2004/11/14(日)新撰組:井上源三郎の千両松
千両松激戦地推定(京都市伏見区横大路松林付近?)
マピオンBB(大地図)、MSN(小地図)
参考記事:京の歴史マップ/新撰組
井上源三郎は明治維新の1868年4月に40歳で討ち死にした。場所は宇治川のそばの、京都市伏見区にある「千両松」というところらしい。天然理心流で、新撰組六番隊組長。
今夜の源さんは、近藤局長養子の周平をかばって死んだことになっていた。番組の春ころは、町人姿で江戸の試衛館をうろうろしていて、掃除したり薪を割ったり、茶を運んだりと、いわゆる作男というのか、使用人という雰囲気だったが、いつもにこにこわらっていた。年長者として、若い近藤や沖田や土方の間を上手に取り持つ姿が、源さんの持ち味だった。そして人柄の良さそうな俳優だった。
むしろ、大阪城で深夜考えにふける近藤の前に生前のまま立ち現れて、語り終えたあと、ふわーっと消えていく演出が良かった。はじめてそこで源さんがもういない、という感慨に襲われた。近藤局長はまだ三十代前半のはず。さぞ気持を落としたことだろう。
戦だから死に別れは当然なのだが、こうやって春先から見ていると、辛いものだ。
おもったとおり、さよなら源さんの今夜も、よかった。
これから幾人かの死をみつめていくのは、しんどいことだが、最期まで見届けてみようと思った。
悔しくて、斎藤一がダンビラ振り回して官軍に襲いかかるシーンは、斎藤が明治まで生き残るのを知ってはいてもはらはらし、同時にカタルシスを味わった。錦旗を踏みにじるのが、官軍だった演出が上手だな。
それにしても、岩倉卿が、御所で西郷・大久保と話し合っていて、さっと用意した錦旗をとりだす手練には、まいった。公平にみるなら、薩長、徳川、双方あらゆる手を尽くして、勝ちたかったのだろう。大久保が承久の変(1221)の故事から、後鳥羽院が錦旗を造って将にわたした話を岩倉に言ったのもよかった。後鳥羽院は、菊帝といわれるくらいの菊好き、菊の御紋も後鳥羽院の発案とか、どっかで目にした(要調査)。
それにしてもね。武家の統領徳川慶喜がさっさと江戸に逃げ帰る、しかも将兵をのこしたまま(伝えてもいないと、伝聞あり)。あれは、末代永劫の恥だな。尊氏が賊軍になった故事から、徳川がそうなるのは避けたい、という小憎らしいセリフ。ああいうところで、脚本とか演出の技に私はころりとまいって、「慶喜、卑怯なり」と危うくTVをぶちこわす衝動に駆られたぞ。あはは。
慶喜さんよ、あんた公家じゃないんだから。
戦闘集団の長なんだよ、将軍というのは。
お公家さんは血をながしてはならん伝統があるが、武人は血を流してはじめて、それまでの世間に対する申し開きができる職業なんだ。それお……。
ああ、あれはドラマでした。つい、血が頭に上ってしまう。
追伸
千両松の激戦地や、井上源三郎討ち死に地は、正確に分かりませんでした。あのあたりでしょう。
稲垣吾郎さんが、最終に出るという噂ですが、嘘だよね。あのひと、今は金田一耕助だから。
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コメント
ワタシャね、今日の慶喜さんにね、「アンタ、JoBlogの『山の掟』読んでみい~~!」と、言ってやりたかったですわ。
投稿: wd | 2004年11月14日 (日) 22時06分
WDさん
あなたも血気盛んなお人のようですね。
JoBlog(山の掟)を記録しときます。
http://akatonbo-jo.cocolog-nifty.com/jo/2004/11/post_6.html
三国志で、劉備が逃げるとき、着の身着のまま、奥さんも子供も残して逃げ切る場面があるのですが、だいぶ慶喜とは雰囲気が異なりますね。たしか、奥さんや子供を殺す事はないだろうという雰囲気と、部下が直ちに救出にいったような。それに、まわりがよってたかって「劉備はん、にげておくれやす。あんた死んだらどうにもならん」というような感じでした。
投稿: Mu | 2004年11月14日 (日) 22時14分
慶喜はんえらい怒られていますな。少し弁護するなら水戸学やろね。
しかし、Muさんの言う通り侍大将やからね~~、敵前逃亡は御法度やね。
源さんが死んでるのに、近藤はんの前に出てきましたね。最後の別れやね。
一度Blogに書きたいんですけど、母の証言があるんです。弟がスキーで事故に会い死ぬんです。病室で死に際に窓を開けてくれと頼むそうなんです、そして、魂が親族、友人に自分がこの世と別れることを知らせに行ったそうです。
親族の多くから、話を母は聴いたそうですよ。
投稿: jo | 2004年11月14日 (日) 22時29分
JOさん
1.水戸学と賊軍
歴史の中で、足利尊氏は、識者は「罪軽微」ですませるが、むしろ源家を乗っ取った北条には手厳しいですね。
以前のNHKでも、尊氏(真田さん)は、後醍醐さんにめろめろな様子が描かれておりました。最近も、嵐山の臨川寺?で、尊氏が後醍醐さんの菩提を弔った建物跡が見付かったようですよ。
ところで、今夜の慶喜は、恭順ではなくて、怯懦ですなぁ。もし逃げ帰るなら、殿軍を定めて指事し後始末をしてでないと。恭順どころか、単に見殺しで逃げただけ。(まあ、Muの腹がたつように、演出脚本の罠にはまっただけかな)
2.怖い話
怖い話も、本当に愛惜するものの死なら、よろこんでそれを受ける生者も多いのかも知れませんね。
投稿: Mu | 2004年11月14日 (日) 22時59分
以前、京阪淀駅の近くの病院にも、数ヶ月バイトで働いたことがあります。
そのときは仕事の帰りに、京阪淀駅で電車を待つ間、淀城あとを眺めていました。
新撰組ゆかりの地だったのですね。
投稿: 羊 | 2004年11月15日 (月) 13時59分
羊さん
そうですね。淀城は幕府方のはずだったのに、開門しなかったから、新撰組を含めて逃げ場がなくなったんでしょうね。あの辺り一帯が激戦地だったらしいです。わずか130数年ほど以前のことです。
投稿: Mu | 2004年11月15日 (月) 16時33分