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2004年10月 3日 (日)

木曾殿最期

 Mu現代古典、今回は保田與重郎「木曾冠者」(きそ・かんじゃ(かじゃ))をあげておく。
 とつおいつ再読しながら、今朝末尾にいたって、どうしても、こらえても、ついには落涙せざるを得なかった。

1.平家物語で閉じた「木曾冠者」
 最初に読んだときの印象が再び、甦った。
 つまり、最後の二頁(原本所載では、三頁)が保田本文に続く形で、平家物語の木曾殿最期がそのまま転載されていたのである。
 私は、当時それが保田の文章であると誤認した。大げさに思うかも知れないが、20前の青年時、それは確かに保田の記した文章に思えた。そして内奥で「ああ」と叫び、肩をおとし、巻を閉じた。そしてそれが平家物語そのままの引用だったことに、数刻後気付いたわけである。

2.『改版 日本の橋』
 初読は『改版 日本の橋』東京堂刊(昭和14年10月22日、再版発行)だった。木曾冠者は四つの文章の最後に位置していた。つまり、木曾殿最期の部分が『改版 日本の橋』全体の最終頁にあたる。
 この古書は、棟方志功の装丁、紐掛折板で覆われ、私の宝物となっている。いずれ記載する。

3.架け橋としての木曾義仲
 深い痛みがあった。
 保田は義仲と義経を比べ、義仲を高く評価し、頼朝の冷酷さをるるあげ、それでも頼朝が歴史に組み込まれたその役割を詳述している。頼朝は当時の人たちに頼られ、歴史の転換期に天が下した人だったと結論している。
 また、頼朝と義経のことで、保田は、義経の逃げる先々が頼朝の新しい幕府の根本を突き崩すもので、そこを絵に描いたように逃げる義経、そのルートをつぶしていく頼朝。最後は奥州藤原であった。頼朝が歴史を切り開くために、義経の逃亡があったという。こういう考えには、蒙をひらかれた。頼朝とは、その武運そのものが、天から与えられた人物だったと保田は言う。
 その頼朝が義仲追討の指示を出した。

 木曾義仲は平氏を都から駆逐した。源氏第一等の武勲である。
 しかし、五十日たった今、都落ちが待っていた。

「去年信濃を出でしには、五万余騎と聞こえしが、今日四宮(しのみや)河原を過ぐるには、主従七騎になりにけり。まして中有(ちゅうう)の旅の空、思ひやられてあわれなり」

 義仲は架け橋だった。架け橋は中有であり、また時代が渡り終えたとき、重みに耐えかねておちる必然。時代と時代の狭間に立って、一剣鋭く切り開く人であった。そうして、矢つき、刀折れ、ただ一騎残った幼なじみの今井四郎兼平にこぼす。「日ごろは何とも思わぬ薄金(うすがね)が、などやらんかく重く覚るなり」。

 ここに、保田は明示はしないが、彼が描いた倭建命にイメージが見事に合致する。命は遠征に出るたびに勝利し、復命するやいなや、また父景行天皇に新たな戦いを命じられる。「父は、私に死ねと言っているのでしょうか」と、おば倭姫命の前に伏し、嘆く。

4.粟津の松原

木曾殿は唯一騎、粟津の松原へ駈け給ふ。比は正月二十一日、入相(いりあひ)許りの事なるに、薄氷は張つたりけり。深田ありとも知らずして馬を颯と打入れたれば、馬の首も見えざりけり。あふれどもあふれども、打てども打てども動(はたら)かず。

かかりしかども、今井が行方の覚束なさに、振仰(ふりあふ)のき給ふ所を、相模の国の住人、三浦の石田の次郎為久……石田が郎党二人落合ひて、既に御首をば賜りけり。

……

今井の四郎は軍しけるが、これを聞いて、今は誰をかばはんとて軍をばすべき。これ見給へ東国の殿ばら、日本一の剛の者の自害する手本よとて、太刀の鋒(きつさき)を口に含み、馬より倒(さかさま)に飛落、貫(つらぬ)かつてぞ失せにける」(平家物語)

