おおぎりえき:大桐駅跡
大桐駅跡(福井県南条郡今庄町大桐)マピオンBB地図
5歳前後に一度だけ訪れ、この駅頭に立ち、父の縁戚にあたる老婆に手を振った記憶があった。
それだけだった。
1998年9月に母が他界した。その前に一度、母も元気だった頃、初めてこの地に訪れたといってよい。
しかしその折りも、北陸自動車道をただ走り、今庄駅前で兄の迎えを受け、地図を一瞥することもなく、聞光寺へ連れて行かれただけだった。
2004年9月18日、母七回忌、父三十三回忌、ご先祖百回忌の法事で、初めて一人で寺まで行った。地図を見て愕然とした。深い深い山中と思っていたのに、五キロも西へ行けば日本海、敦賀湾のすぐそばだった。
それは、こんな由来をみてほぼ正確な事情がつかめた。それを知るまでに、これほどの時間を要したことに気がついて、ため息をついていた。
「大桐駅の経歴
明治41年3月1日、北陸線の難所といわれ、山中トンネルを頂点とした、25/1000 の勾配を有し、列車運転の緩和とスイッチバックの拠点として大桐信号所が開設された。
その後地元の要望に応え同年6月1日、停車場に昇格し、旅客、貨物の取扱営業を開始した。
当時、旅客7本、貨物6本、計13往復の列車が運行された。
昭和37年6月9日、北陸本線複線電化の近代化により、新線開業と共に廃止となる。
その間54年の永きに渡り、生活物資の輸送等、住民のシンボルとして大きな役割を果たした。
大桐駅」
スイッチバックとはどんなことなのだろう、おぼろに想像はつくのだが。いつか、こういう事をよく知っている専門家に尋ねてみる。
山、山、山。滅多に車の走らない道。
国鉄が消えた村。
我が父・堅三は、ここで育った。
そして、関東大震災の折、東京市で書生をしていたと、父から直接聞いた。
そこの臨月の奥さんを戸板に載せて他の書生と震災を逃げまどった。
父は当時、岩倉鉄道学校というところの学生だったようだ。
私の小さな記憶には、父の青年時のことは、これくらいしか残っていない。
父は、私が26の冬に他界した。69歳。
こうして、回想にひたると、いまも「父よ」とつぶやくことがある。
参考サイト 岩倉鉄道学校(岩倉高等学校)
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コメント
Muさん、こんばんは。
記事更新がしばらくなかったので、また体調でも崩されたかと、心配していました。
福井といえば、永平寺と三方五湖ぐらい(美浜も行きました)しか知らないのですが、写真を見る限りでは、大桐駅は本当に山深いところにあるようですね。
でも、往時は、生活に欠かせない交通の便として、にぎわっていたんでしょうね。ちょっと想像するのが、むずかしいくらいです。
車は、Muさんの愛車ですか?シルバーのきれいな車ですね。
父のこと・・。父の出た学校さえ、私は知りません・・。早くに亡くなりましたから、仕方がないですよね・・。
投稿: wd | 2004年10月 8日 (金) 19時56分
WDさん、今晩わ
a.元気なのですが、少し堅めの記事を模索していたので書きそびれました。
b.国鉄がなくなって大桐村の過疎が急激に進んだようですね。
c.車は、知りません。
d.一般に男子は父と話はしないようですが。私も、直に話した記憶はあまりないのです。
投稿: Mu | 2004年10月 8日 (金) 21時24分
先生、おはようございます。
今庄にはよくスキーをしに行きますよ。
日帰りで行けるのでうれしいですね。ただ運転手さんにはご苦労様ですが・・。
去年は行けなかったので、今年は行けたら良いのに。
もし今庄に行くことがあれば「大桐駅跡」に立ち寄ってもらおうかな?運転手さんと要相談ですね。
投稿: 羊 | 2004年10月 9日 (土) 09時19分
羊さん、おはよう御座います。
1.そういえば地図にスキー場がありますね。
2.大桐駅跡は、国鉄に興味があるとか、私のように祖地であるとかでないと、本当にただの看板ですよ。
3.今庄駅前の路地を入ったところに、超有名というか、おいしい蕎麦があります。普通の民家なのでわかりにくいでしょうが、ぜひお試しあれ。
投稿: Mu | 2004年10月 9日 (土) 10時27分
Muはん
京都ではお世話になりました。本日、無事、梅安さんと東の国に帰国できました。
朝、テレビを見ると、台風が東海、関東に接近との報道あり、予定を変更して朝10時の”のぞみ”にて京都を脱出しました。
途中、富士川付近にて徐行運転があり30~40分の遅れはありましたが無事に到着です。
昨夜は、”めなみ”で夕食後、二件のジャズバーを梯子して、橋の上のラーメン屋さんで美味なるラーメンを頂き、フジタホテルに戻りました。詳細は、別途blogにて報告します。先ずは、ご報告。
投稿: jo | 2004年10月 9日 (土) 13時25分
JOさん
なんのおもてなしもできず恐縮慚愧。
台風しんぱいしておりました。
国立爺も、大丈夫なんですね。
風呂で酒漬け溺死なんて、いややから。
投稿: Mu | 2004年10月 9日 (土) 13時31分
Mu さま
随分、山深いですね。私も鬼の大江山の麓の産ですが、負けそうです。それと、お隣の南条町は「蓮」の栽培で有名です。ここに、「花ハスの郷」というポストカードを持っているんですが。
花はす公園やら花はす温泉もあるようです。
このポストカードのことあまり気にしてませんでしたが、これも
Blog効果です。
投稿: hisaki | 2004年10月 9日 (土) 16時33分
Muさん
えらい、田舎でんな。山の中ですね、駅の看板が今も残っているんですね。つわものどもの夢の跡・・・そんな感じですね。
私は、残念ながら未だ父が育った佐賀の唐津には出かけた事がありません。何時かは、訪問しようと考えています。
父がどのような少年時代を送ったのか、気になりますよね。自分の齢が重なるに連れて、だんだんその気持ちは強くなります。
遥か敦賀湾を見下ろし、きっと”大志の夢”を抱かれておられたんでしょうね。
投稿: jo | 2004年10月 9日 (土) 20時14分
ヒサキさん
蓮とご縁があるようですね。
私は以前、蓮に載った少年の写真をみて、驚愕しました。
http://ooe.moe-nifty.com/flower/2004/08/post_13.html
隣接南条町は、蓮だったのですか。
花はす温泉とは、これいかに。
世間は狭いものです。
投稿: Mu | 2004年10月 9日 (土) 22時06分
JOさん
まことに、男親とは悲しきさだめ。
子をなし、家たて、墓をつくれば、はいそれまでよ(笑)。
私は父のことをほとんどしらずに、今に至りました。
ところで、唐津でしたか。
海部ですかいねぇ。
投稿: Mu | 2004年10月 9日 (土) 22時09分