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2004年10月10日 (日)

あめにかかる橋

 Mu現代古典、保田與重郎「日本の橋」をあげておく。

 「日本の橋」は保田の作品の中でもポピュラーなエッセイである。
 私の若い時代、つまり昭和40年代にもいくつか入手できた。古書で『改版 日本の橋』を入手したのが昭和40数年だったが、それ以前に筑摩書房の文学全集で読んでいた。
 つまり戦後、あれほど禁忌の対象、タブー扱いされていた保田だったが、「日本の橋」だけは残してもよい、と大方の文学・思想・出版関係者が思ってのことだろう。
 こういうことを想像すると、人とは自らの判断を避け、曖昧な雰囲気、世相の流れに乗っかる波乗り人が、多い事よと長嘆息する。もちろん、どんな場合にも政治判断が優先するのだろうから、保田がそういう「生け贄」扱いされたことは、いまとなっては、至高の名誉だったのかもしれない。

1.神の神庫(ほくら)も樹梯(はしだて)のままに
 保田が垂仁紀から引いた石上神宮の神庫(この場合武器庫か)にかかわる伝説で「はしだて」という言葉が、私の中で長く残った。
 この場合、イニシキ命の妹が、兄から神庫管理を頼まれて、高床式の「高い神庫を守るのは女の私にはむりです」と答えたのに対し、兄は「では、天神庫(あめのほくら)に梯子を架けましょう」と諭した話である。
 天橋立とは日本海の、美しい日本三景の一つである。だからハシダテという言葉は幼児から知っていた。天橋立の見える旅館で、伯父かだれかに、食卓の箸と橋の橋との発音がおかしいと笑われた記憶があった。いまでも、どっちがどうなのか分からないが。
「日本の橋」を読むと、橋も箸も梯子も、すべて同一の思いが込められていたようで、私が発音を区別できないのは、原日本人として真っ当であったと、ひとりごちた。

「橋も箸も梯も、すべてはしであるが、二つのものを結びつけるはしを平面の上のゆききとし、又同時に上下のゆききとすることはさして妥協の説ではない」
 食物の箸も、食物と人とを結びつけるはしであった。

 私は、梯子が橋であったと、古代の高床式の倉というよりも、神社を想像して、思ったことである。今となっては、出雲大社の巨大な階段も、橋であったことは明瞭である。
 だから、映画「陰陽師2」のラストで、天上に続く長い階段の果てに鳥居がある場面をみて、膝をたたいた。「このイメージ、実によろし」と。

2.橋づくし
 日本のありとあらゆる橋が、保田の口から流れ出てくるような、文章だった。
 私はそれらを読んでいて、大抵は、雨が降り雨宿りもできない橋上を想像していた。
   一条戻橋
   宇治橋
   勢多橋
   錦帯橋
   眼鏡橋
   渡月橋
   木曾桟橋(かけはし)
   日吉大社本宮橋
   ・・・
 数え切れない日本の橋。よくこの十倍以上の橋橋を古典の中に、そして自らの旅行記のなかに、見いだしたものよ、と往時も今も痛感した。

 保田はローマに代表される西欧の橋は、神殿から直接延び出たものととらえていた。さらに強くいうと、征服の道としての橋、となる。そこで保田はとどまらない。痛快なほどの発想の転換がある。

「まことに羅馬人は、むしろ築造橋の延長としての道をもっていた。彼らは荒野の中に道を作った人々であったが、日本の旅人は山野の道を歩いた。道を自然の中のものとした。そして道の終りに橋を作った。はしは道の終りでもあった。しかしその終りははるかな彼方へつながる意味であった。」

 ローマはさておき、此岸(しがん)から彼岸へ架かる、別の新たな「道」をハシと考えてよかろうか。もちろんのこと、此岸と彼岸を遮る川は舟で渡る。しかし舟は明確に舟橋であり、舟とは橋であったと考えられよう。