5.断章
 義仲はみめ麗しい好男子だった。青年期末まで木曾で育ち武人の生活を営み、都にでてから政治闘争、策略、謀略奸計、後白河院、公卿、頼朝、義経、都人すべてが敵になり足をすくわれ、31歳ほどで、主従二騎となり、大津で郎党に討ち取られた。
 保田は義仲を素戔嗚尊(すさのおのみこと)系であると記していた。「優秀な璞玉(あらたま)」と表現している。都ぶり、洗練された立ち居振る舞いを彼に求めるのは酷ともいえるし、愚かしい。
 保田の言うところでは、玉葉の作者九条兼実(かねざね)は当時の超インテリだったが、義仲を日記に、唯一同情を込めて書いていたらしい。義仲を褒めた摂関一流がいたことを知って「すてたもんでもない」と、私は今朝もうなずいた。

 彼を好いた女性が幾人もいたらしい。
 保田は、義経が女性の愛を逆手にとる、その俗説に従い好色と断じ、義仲の女性関係を佳しとした。義仲には、身をもって武をもって彼を守る美女がいた。巴御前である。
 巴御前の描写はぬきんでて美しくたくましい。彼女は敵陣を撃って開いて落ちのびたというが、消息は不明らしい。そういう女性がそばにいたとは、男子の本懐である。
 近頃の読書では、水滸伝にも一丈青(いちじょうせい)・コサンジョウという女性がいて、巴御前と重ね合わせていた。
 なお、大津の義仲寺には、義仲と芭蕉とが祭ってあり、そして保田與重郎も眠っている。この一貫性は、教科書にも、世間教養にも現れない、日本の隠れた文明の証だと、私は思っている。

 義仲寺地図。義仲寺は後日掲載予定。

関連記事・サイト
  Mu現代古典
  「木曾冠者/保田與重郎」

 平家物語関係のサイトはたくさんあります。その中で、各項目に詳しい解説を付し、写真の豊富な次のものを、一つ選びました。平家物語全体に関係する目次と、Muの記事に直接関与する部分とを分けて記しておきます。
 内容がとても充実しているのですが、誰がつくられているのか、blogのようなプロフィールを見つけることが出来ませんでした。

 平家物語総合索引
   登場人物寸評・源氏・その他
   平家物語のための古語辞典
     猫間の事(8巻7)
     木曽最期の事(9巻14)

 Mu現代古典、当記事中の保田與重郎『改版 日本の橋』の詳細については、後日記事を作成予定です。
 本文に記しましたが、この図書は棟方志功装幀の、図書自体が一つの「芸術作品」です。

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コメント

異文化の衝突だったんですね。公家文化と地方で力をつけた武士文化。司馬さんは農場主文化と呼んでいました。

木曾義仲と義経は武人ですね。最後は凄まじく戦場で幕を引く。日本人はこれが、好きなんやね。
瀬田での戦いも、一番に名誉を大事にしたんやね。”名こそ惜しけれ”が日本人の基底にあると思う。

平家物語は琵琶で語り継がれた、音楽詩というか叙事詩だから、歯切れがいいし、語り継がれる間に
作品が洗練されてゆく。私は、高校生の頃に平家物語に心酔した。

高松の屋島近くに”蝋人形館”があります。数年前に訪問しましたが、リアル感があり琵琶法師の弾く琵琶の音が
不気味で平氏の侍の亡霊が漂う感じでした。あ~~怖いな~~。

投稿: jo | 2004年10月 3日 (日) 17時21分

JOさん
 平家琵琶、TOWNSにCDがあってね、また聞いてみる。
 なかなか、よいもんだね。
 そうだ。
 普通の音楽CDとしても、探せばあるかもしれないな。
 で、ところで、屋島というのは高松だったんですか、無知でした。
 蝋人形館? なんかおもしろそうやね。
 しかし、JOさんもマメにあるいてはりますね。

投稿: Mu | 2004年10月 3日 (日) 18時57分

そういえば、梅安さんも御存知の仲間が『平家物語』のCD ROMを出版しました。

『平家物語』 The Tale of HEIKE
・CD ROM二枚組 英語による解説お呼びナレーションも収録
・企画・製作・販売 (株)富士通ソーシャルサイエンスラボラトロリ
・監修 桜井陽子 熊本大学教育学部助教授
・英訳 マイケル・ワトソン 明治学院大学国際学部助教授
・標準価格 7000円 (非売品)
・Windows 95 、Macintosh

