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2004年11月27日 (土)

葛野追想:葛野図書倶楽部2001創成紀

2001年の夏
 生まれて以来毎年夏は来る。しかし、この21世紀最初の年の夏は格別なものだった。
 事情があって、それまで在籍していた学科から、新しい部署に移ったのがこの年の春だった。しかし図書や雑誌は早々と移転することもできず、夏までおいておいた。
 移転は一人でしようと決めていた。組織なのだから事前に予算の相談などしておけば、すんだことなのだが、Muは気むずかしい面も僅かにあって、そういう事務的折衝をすると必ず激怒するようになっていた。要するに、邪魔くさいのだろう、人にきっちり説明し、意をつくすのが(苦笑)。
 皇帝なんだからしかたないと、諦めている。
 「余は、このようにする」の一言で、有能な官僚、将軍、秘書団がすっと、遅滞なく実現する以外は、大抵難儀なことになり、なるものもならず。

 ところが、書庫予定の部屋は納戸も椅子もなんにもなく、それらの古物収集(大学の倉庫には必ずある)や、一人で図書を運ぶうち、全体の三割くらいで音を上げて、べそをかいてしまった。
 しばし呆然。
 大学の夏は閑散としている。当時は、のんびりしたもので、相談する事務も同僚も機能停止。もとより、相談する気持も薄く、結局困ったときの学生頼みをした。大学で、一番有能なのは学生であるという持論の実証も兼ねていた。相手は二十を越えた成人なのだ。
 一部の有能な学生達は、ひと言で言えば、「理屈が通る」。往々にして、若いものを相手にする社会人は、見くびって無理に動かそうとするのも多いが、相手はモラトリアム時代の中にいるのだから、それは逆効果である。一瞬なら効く場合もあろうが、持続は無理だ。で、Muの理屈は一つ。
 「余は困っておる」(笑)
 さっそくに回状が行き渡り、都合五名の学生が集まってくれることになった。
 (史官として正確に記すなら、昼の実働は後日の局長、書記局長、一番隊長の三名。夕方の慰問参集は当日近所でバイトをしていた後日の副長、経理局長の二名だった)

書庫と屯所 2001年8月20(月)夕刻

出合いは整理整頓:2001年の夏
 写真は後日倶楽部屯所と名付けた変則的な部屋である。上部の写真右手のドアはフロア全体のクーリング施設点検出入り口。他にもフロア全体の配電盤やネット・ハブがおいてある。要するに布団部屋というか、機械室のような物で、北面である。
 すでに整理整頓が終わり、机上には宴の品々が所広しと並んでいる(こういう日本語はあったかな)。手前の鈴はこれを振ると葛野中将が駆けつけてくるという非常呼び鈴。
 真ん中の写真は部屋を分割し、書庫とメンテナンス室(司書事務室)に分けた様子である。真ん中のカウンターは、何のことはない古い二段納戸を分けて、その片方を図書室カウンター風においた。右手のテーブルは木幡研のエレクトーンの椅子。向こうに見えるソファは葛野研のものを代用し、カバーは木幡研のカーテン。すべて古物。
 下の写真は、左がマックの古式80AV、右が古いFMWinマシン。両方とも、かつかつ動いていたものを、それなりにMuがチューンアップした。一応ネットには接続していた。

葛野図書倶楽部2001の引き金 2001年8月20(月)夜

出合いの後の宴:2001年の夏
 すでに、学生達に書庫を整理することを頼んだ頃から、ぼんやりと倶楽部を作る気持はあった。それを決定付けたのはこういう小宴だった。「よし、いける」という一瞬の気持が大きな決断となって後日に続く。
 写真上は、五人の学生達の21歳ころの麗姿である。学年で言うと三回生だった。たまたま、全員が日本文学を専攻していた。
 写真下は、宴も終わる頃、ともかく倶楽部を結成するには軍用金がないとどうにもならないと言うので、ソロバンが一番達者な経理局長2001(翌年二代目局長就任)に最初の軍資金を渡したところである。彼女は当時、大学学生会の経理の主任だった。

倶楽部結成・鉢巻き締めの英姿 2001年9月12日(水)

鉢巻き締め:倶楽部結成式
 9月の吉日12(水)に、倶楽部の正式結成式を執り行った。各人鉢巻きを締め、今後の艱難辛苦に耐える約定を交わした。隊組織編成は、少人数、一騎当千若者の集団として最も効率的な新撰組をモデルとした。隊旗は仮に「誠」としたが、2004年晩秋にいたる現在も、継続している。
 結成のあと、最初に行ったのが、倶楽部局中法度の制定だった。これは、血と涙と汗の結晶であり、いまだに改変の動きはない。不磨の典範となり、現在に継続している。
 なお、写真に写るガラス書架はすべて女子寮の払い下げ品である。事務局の秘書さん、その他数名が奔走し、こればっかりはセットしていただいた。

初代倶楽部の主な仕事
  2001年 葛野図書倶楽部2001創成
  2002年 共同演習初の助勤
  2002年 機関誌「Truth」刊行
  2003年 森博嗣京都光華2003、実行中核部隊
     (含む、2003年倶楽部二期生)
     2月1日、千名来場し成功裡に納めた。と、ともに一同卒業。

