2004/11/07(日)新撰組:丹波橋にて襲撃さる
近藤局長が伏見街道丹波橋付近で襲撃された。
乗馬中に右肩を打たれたようだった。撃ったのは御陵衛士伊東甲子太郎の門下生だった。
落馬する寸前で番組は終わった。
(地図:京阪丹波橋駅。襲撃地点をしらべていないのだが、だいたいこのあたりかな?)
今夜は息を詰めてみた。緩んだところがなかった。あと数回とおもうと、切ないものだ。
水戸だったか、上席の者が二条城警護に来た新撰組を面罵した。「お前達が、市中警護に名を借り何人もの薩長・浪士を斬ったから、こういうことになった」と。近藤が答えた。「我らは、浪士を斬った。しかしそれだけではなく、規律を守るため自らにも手を下した。その間、あなたがたは何をしていた」と。
見せ場だった。
こういう解釈は、新鮮に思えた。これまで、薩長が善玉で、幕府公儀や新撰組は旧体制、滅ぶべき者のあがきとみてきた。しかし、局長の言った言葉が、今夜はのど元をすっと通っていった。
それにしても西郷どんに大久保さん、悪役ぶりがここ数回で板についてきた。それに、岩倉卿。
まだ成人にたっしていなかった明治天皇の苦労もしのばれた。
錦旗がどれほど効力をもったか、逆賊の汚名がどれほどのものだったか、うっすらと分かった今夜だった。
未来は誰にも分からない。
来週の鳥羽伏見の戦いも、新撰組が装備を新たにしていたなら、分からなかった。
時代は、徳川を求めてはいなかった、のか。
列公会議は不要だったのか。
大政奉還、版籍奉還、そして廃藩置県。
大化の改新に似てきた。
西郷が西南戦争で消え、日本は日清、日露両大戦を経験していった。その間、薩長が軍、政を寡占した。そして昭和になった。日本は敗戦国となった。薩長はそこまで続いた。今は、薩長はどうしているのだろう。鹿児島県、山口県。そして、会津はいまどうしているのだろう。明治維新政府1868年、現代2004年、およそ136年の時がすぎた。大東亜戦争、日本敗戦が1945年。だれにも、分からなかっただろう。
近藤さんが若年寄にかけあって、新撰組の名を復帰したのはよかった。司馬さんの「燃えよ剣」の土方最期の名場面は、たしか「新撰組副長、土方歳三」と名乗って死んだことになっていた。名は、シンボル。名は、証。名こそ、惜しめ。よく、わかる。
おりょうの激烈ファンが知人にいる。彼には、おりょうは坂本竜馬が死んだから、もう出ないと伝えていた。あとで知ったら怒るだろう。しかたない。よもや、おりょうがでてくるとは思わなかった。しかし、世はさまざま、Muはおりょうがどうにも苦手だった。あははは。近藤さんの説得にもかかわらず、後日、おりょうは変わっていく。その変化は新撰組には無縁だが、みたくない変化だったはず。
さて、来週はついに、さよなら源さん。泣くぞMuは、いまから。
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コメント
日本の歴史は海外情勢の変化がインパクトとなり、変化したのが、歴史だと思います。
古代においては、朝鮮半島の政治情勢、そして中国の巨大政権の動向が大きいですね。強力な中央集権国家を作らねば、植民地にされるという脅迫観念。
明治維新の前夜はまさに、大化の改新であり壬申の乱ですね。
強力な中央集権国家を作らねば、国が滅ぶという脅迫観念が支配した時期。
薩摩、長州の若者も新選組の若者も思いは同じであったと、思います。志がなくて毎日、生命をかけて戦えないです。
歴史は、新撰組を容赦なく切り捨てた。しかし、若い彼等の志は歴史に残った訳です。そこが、切ない。
投稿: jo | 2004年11月 8日 (月) 11時38分
JOさん
歴史の教えるところでは、変革は若年の力が大きいな。
未経験の無鉄砲さと経験智の熟慮。そのバランス。
破壊と建設。
寿命が延びていく現代と将来。
変革はどこからうまれるのだろうか。
若いもんばっかりが変革し、それ以外は年寄りが制度保証確立するのでしょうかね。
IT世代は、一般に若い(30代、40代かな)人たちが動かしているのかな、と、そうでもないか。
うーむ。
血なまぐさい変革は、日本では見られなくなってきたが。
投稿: Mu | 2004年11月 8日 (月) 15時35分
鳥羽伏見の戦いということは、城南宮のあたりが舞台になるのでしょうか?
薩摩軍の本営がおかれた場所ですね。
伏見に住んでいると、まわりに幕末の史跡がたくさんあって、うれしいです。
幕末に思いを馳せながら、ぶらりと散歩ができるのは、シアワセですね。
投稿: 羊 | 2004年11月 8日 (月) 23時14分
羊さん
鳥羽伏見の戦い、城南宮、御香宮、なにやらしらべてみるといつも見かける情景が変わって見えてきますね。
とくに羊さんは、これまでのお話では御香宮なんか通り道みたいですね。あそこあたりは激戦区。奉行所あとが道をはさんだ南の団地とおもうと、時がたったものです。130年くらいでしょうか。
新撰組の伏見での様子が地図でも分かるサイトがありました。井上源三郎の討ち死にした千両松もありました。
http://www.e-kyoto.net/sanpo/rekishi/b09/fusimi4.htm
別途、戦史として詳しいサイトがあったので、メモしておきます。
「鳥羽伏見の戦い」(管理人・大塚景勝氏)
http://haruna.on.arena.ne.jp/military/travelogue/kyouto/tobafusimi.html
ただし御香寺という表記もあり、これは御香宮とおもわれます。
わかりやすく地図がついたものには、
http://www.hi-ho.ne.jp/kyoto/tobafusimi.html
もありました。
沢山の記事がネットにありますね。
いくら近辺でも、あらかじめ、こういう記事で勘所を押さえて見たほうがよいと、思いました。たとえば、きっかけとなった「小枝橋」。これは、Muが毎夕通る橋でしたが、ああ知らなんだ、知らなんだ!
投稿: Mu | 2004年11月 9日 (火) 03時36分