物語の全容がナレーションによって手軽に楽しめる。
平家物語絵巻の解説、平家物語を旅する、豊富なデータ。

めなみの宴会に持参します、Muさんにあげます。

投稿: jo | 2004年10月 4日 (月) 08時54分

JOさん
 このCDものすごく興味が湧いてきました。
 ぜひ、おわすれなきよう、お願い申し上げます。
 それにしても、・標準価格 7000円 (非売品)、
 非売品で、価格付き、ようわかりませぬ。

投稿: Mu | 2004年10月 4日 (月) 18時28分

そやね。私も不思議やね。

多分、日本語版は日本で別のCD ROMで販売されているんやろな。
これは、米国で販売しようとしていた時の試作版かも知れん。

このCD ROMは水野君という素晴らしいプロヂューサが仕掛けた作品です。米国版は当時、社長の鵜飼さん(例のプロジェクトXで登場された池田敏雄の直弟子で番組制作に協力)が米国で販売しようとした、作品ではないか。

詳細は、藪の中です。え~やないですか、幻のCD ROM"平家物語”
米国人に判るか?

彼は(水野君)沢山の作品をプロヂュースしました。確か、源氏物語も製作したのではないでしょうか。確か、道元生誕ウン百年記念で永平寺さんに頼まれて、桐の箱に入れた”黄金のCD ROM" 非売品である”正法眼蔵”も製作したと思います。

投稿: jo | 2004年10月 4日 (月) 20時03分

joさん
 埋もれた沢山の名品があるのですね。
 あな、もったいないこってすな。

 製作にお金がかかるわりには、販売が伸びない。
 
 我が身も関連した例もふくめ、cdやDVDは、なんとなくかったるい感じがします。
 どこかに、ヒントはないものだろうか。

 人は知識を日常もとめてはいないのだろうか。
 刺激は求めているのに。
 ・・・

投稿: Mu | 2004年10月 4日 (月) 21時37分

先生、
 今日、義仲寺に行ってきました。
 ここには、松尾芭蕉のお墓もあるんですね。
 敷地内の紅葉が赤くきれいに色づいていました。翁堂と紅葉とススキがいい風情でしたよ。
 母と母の若かった時代の思い出をたどりました。
 35年ほど前、膳所に住んでいた母はよく、義仲寺に行ったそうです。

投稿: 羊 | 2004年11月28日 (日) 20時13分

その、帰りにJR六地蔵駅で、先生に歩き方も髪型も背格好もそっくりの方を見かけたんです。思わず走りよって近づくと、どうも違う人のようで、そのまま小走りで通り過ぎたんですが、あれは先生でしたか?夕方5時30分ごろですが。

 しかも、六地蔵駅で先生のそっくりさんを見たのは2度目です。

投稿: 羊 | 2004年11月28日 (日) 21時10分

羊 (11月 28, 2004 08:13 午後)
羊 (11月 28, 2004 09:10 午後)
両羊さん

 そうですか。お母上は膳所にいらしたのですか。Muと同世代かもしれませぬな。それにしても、近所の方がぶらりと行かれる義仲寺、そして後日に母娘でおとずれる義仲寺。来年は、ぐっと人出が増えそうだから、Muも年内にこっそり行っておかねばなりません。何十年行かなくても、目を閉じれば境内のそこここが瞼に浮かびます。芭蕉が義仲を評価した理由が、少しづつ実感できるように、また平家物語を学びなおします。

 六地蔵の怪人ですか。正真正銘別人です。ここ10年、JR六地蔵を使ったことがないのです。ま・さ・か、生き霊。あるいは、ひょっとしたら、近親者かもしれないです。まあ、よろしいでしょう、他人のそら似。
 地下鉄が接合したようですが、どうなんだろう。Muは使う機会が思い浮かばない。(あ、大津へ行くのに近道かもしれない!)

投稿: Mu→羊 | 2004年11月28日 (日) 21時51分

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