哀想になります。内容としては、変わったことは書いていませんが、数点の関連記事の影響があるのかもしれません。また、よそさんのダビンチコードblogは、一日に数万のアクセスがあることでしょう。こちらは、一週間でこの程度です。
 なお、今回から、このキーワード郡は別途分析し、記事を掲載します。

先週:検索フレーズランキング( 3件以上のみ)
対象日: 2004年11月08日(月)~ 2004年11月14日(日)
合計数:451
順位 検索ワード 件数
 1 谷口敏夫  図書 12
 2 ダヴィンチコード  映画化 5
 3 森正  そうめん 5
 4 角川  ダヴィンチコード 5
 5 ダヴィンチコード  感想 4
 6 ローレライ  映画 4
 7 二上山  地図 4
 8 ダヴィンチコード  角川 3
 9 人体図  ダビンチ 3
 10 國學院  チンギスハン 3
 11 映画  ローレライ 3 
 12 菊帝悲歌  後鳥羽院 3
 最初にある組み合わせは、どこかの変な人が、冷やかしでアクセスしたんだと思います。同じ用語の組み合わせを、こんな小さなMuBlogに12回も実行するなんて、お笑い沙汰です。こまるなぁ、そんな冗談されると。
 12番目の{菊帝悲歌、後鳥羽院}これはうれしい。MuBlogの真骨頂ですよね。ああ、先週レベルでは卑弥呼がない。寂しいな。
 とはいうものの3番目の{森正、そうめん}これは苦笑ものです。箸墓も三輪山も檜原神社もなくて、「そうめん」だなんて、あはは。

先週:曜日別
対象日: 2004年11月08日(月)~ 2004年11月14日(日)
合計数:2864
  曜日  アクセス数
  MON 490
  TUE 442
  WED 369
  THR 405
  FRI 444
  SAT 365
  SUN 349
 毎週見ていると、結構月曜日が多くて、週末は少ないですね。みんな、いさんで月曜出勤して、登校して、まずはMuBlogでしょうかね。そのうち飽きてきて、週末は見なくなる(笑)。そして、また月曜日。見ずにいられなくなる。おお、よい循環が生まれておりますな。
 さて、先々週あたりはイレギュラーなアクセスもあり、次の9万アクセスはおそらくクリスマス前後と予測しております。してみると、10万アクセスは、来年1月末でしょうかね。約束では、江戸は隅田川の屋形船で、お祝いしてくださるようです。これは、世界中のひとが注目するでしょうから、JOさん、約束破ると、人格を疑われますぜ。(おっと、ついでにJoBlog5万アクセスに、ふうてん老人開設5周年も、込みでしたな)

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2004年11月14日 (日)

2004/11/14(日)新撰組:井上源三郎の千両松

千両松激戦地推定(京都市伏見区横大路松林付近?)
  マピオンBB(大地図)、MSN(小地図
  参考記事:京の歴史マップ/新撰組

 井上源三郎は明治維新の1868年4月に40歳で討ち死にした。場所は宇治川のそばの、京都市伏見区にある「千両松」というところらしい。天然理心流で、新撰組六番隊組長。
 今夜の源さんは、近藤局長養子の周平をかばって死んだことになっていた。番組の春ころは、町人姿で江戸の試衛館をうろうろしていて、掃除したり薪を割ったり、茶を運んだりと、いわゆる作男というのか、使用人という雰囲気だったが、いつもにこにこわらっていた。年長者として、若い近藤や沖田や土方の間を上手に取り持つ姿が、源さんの持ち味だった。そして人柄の良さそうな俳優だった。

 むしろ、大阪城で深夜考えにふける近藤の前に生前のまま立ち現れて、語り終えたあと、ふわーっと消えていく演出が良かった。はじめてそこで源さんがもういない、という感慨に襲われた。近藤局長はまだ三十代前半のはず。さぞ気持を落としたことだろう。
 戦だから死に別れは当然なのだが、こうやって春先から見ていると、辛いものだ。
 おもったとおり、さよなら源さんの今夜も、よかった。
 これから幾人かの死をみつめていくのは、しんどいことだが、最期まで見届けてみようと思った。

