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2004年11月28日 (日)

2004/11/28(日)新撰組:別れ別れ別れ

 あと何回か、今夜のような思いを抱いて日曜の夜、NHKのチャンネルをまわすことになる。
 別れ、とかけば愛憎陸離、別れ別れとかけば別の意味。別れの三乗で標題を選んだ。
 離合集散は世の常だが、かねがね新撰組の最期ほど胸うつ別れはない。

 生き残る者、斬首される者、華々しく討ち死にする者、労咳にひっそりと消えていく者。別れの多様性がある。どの者がよい別れ方をしたのかは、よくわからない。永倉も、斎藤も明治の御代まで名も変え生き残り青春を胸に秘めて天寿を全うしたようだ。流山で近藤が大久保と名乗って斬首されたのは有名な話だが、今夜と予告を見る限り、「大久保」と名乗ったのにはそれなりの、近藤の意地もあったのかもしれない。ああいう時代、上様から賜った名をつかうのは、男子の死生観に値する重大事だったのだろう。そういう精神がもしあったとしても、Muはめずらしく笑いはしない。人の寿命はやがて尽きるのだから、生まれた、生きた、と思い定めたなら、そういう死も受け入れられるものなのだろう。

 この問題は大東亜戦争時代に一部学徒兵が万葉集や古事記や、戴冠詩人の御一任者を懐中にいれて山野を跋扈したことにつながり、一言では言えない。言えないが、それを勝海舟が山岡鉄舟に「ロマンティスト」と説明したことは、さもありなんと思った。政治的ロマン主義はいつの世にもあるのだが、それが巧くいったためしはない。ロマンティストは近藤や土方のように、早い死を迎えるのが大方の歴史の事実だった。

 だが、なにが人をして支えるかは、そういうロマン的な情熱なのも事実だ。平穏安定の時期には、世の中には政治家すら不要だろう。軍警民政をかねたロボット官僚だけでこまかな手当はできるにちがいない。しかしシステムの根底をナタで叩き斬るような歴史の突風に襲われたときには、ロマンティストこそが世界を動かす。動かした後は、不要になるのは当然なのかもしれない。平穏な世の中に、酔っ払ったような夢見る人間ばかりだったなら、電気もガスも水道もコンビニサービスも止まってしまう。今夜の新撰組をみていて、その解釈を、そのようにした。

 斎藤一が、甲陽鎮撫隊の仲間割れの中で、誠の隊旗を雨中に打ち立てたのは、お芝居よ、演出よ、だまされちゃいかんと思いながらも、オダギリジョーの熱演に感動した。ええ、おとこや。
 土方歳三さんの洋装は、ほんとうに似合っていた。あのオールバックの髪型も、まるで山本さんが選ばれたのは、今夜の土方の為だったんか、とおもうほどに似合っていた。さて最期に「新撰組副長、土方歳三」と名乗ってくれるのかどうか。
 沖田総司は、ますます、いやあ、もう労咳役者専門というか、入魂の病中演技がたまらぬ。一般に、ああいう丸顔、大きな眼では往年の市川雷蔵のようなニヒルな眠狂四郎役はつとまらないのだが、最近の労咳ぶりをみていると、意外に彼はこういう役もこなすと、思った。

 勝海舟は、先回の「江戸弁」がとてもよかったが、今夜の老獪ぶりも板に付いていた。しかし、これまでの海舟評価はMuの中で変わってきた。これも演出や脚本の魔術なんだろう。要するに、江戸を火の海にしなかった功績、最期の幕府を支えて衆愚集団となることを止めた功績を高く評価してきたのだが。戦って矢尽き刀折れた近藤勇に、男子としての深い嫉妬を海舟がもったように思えた。人はいずれ寿命がつきる。どう生き、どう死んでいくのか。ああいう時代、明治の安定期に入った頃、海舟ほどの人間なら、近藤勇に複雑な思いをあじわったのかもしれない。
 五年間で、人の三十年分ほどを生ききった新撰組には、やはり、オーラがあったのかも知れない。いまの時代に、新撰組を題材にする演目がまだあり、それがMuを毎週釘付けにするなら、おそらく当時もそういう世相はあったのだろう。葵と菊。この単純な入れ替わりではなかったのだから。

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コメント

新選組と言えば、『刀』の戦闘ですね。基本的には個人対個人の闘いですね。

薩摩、長州は集団の近代戦ですね。鉄砲、大砲を使う集団戦ですね。

何をいいたいかと、いうと、幕末の日本の危機的状況で立ち上がった個人が命をかけて打開しようとした、その集まりが新選組である。

新選組に大砲は似合わない、鉄砲も似合わない、個人と戦うのが似合うように思いますね。

そんな気がしませんか? 土方が最後に『新選組、副長』と名乗ったのは、鎌倉以前のサムライの精神姿勢ですね。

投稿: jo | 2004年11月30日 (火) 12時49分

joさん、 (11月 30, 2004 12:49 午後)
 源平時代の戦を想像してみると、まず双方膨大な数の矢を射るようですね。それこそ雨のように矢が落ちてきて、刺さると痛いどころか、怪我、死亡。
 矢が尽きたところで、やおら白兵戦。そのなかに、軍馬がちらほら。軍馬同士がであうと、名乗って一騎打ちだったのでしょうか。
 義仲みたいに、数百の牛の角にタイマツをつけて坂の上から放ったり、義経みたいに崖の上から飛び降りるような攻め方は異例中の異例。だから、成功した。

 よって、一騎打ちが常態だったとも思えない。
 ただ、もののふと呼ばれる者は、一騎打ちで決着を付けるという常識をもってはいたのでしょう。でないと、将兵も真に付き従っては来なかった。

 一時、信長の長篠の戦いでしたか、馬を柵で押さえて集団鉄砲で武田騎馬軍を破ったのは。
 徳川も太平が長く続きすぎて、刀の武士道という名分だけが残って、現実の白兵戦や、まして集団戦は血肉からは消えていた。
 そして、唯一、新撰組は短時間で、白兵戦を自ら調練した。が、信長時代の鉄砲戦までにはいかなかった。
 勿論、土方が海軍奉行並になったのは、そこを突き抜けたのだろうが、時期が遅れた。

結論
 どんな戦であっても、戦略にしたがった指揮と、戦術にしたがった指揮とが両方必要。
 新撰組は、戦略を学ぶには時間がなく、戦術レベルで最高の効率をあげた。
 いずれにしても、指揮官層の心、つまり精神なしではできないことであった。
 新撰組は、いまでいうと、武装警察だったのだろう。戦略軍ではなかった。

投稿: Mu→Jo | 2004年11月30日 (火) 14時14分

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