記録掲載由縁
 最近、事情で森パフェ(森博嗣ファンクラブ)の幹部数名に面識を得た。その時2003年のイベントのことで、「事務局担当の学生さん達の動きに感心し、深い印象が残った」、とのありがたい言葉をたまわった。
 今に至るも、最高顧問として、当時の関係倶楽部幹部達に深甚なる感謝の念を持っている。
 そを記念し、ここに記すものなり。
 平成16年11月27日、Mu最高顧問 識

参考
  葛野の風情:2004/10/13[MuBlog]

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コメント

葛野図書倶楽部 第1期生が○○さんなんやね、頑張っておられるという、噂を聴きました。

研究室も綺麗にしはりますね、これが野郎やとメチャメチャやね。
倶楽部といえど、法度が厳しいようやね。なかなか足抜けは出来そうにないな。

しかし、偉いなふうてん、joでは真似が出来んと思います。先ず、冷蔵庫が必須であり、ワイン・酒・ウイスキーとなりますな。

そして、スルメなど焼いてね。部屋中スルメの匂いで誰も寄り付かんやろな。

投稿: jo | 2004年11月27日 (土) 16時31分

joさん、 (11月 27, 2004 04:31 午後)
 屯所写真は当時の整理し終わったものですよ。
 整理整頓指揮は書記局長の役目のようです。

 法度は、厳しいですね。葛野中将も無闇な口出しは出来ぬように巧妙に作られておりまする。会社組織も新撰組をモデルにすると、この倶楽部のように、効率よく動きますよ。
 葛野中将・最高顧問の権限は唯一、役員人事、叙任権ですな。入隊・除隊に関しては権限がないのです。凄いでしょう。当時の一期生達の凄さです。
 鉄の掟、血の涙、法度違反は直ちに切腹、とはなっておりませぬ。脱退は、巧妙に「隠居」となっております。卒業時までは籍があるわけですね。

 そうですね、冷蔵庫。もう寒いからだれも欲しいとはいわないですね、けけけ。

 局長職は現在4代目です。常に最強辣腕の人事を得てきました。
 一番隊長はまだ、2代目です。
 他は、毎年変わります。

 歴代隊員資質は、総じて、一般に、平均すると、みかたによっては、しとやかさもないとは申せませんが、常に、知能的実行的・暴力装置としての機能が充分にあると、それは新撰組と同じ性質だと、申すに、やぶさかではありません。要するに、大人しいキャンパスにあっては、武装集団であるのでしょうか(笑)。

投稿: Mu→Jo | 2004年11月27日 (土) 17時00分

ひゃあ!本当に載っているとは思いませんでした…(苦笑)

最初の頃の屯所の写真ですね。
学友:「この鈴、何でこんなところにあるのん?」
私:「それ鳴らしたらセンセくるで~」
学友:「マジっ!?やってみていい!?」
こんなやりとりが日々あったような…。

そういえば冷蔵庫はついぞ最後まで屯所内にありませんでしたね。(今もでしょうか?)
多分給湯室にあった冷蔵庫に同居させてもらっていたため、困らなかったからでしょう。
でも、ポットはあった。これが役に立ちましたね。
カップラーメンを作ったり、ココアを飲んだり…
今でも会社で似たようなことをしているような(汗)

酒飲みは2代目局長と私の2人だけ。
初代副長なんて、コップ一杯のチューハイを空ける前に真っ赤になっていました。

そういえば1番隊長はまだ2代目でしたね。
代替わりが少ない理由は、私が引退した後に付いた1番隊長が私の2年下だったせいでしょう。
また、この職は覚えることよりも自分で開拓してく事の方が多いように感じます。
だから、1年半なんてあっという間だったのでしょう。
やり残したこともたくさんありましたが…まぁ、今となってはいい思い出です。

ちなみに同期隊員は皆、相変わらずすばらしい動きをしているようです。
初代局長なんて、今や会社の人事を取り仕切っているとか(苦笑)
いい意味で、みんな、どこに行ってもやっていることは変わらないようです。

投稿: J-NETTER | 2004年11月28日 (日) 14時25分

J-NETTERさん、 (11月 28, 2004 02:25 午後)
 書いているうちに魔法学校にひたっていたのですが、コメントいただくと、急に現実感にひきもどされますね。
 ポットは役立ちますが、換気の悪い部屋中にラーメンやわけのわからない食物味が立ちこめるのは変わらず。
 ザめしやの特製おでんやビール、カンチュウーハイが並んだのは初代期だけです。もちろん今後もスルメや焼酎世界になるかもしれませんが、代々の局長キャラで、様相が一変していくようです。

 さあれ、すべて手探りだった初代期は、全員、ときどき暴れないと身が持たなかったようですが、数年後は楚々として生真面目な「司書」様の卵が主流になるでしょうなぁ(邪笑)

追伸
 ときどき「暴れる」、という資質は組織を束ねる者には必須エレメントだと、ここ数年で学びました。
 撃剣、舌鋒+撃剣、舌鋒、舌鋒+撃剣、これが局長パターン。二つある場合は後者が小です。撃剣とはようするにチャンバラ。舌鋒とは、……。ニュアンスの違いはありますが、「暴れる」を常に含みます。

 で、歴代一番隊長は、ひたすら「暴発暴走撃剣」といえば、言い過ぎなのだろうか。ふと、夢想したしだいです(笑)。想像にすぎません。

投稿: Mu→J-Netter | 2004年11月28日 (日) 16時58分

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