 悔しくて、斎藤一がダンビラ振り回して官軍に襲いかかるシーンは、斎藤が明治まで生き残るのを知ってはいてもはらはらし、同時にカタルシスを味わった。錦旗を踏みにじるのが、官軍だった演出が上手だな。
 それにしても、岩倉卿が、御所で西郷・大久保と話し合っていて、さっと用意した錦旗をとりだす手練には、まいった。公平にみるなら、薩長、徳川、双方あらゆる手を尽くして、勝ちたかったのだろう。大久保が承久の変(1221)の故事から、後鳥羽院が錦旗を造って将にわたした話を岩倉に言ったのもよかった。後鳥羽院は、菊帝といわれるくらいの菊好き、菊の御紋も後鳥羽院の発案とか、どっかで目にした(要調査)。

 それにしてもね。武家の統領徳川慶喜がさっさと江戸に逃げ帰る、しかも将兵をのこしたまま(伝えてもいないと、伝聞あり)。あれは、末代永劫の恥だな。尊氏が賊軍になった故事から、徳川がそうなるのは避けたい、という小憎らしいセリフ。ああいうところで、脚本とか演出の技に私はころりとまいって、「慶喜、卑怯なり」と危うくTVをぶちこわす衝動に駆られたぞ。あはは。
 慶喜さんよ、あんた公家じゃないんだから。
 戦闘集団の長なんだよ、将軍というのは。
 お公家さんは血をながしてはならん伝統があるが、武人は血を流してはじめて、それまでの世間に対する申し開きができる職業なんだ。それお……。
 ああ、あれはドラマでした。つい、血が頭に上ってしまう。

追伸
  千両松の激戦地や、井上源三郎討ち死に地は、正確に分かりませんでした。あのあたりでしょう。
  稲垣吾郎さんが、最終に出るという噂ですが、嘘だよね。あのひと、今は金田一耕助だから。

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プルートウ:Pluto(1)/浦沢直樹(漫画)

プルートウ:Pluto(1)/浦沢直樹、手塚治虫(漫画)

Pluto:プルートウ-01/浦沢直樹、手塚治虫
 11月のはじめだったか、京阪電車の四条駅を降りたとき、ばかでかい宣伝がかかっていて、それがプルートウだった。Mu はそれを映画の宣伝と思っていた。
 最近エドルンなる者に会ったら、「プルートウはヨサゲ也」と、ご託宣が下った。
 さそくに、Muも読んでみんとてするなりの心。
 小学館の大型判を買った。あに図らんや、漫画でした。
 ところで、漫画というのは漫才の画かな、と思った。
 
 ここで、作品内容にはふれないでおくことにする。また、手塚治虫さんと、浦沢直樹さんの、作品完成にいたるゆくたても、ふれないでおくことにする。
 読んだ結果は、(2)が待ち遠しい。つまり、第一巻はとてもおもしろかった。
 刑事みたいな人がおって、それがハードボイルド風で、引き込まれてしまった。

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2004年11月13日 (土)

原田勝遺贈・知能情報学:Relationships in the organization of knowledge/ed. by C.A. Bean

Relationships in the organization of knowledge / edited by Carol A. Bean、 Rebecca Green. -- (BA52903378)
  Dordrecht : Kluwer Academic Publishers、c2001
  ix、232 p. ; 25cm. -- (Information science and knowledge management ; v. 2)
  注記: Includes bibliographical references and index
  ISBN: 0792368134
  著者標目: Bean、Carol A. ; Green、Rebecca、1952-
  分類: LCC : Z666.5 ; DC21 : 025.4/9
  件名: Information organization ; Subject headings ; Library materials Classification

所蔵図書館 7 [2004/11/13 By NACSIS Webcat]

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2004年11月12日 (金)

卑弥呼の宮殿

卑弥呼の宮殿(奈良県桜井市大字三輪)マピオンBB地図
  MSN地図

日の巫女(旧称・卑弥呼)宮殿
 長年もやもやとして、思考が定まらずに悩んでいた卑弥呼のことで、今夜は決着を付けておく。
 彼女は、檜原神社西・少し北300mの地に住まわれていた。