3.名古屋熱田の精進川裁断橋青銅擬宝珠銘
 その銘は、保田與重郎を語るに、さまざまな人が言及してきた。私は引用された銘文だけをあげておく。

「天正十八年二月十八日に、小田原への御陣、堀尾金助と申、十八になりたる子を立たせてより、又二目とも見ざる哀しさのあまりに、いまこの橋を架ける成、母の身には落涙ともなり、即身成仏し給へ、逸岩世俊(戒名:いつかんせいしゅん)と、後の世の又のちまで、此の書付を見る人は、念仏申し給へや、三十三年の供養也」(Mu注記:保田引用をさらに読みやすく漢字交じりに変えた)

 「日本の橋」終わりに、保田は日本の古き女達の情感をうたいあげた。母とは、三十三年たった息子の死になお涙を流す生命体なのであろう。そして、哀れにつつまれた木の橋を立てた。彼岸への橋だったのだろうか。

4.断章
 日本の橋の文体は、若いころの「保田與重郎」そのものだった。
 めくるめく心地するその流れ、詩情、詩とも散文ともつかぬと祖父に言われたらしい、かつて日本語になかった文体、そのものだった。
 随所にそれがあった。
 折々に古典が、和歌が織り込まれ、地の文にとけこみ重層をかさね、全体が水銀のように形を作りながら、それでも一方向へ流れていく。
 私は、西欧と日本の違いよりも、まさに保田のその文体に青年の一時期をたゆたっていた。
 一般に、AはBである、BはCである、よってAはCであると、世界は語られる。
 しかし、保田は、古き日本について、そして現代日本について、BはBにとどまらず、Bの1から∞までの感性と論理を持つ。よって、AはB1であり、と次にB∞はCであると続き、閃光のようにAはよってCとなる。
 これは論理の飛躍とは思わない。保田は論理学を語ったのではない。
 神慮を語ったといえば、余計に躓く者が多くなる。
 やはり。彼の往時の文体は、詩であったというのが正しかろう。
 
 私が保田を最初に読んだ『現代畸人傳』は戦後のものであり、幼童にも納得できる明瞭さがあった。

参考サイト
  石上神宮[神の神庫(ほくら)も樹梯(はしだて)のままに]
  
  Mu現代古典
  「日本の橋/保田與重郎」 

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コメント

古来、日本人にとり橋は特別なものであったんでしょうね。

保田大先輩の本は読んだ事がありませんが、私が学んだ橋、箸、梯子、石上神社、天橋立、と隔たりは有りません。

石上神社の発掘で発見された、十把剣と思われる剣は伝説が史実ではないかと思わせます。

現代の私達も、恋人と橋のたもとで待ち合わせる。二人であの世へ行くのか、異なる世界の二人が逢瀬をするのに橋が必要なのか、それとも過去を川に流したいのか、とにかく”橋”は奥が深い。

閑話休題、スイス旅行で日本の高床式倉庫そっくりに出会いました。ツエルマットでも見つけましたが、近くの村でも有りました。

ネズミ返しが、彼らは石版を使用していました。倉庫の作りが、校倉作りと似ていました。これは、不思議でした、遥か東洋の端と西洋の山の中に同じものがあった事を。

投稿: jo | 2004年10月10日 (日) 21時58分

影JOさん、
 ご精勤にコメントくださり、自己撞着の極み、というかわけがわからぬのう。→ http://asajihara.air-nifty.com/mu/2004/10/20041010.html

 さて。
 渡月橋を恋人が渡ると速攻で別れるという伝説の由来が保田與重郎先生の「日本の橋」を読めば氷解するとかぁ(完璧嘘です)。

 橋の重み、深みはねぇ。人柱もからんできますね。古墳の場合は、埴輪でまかなったようですが、橋は江戸時代まで人柱があったと、祖母に幼児期聞いて、震え上がり申した。
 本当のところはどうなんでしょう。
 保田先生も、明確には記されておらぬ。ヒントはいっぱいあるのですが、一々詳細に調べる能力も根気もないので。

 橋。たしかに哀れな弱げな貧しげな木橋こそ、日本の橋なんでしょう。蔦の橋。丸木一本橋。・・・それぞれが、天の架け橋。

投稿: Mu | 2004年10月10日 (日) 22時37分

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