 要するに、卑弥呼がどこに暮らしていたかを、自分の中で決めておかないと、何を考えてもふらふらと諸説に身を乗り出して、だまされた想いがして、また別の説に首を突っ込んで、夜も眠られなくなる、これは自分の中に行き先がないのと同じことなのだから、気持ちよく決めてしまえば良かろう。
 真説かどうかは分からない。
 それが事実と、考古学や古代史で決定されるまでは、Muは今夜の決断として卑弥呼の宮殿を彼の地に押さえておく。

 卑弥呼は、箸墓と檜原神社の、少し三輪山より、現在二つに分かれた井寺池のあるあたり、眺望の良いところに宮殿を構えていた。文献上では、日本書紀の崇神紀にしるされ、そして箸墓の被葬者と伝承される倭迹迹日百襲媛命(やまと・ととび・ももそひめのみこと)が魏志に記された卑弥呼である。

 この説の根拠は、いつかまた。落ち着いた頃に。

後から参照
  何故卑弥呼は箸墓に眠るか(JoBlog)

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2004年11月11日 (木)

日本・歴史・古代:崇神天皇/肥後和男

崇神天皇 / 肥後和男著<スジン テンノウ>. -- (BN03185939)
  東京 : 秋田書店、1974.8
  244p ; 20cm

注記: 巻末: 天皇家系図
著者標目: 肥後、和男(1899-1981)<ヒゴ、カズオ>
分類: NDC6 : 210.3 ; NDLC : GB161
件名: 崇神天皇(前148~前30) ; 日本 -- 歴史 -- 古代
所蔵図書館 20[2004/11/11Mu調査]by Webcat

帯情報

日本上代史
最古の天皇

実在した最古の天皇とその時代像

古事記、日本書紀を中心に、中国側史料を駆使し、民俗学、考古学などの広範な知識をもってトータルな上代史を再構築し、そこに君臨した崇神天皇像を解明する


目次情報
はじめに
崇神天皇とその時代
  崇神とミマキイリヒコ
  邪馬台国とヤマト
  崇神天皇についての史料
  崇神天皇の時代
崇神天皇と大物主神
  崇神天皇の家族関係
  神々を祭った話
  モモソヒメとミマキイリヒコ
崇神天皇と国内統一
  国内統一の進展
  天照大神と大国魂の神
  出雲との関係
  筑紫と毛野
  海外との関係
  経済の発達
  むすび
付、天皇家系図・崇神天皇関係系図

著者略歴
 肥後和男(ひご・かずお)
 明治三十二年に茨城県に生まれる。京都大学国史学科卒業。東京文理科大学教授を経て現在[1974]、同大学名誉教授。文学博士。日本古代史専攻。
 主な著書に「日本神話研究」「神武天皇」「崇神天皇と卑弥呼」「天皇史」などがある。

Mu注記
 文章及び論旨が明快で、読みやすく滋味がある。二十代に数度読んだ。現在(2004秋)再読中だが、示唆にあふれた箇所が随所にある。たとえば、p.136(モモソヒメとミマキイリヒコ)でこんな文があった。
「三輪の神を巨大にしたのは、山そのものがもつ威容ではなしに、むしろこれを象徴としてうちたてた宗教的人格であったとすることもできる。その意味ではモモソヒメの内証そのものが大物主であったと考えられる。」
 思い切った書きようだし、このあたりの全文は、本当に刺激的である。Muはかねがね三輪氏のことが不明瞭に思えていたが、私がそう思う理由なども、きっちり書いてあった。つまり、三輪氏にはあの大物主神やヤマト・トトビ・モモソヒメの神霊・呪力を斎き祀る、そういう力が見えないのである。祀るにはそれに対応できる家の資質や、能力が必要である。強力な神の近くにいるということは、並大抵のことでは無かろう。それにしては、三輪氏はあっさりし過ぎている。なんとなく公務員という印象があった。

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2004年11月10日 (水)

『豊饒の海/三島由紀夫』の課題

 さきほど、この九月に脱稿した「天人五衰論」を別途掲載した。
 このことについては、二三、MuBlogでも述べていたのだが、あらためてメモを残しておく。
 要するに、『豊饒の海』全四巻を各巻にわたって可視化し分析するだけで、四年間かかってしまった。遅くもあり、丁度よいとも思っている。一気呵成にするのが正しい場合もあるが、今回は四年という時間をかけた。それは詳細を究めるためとはおもっていなかった。楽しみを残しておきたかった、というのが本心だった。
 20世紀末から、テキスト(小説や学術図書の全文)の重要語を位置付きで抽出し、それを可視化する実験を行ってきて、それはとても単純な考えなのだが、文章の流れ、構造を露わに見せてくれるという確信が当初から有り、いまでは当たり前のことと思うようになってしまった。
 だから、豊饒の海という名作を、とんとんと手際よく分析するのが、もったいないという気持ちに襲われてきたのである。
 各巻ごとに分析し終わった私の中では、すでに『豊饒の海』は、若年時に味わったものとは、ひと味ちがった作品として眼前にある。とくに一巻と二巻との照応の堅固さ、華麗さはあらためてしっかりと、これこれこういうことで、といえるほどまでに、そしてそれを図示できるほどに明瞭になった。
 三巻と四巻とは、三島が嫌った、そしてなお同衾した戦後の昭和らしく、その一種の腐臭を上手に退嬰的な雰囲気として伝えている。そのことで、前二巻と後二巻とには断絶がある。しかし後者の『暁の寺』と『天人五衰』は、なくてはならなかった。それなくば、最終巻最終段落、月修寺での愕然とした結末が生きてこない。その結末があってこそ、その「しんとした」想いが冒頭『春の雪』に光の矢となって、駆けめぐっていくのだった。

 すでに、掲載した箇所(「テキストと情報学」)では、この件に関する私の二つの課題を提示した。いくばくかの時をかけ、後始末をしていくつもりだ。このメモは、そのための一里塚というか、一休みである。
参考サイト
  『天人五衰』の分析終了(MuBlog)
  三島由紀夫文学館(MuBlog)
  『天人五衰』の小説構造可視化(2004)「テキストと情報学」
  

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2004年11月 9日 (火)

2004/11/09(火)猫宝

猫の宝物

木幡・猫猫宝船
 幼少時は圧倒的に犬が好きだった。
 しかし。
 ペットに関わる話は、最初と途中とは楽しいが、終わりが悲しい。だいたい、両親や兄たちや、その他諸々だまされたという思い出が多い。つまり、幼稚園のころとか小学校低学年のころに、記憶では三回ワンちゃんがそばにいた。そしてある日忽然と消えた。三回とも。
 どっかのお兄さんのバタバタについて行って、道に迷って帰れなくなった。とか。
 病気で注射してもらったら、そのまま起きなくなったとか。
 とか。
 保健所の「悪いおじさん」達が、さらっていった。などと。
木幡猫またりんJAPAN
 こどもは、あっけなく信じだまされるものだ。Muはそのころ、まんまと騙されて、めそめそ数日して「しかたない」とあきらめたようだ。もっとも、いまでも方々で、あれこれと何十度もだまされておりますが。Muの人生は客観的にみて他愛ないもんですな。犬にまつわる話はどうしても、この「騙された」感覚が強いです。犬が悪いわけではないが、犬にまつわる話が「だまし」になってしまう。
 その点、猫ははじめから猫化けですわなぁ。もう、だましだまされようがない。この気楽さ。
木幡猫またりん素描
 しかし、なんですなぁ。
 十数年前に猫(またりん)が家に来てからは、圧倒的に世界観が変わりました。いまや、猫的人生態度が一番つきあうのに気楽と思うようになってしまった。またりんは、20時間程度うつらうつらとしております。その間、相手をしなくてすむ。
 そりゃ彼の若い頃は網戸の真ん中あたりにジャンプしてウィトルウィウス的デザインで張り付いたり、地上15m、幅4センチのベランダ柵を渡り歩いたりで、幾たびも心臓が凍りましたが。
 いまや、そういう無茶はしなくなり、ぼんやりとひなたぼっこをする日々。
 それを眺めているだけで、彼の脳内が透けてみえます。「ええ、ひよりやな。Muさんに飼われてよかったなぁ」と、いつも彼は目を細めております。
 これほど良き同居人はおりませんなぁ。

 木幡研には、またりんのために、多数の猫グッズがあります。写真はその一端です。
 宝船、ねこさんたちの表情がみんな豊かでのんびりしていますね。
 手書きの二枚は、またりん翁その人の似顔似姿絵です。

 さっきみたら、また寝ていました。

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2004年11月 8日 (月)

あきづしま:秋津島::秋津洲:蜻蛉洲

秋津島

蜻蛉
 日本の美称は秋津島というそうだ。美味し國、秋津島。
 秋津というのは「あきづ」と読み、これは蜻蛉(あきづ)と同じらしい。で、神武天皇の三十一年四月に、國のかたちを廻(めぐ)らし望(のぞ)みて曰く「いと小さい国だが、山々が蜻蛉のつながるように続いておるぞ」とあり、おそらく山こもれるヤマトを眺めてつぶやかれたのだろう。

 写真は大和三山を撮したつもりだったが、よくみると二匹のとんぼがつながっていた。珍しいものになったので、記しておいた。


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2004年11月 7日 (日)

2004/11/07(日)新撰組:丹波橋にて襲撃さる

 近藤局長が伏見街道丹波橋付近で襲撃された。
 乗馬中に右肩を打たれたようだった。撃ったのは御陵衛士伊東甲子太郎の門下生だった。
 落馬する寸前で番組は終わった。

 (地図:京阪丹波橋駅。襲撃地点をしらべていないのだが、だいたいこのあたりかな?)

 今夜は息を詰めてみた。緩んだところがなかった。あと数回とおもうと、切ないものだ。
 水戸だったか、上席の者が二条城警護に来た新撰組を面罵した。「お前達が、市中警護に名を借り何人もの薩長・浪士を斬ったから、こういうことになった」と。近藤が答えた。「我らは、浪士を斬った。しかしそれだけではなく、規律を守るため自らにも手を下した。その間、あなたがたは何をしていた」と。
 見せ場だった。
 こういう解釈は、新鮮に思えた。これまで、薩長が善玉で、幕府公儀や新撰組は旧体制、滅ぶべき者のあがきとみてきた。しかし、局長の言った言葉が、今夜はのど元をすっと通っていった。

 それにしても西郷どんに大久保さん、悪役ぶりがここ数回で板についてきた。それに、岩倉卿。
 まだ成人にたっしていなかった明治天皇の苦労もしのばれた。
 錦旗がどれほど効力をもったか、逆賊の汚名がどれほどのものだったか、うっすらと分かった今夜だった。

 未来は誰にも分からない。
 来週の鳥羽伏見の戦いも、新撰組が装備を新たにしていたなら、分からなかった。
 時代は、徳川を求めてはいなかった、のか。
 列公会議は不要だったのか。

 大政奉還、版籍奉還、そして廃藩置県。
 大化の改新に似てきた。

 西郷が西南戦争で消え、日本は日清、日露両大戦を経験していった。その間、薩長が軍、政を寡占した。そして昭和になった。日本は敗戦国となった。薩長はそこまで続いた。今は、薩長はどうしているのだろう。鹿児島県、山口県。そして、会津はいまどうしているのだろう。明治維新政府1868年、現代2004年、およそ136年の時がすぎた。大東亜戦争、日本敗戦が1945年。だれにも、分からなかっただろう。

 近藤さんが若年寄にかけあって、新撰組の名を復帰したのはよかった。司馬さんの「燃えよ剣」の土方最期の名場面は、たしか「新撰組副長、土方歳三」と名乗って死んだことになっていた。名は、シンボル。名は、証。名こそ、惜しめ。よく、わかる。

 おりょうの激烈ファンが知人にいる。彼には、おりょうは坂本竜馬が死んだから、もう出ないと伝えていた。あとで知ったら怒るだろう。しかたない。よもや、おりょうがでてくるとは思わなかった。しかし、世はさまざま、Muはおりょうがどうにも苦手だった。あははは。近藤さんの説得にもかかわらず、後日、おりょうは変わっていく。その変化は新撰組には無縁だが、みたくない変化だったはず。

 さて、来週はついに、さよなら源さん。泣くぞMuは、いまから。

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日本・知能情報学・長尾真:学術無窮/長尾真

学術無窮:大学の変革期を過ごして:1997-2003/長尾真 著
  京都:京都大学学術出版会、2004.10
  11、202p ; 22cm
  ISBN: 4-87698-640-1

著者標目: 長尾、真(1936-)・ナガオ、マコト
注記:[刊行]企画 長尾前総長退職記念事業実行委員会

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2004年11月 6日 (土)

みわやま:三輪山遊行(3)森正と大神神社

大神神社(奈良県桜井市三輪)MSN地図
 お昼を過ぎていた。午前五時前にトースト一枚で、そのまま檜原(ひばら)から狭井(さい)神社への細い山道を歩いている間に、Muは空腹がこたえていた。狭井神社も鎮メノ池とイツキシマヒメを学生達に紹介しただけで、大神さんの前を風のように通り過ぎ、ただ一念「そうめん、そうめん」ととなえていた。
 あとで学生達は、ひたすら歩き去るMuの後ろ姿を見て囁きあったそうだ。「先生は、三輪そうめんがすきなのか、神社が好きなのか、わからないよねぇ」と。今にして思えば、空腹の前には神も仏もよそ事なり。このあたりの神々はMuにとって身内のようなものだから、あとでゆっくりご挨拶すれば、よろしかろうとの心境だった。

森正の冷やそうめん
森正のにゅうめん
森正門前、四人の巫女

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2004年11月 5日 (金)

みわやま:三輪山遊行(2)箸墓から檜原神社

檜原神社(奈良県桜井市大字三輪)マピオンBB地図
 
 三輪山遊行(1)の巻向から続いて、箸墓から次に目指すは三輪山麓の元伊勢・檜原神社だった。箸墓は、倭迹迹日百襲姫命・大市墓、が詳しい名前であり、ヤマト・トトヒ・モモソヒメノミコト、と読む。この箸墓の後円部の近くにそうめんの研究所があって、ここで三輪そうめんが天日に干してあるのを見た。そして真東へ坂を上っていくうちに、大和国中(くんなか)が徐々に背後にせり上がってきた。二上山はここからは真西にあった。

山辺の道と三輪山
 近頃の地図ソフトウェアはとても使いやすく安価である。「プロアトラスW3」というのを以前から持っているので、行程を立体表示(ジオラマ機能)してみた。
 この三輪山の南・北・西麓に古代日本の秘密がぎっしり詰まっている。日本書紀では崇神天皇を中心とした時代で、おそらく三世紀前後であろうか。通称、三輪王朝とも言われている。だから、このあたりにある神社はどれもこれも、由緒深く、おそらく日本国の源流に直結したものが多いのだろう。
 そんなことを何も知らなくても、地図の山辺の道を歩いて、とくに西方はるか二上山を眺めると、神聖な空間を肌に味わう。

箸墓から見た三輪山
 写真は箸墓の後円部から東を仰ぎ見た三輪山である。山自体が禁足地だからだろうか、一種の原生林のようになっている。檜原神社は、写真中央の麓にある。このあたりのおもしろさは、距離が百メートル単位なので、少し歩くと風景が変わる。変わるというのは別の風景になるのではなく、望遠レンズで、ズームアップしたようになるということだ。気持ちの上では、少ししか歩いてはいない。とは言っても、箸墓はたしか280メートルもあるから、すでに前方部・西北の池端から、ここ後円部まで歩いたのだから、三輪山に280メートル近づいたことになる。

三輪そうめん
 うしろから小さなリフトカーがごとごとと走ってきた。白い上下の男性が運転をしていた。リフトのかごに、なにか不思議な物があった。そうめんだった。その車が走り去った所に大きく立派な建物があった。近づくと門柱に「三輪そうめん山本 技術研究所」とあった。覗いてみるとそうめんがほしてあった。今、サイトをみると昔のそうめん干しの図柄があった。 

二上山
 箸墓を後にして、一路三輪山に向かって歩いていった。Muはこれまで車が多いので、箸墓経由のルートはまれだった。道が正確にはわからず、道ばたで焚き火をしていた人に尋ねてみた。「まっすぐ」この答えで十分だった。三輪山に向かってまっすぐ歩いた。登りになってくると息がきれてきたので、学生達を先にいかせ、後ろを振り返った。二上山が綺麗に見えた。右が雄岳、大津皇子が眠っている。左が雌岳。しかし、最近手にした図書(飛鳥発掘物語/河上邦彦.扶桑社)では、大津皇子は山麓の鳥谷口古墳が本当なのだと書いてあった。まあ、二上山にはかわりはないだろう。

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2004年11月 4日 (木)

みわやま:三輪山遊行(1)巻向から箸墓

桜井線JR巻向駅(奈良県櫻井市大字辻)マピオンBB地図
 2004年11月3(水)文化の日に、大和・三輪山へ学生達と出かけた。朝のうちは曇空だったが、午後からは晴れて、無事な一日を終えた。学生達とはなにかと小宴をはることも多いが、大挙して出かけることは滅多にない。なぜ今、三輪山なのか。そのことについては、小説葛野記に少し触れておいた。

桜井線
 桜井線は単線で、列車は大抵2両編成。しかもワンマンカーなのでバスにのるようなものだ。車両は老朽化し、風情があるといえばあるが、田舎びた様子は大正、昭和初期のままのようにも思えた。なんとなく、レールまでぐんにゃり曲がったように見えるのは、これはおそらくレンズのせいに違いない。よもや、ローカル線だから曲がったままに敷いてあるとは思えない。

JR巻向駅前の4人メンバー
 一日を同行した4人の学生達である。推定年齢は21くらいであろうか。いまどき、三輪山だの、山辺の道だの、箸墓のと、興味をもつのは珍しい方だろう。しかし君たち、ここは、この巻向駅周辺は古代大都市のあったところ、もしかしたら邪馬台国の祖地なのかもしれない。初めてここを訪れた君たちは、我が国の原点に足をいれた訳である。

柿本人麿公屋敷跡
 人麿の屋敷跡の石碑があった。(地図) 皆が話しているちょっとしたすきをねらって付近を歩いた。そこで見つけたのが柿本人麿屋敷跡。万葉時代の宮都はもっと南の藤原京、飛鳥地帯と思っていたから、巻向にあったかもしれないとは意外だった。

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2004年11月 3日 (水)

もりしょう:そうめん処・森正

そうめん処 森正(奈良県桜井市三輪535)マピオンBB地図

森正の風景
 三輪に行ったときは大抵お昼をここでいただく。暑い季節は冷やし素麺、寒い季節はにゅうめん。写真は2001年の5月ころのもので、小雨が降っていた。この場所は、地図でみると狭井(さい)神社に通じている。だからみわさんの参道脇と言うよりも、狭井さんへの道と言った方がよいだろう。

森正のオープン素麺?
 森正をえらぶのは、店の中がオープンだからにもよる。この日は雨が「よしず」を通してぽとぽとと頭や身体におちてきた。野趣ありというのは、雰囲気に馴染まないが、多少の風雪雨は心地よいものだ。雪の日など、ここであったかいにゅうめんを頂くと、七味がよくきいて、温まりそうだ。おお、熱燗も添えて。
 なお、二度ほど辛い思いもした。じつは森正は月火とが連休なのだ。めざしてたずね、しまっていると辛さが身にしみます。夷関東など、遠国僻地(笑)からの方々はお気を付けてください。

 わすれてました。そうめんのお味。
 ふふふ。そんなことをMuに聞いても無駄です。Muはグルメ評論家じゃないのです。あのたんぱくなおあじを、あれこれと舞文、レトリック、やれ「まったり」の、のどごしの、などと記してなんとなりましょう。一言、三輪でいただく三輪そうめん、よいですね。

参考サイト
   森正(るるぶ)
   三輪そうめん(MORIMURA Naoki氏)
   信仰篤き人たち(MuBlog)
  

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2004年11月 2日 (火)

木幡花々の秋

 木幡の秋の花をすこし。
 例によって、名前はわかりません。
 この3つの写真は比較的明瞭に撮れました。美しく撮るより前に、ぼけないように撮るのが大変でした。
 5月の木幡花々にくらべると、少し落ち着きのある風情です。秋なんでしょうな。

木幡研の花F27

木幡研の花F28

木幡研の花F29

参考
  木幡花々(MuBlog)
  flower

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