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2004年10月31日 (日)

2004/10/31(日):新撰組:藤堂平助の死

 藤堂平助は北辰一刀流。仲のよかった山南さんも北辰一刀流。伊東甲子太郎も北辰一刀流。
 ついでに、竜馬も桂も北辰一刀流。
 創設期新撰組は、近藤局長、土方副長、沖田、井上が同門で、田舎チックな天然理心流。

 藤堂平助の京都油小路(マピオンBB地図)での死は、葛藤場面から死への逃亡ともいえるし、試衛館と伊東門下とのせめぎ合いの決着とも言えるし、要するに引き裂かれた自我の落としどころだったのだろうか。

 これまで大抵にこにこしてきた藤堂さんが、今夜の死闘場面で脂汗を流し、顔をゆがめて、最後に穏やかに死んでいく演技は、メリハリがあって、分かりやすく、優れていると思った。歌舞伎が現代のTVドラマで映える理由の一端があらわれていた。二十三歳ほどだったらしいから、当時も今も若い死だった。

 剣術同門の意味がどれほどのものかは実感できないが、北辰一刀流と天然理心流と対比させたのは、司馬遼太郎さんの「燃えよ剣」ないし「新撰組血風録」を読んでいて、そこのどこかに書いてあったような気がしたからである。要するに、新撰組は肝心要、大切なことを決めるのは天然理心流で固まる傾向があったから、北辰一刀流は少し距離を置かれ、それが若い藤堂を悩ませたのかも知れない。

 今夜の新撰組も、楽しめた。

 

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原田勝遺贈・科学史:きわどい科学/マイケル・W・フリードランダー

きわどい科学 : ウソとマコトの境域を探る / マイケル・W・フリードランダー著 ; 田中嘉津夫、久保田裕訳
  <キワドイ カガク : ウソ ト マコト ノ キョウイキ オ サグル>. -- (BA30505575)
  東京 : 白揚社、 1997.4
  387p ; 20cm
  注記: 参考文献: p385-387
  ISBN: 4826900767
  別タイトル: At the fringes of science
  著者標目: Friedlander、Michael W. ; 田中、嘉津夫<タナカ、カズオ> ;久保田、 裕<クボタ、 ヒロシ>
  分類: NDC9 : 402.3 ; NDC9 : 404 ; NDC6 : 404 ; NDLC : M37
  件名: 科学 ; 自然科学 -- 歴史 -- 西洋

所蔵図書館 127 [2004/10/31 By NACSIS Webcat

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2004年10月30日 (土)

2004/10/30(土)NHK義経

 NHKの大河ドラマについて、起き抜けに考え始めていた。
 MuはTVを見ない。ニュースさえ滅多にみない。なぜかと考えてみると、実に単純で見る時間がない。それほど忙しいのかと問われれば、そういうことでもない、としかこたえられない。

 仕事場に午前7前後にたどり着く。
 仕事場にTVもラジオもない。電話があるが、大抵1秒で切る内容しかない。
 要するに、情報が遮断されている。
 インターネットやメルはあるにはあるが、見る見ないは気分次第だから、助かる。

 仕事場には12時間程度うたた寝しているから、帰還すると時間的に「めし、風呂、熟睡」で終わる。
 こういうとこも、典型的日本の親爺だな。
 読書は、就寝前の床のなかで数分から数十分。
 研究は昼に、授業や会議の合間に、数分単位の瞑想だけ。
 (休日は、DVDとか図書一冊を読む)

 唯一。日曜夜のNHK大河ドラマは見る。
 しかし、12月の総集編まで見続けるのは少ない。大体5月くらいで見終わる。すると、あとは年末の紅白歌合戦しかみない。大河ドラマに紅白となると、Muは典型極まる日本の庶民となる。ただし、残りの日々TVを見ないのがちと違うようだが。

 これまで最後まで観ておぼえているのは、竜馬が行く、伊達政宗、大村益次郎(お医者さんで陸軍創設者)、足利尊氏、そして今年の新撰組。
 あと、膨大な戦国期のものは断片的に長期間みている。信長や秀吉や、柳生宗矩もそうだった。
 檀ふみさんが一休のそばにいて、萬斎さんが細川さんを演じたのも、みたな。

 新撰組は、山を越えた。あとはじっくり毎週、彼らの青春の残照を見届けることになる。これはこれで、TV三昧といえよう。ただ、山を越えたと言っても、飽きたとか、観なくて良いとかの気持は毛頭無い。この残り二ヶ月間をちゃんとみる気力がある、つまり観たいと思わせる魅力がある、というところに意味がある。

 で、やっと本題に入る。

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2004年10月29日 (金)

2004/10/29(金)木幡の月

 月というと夜の月を思い浮かべるが、私は朝の月に縁があるようだ。
 今朝五時過ぎの窓の外、目を少し上げた西空に月があった。こころもち視線を下げると、水面にもう一つ月があった。二つながらに鮮明なので、どちらが「宇宙の月」か区別はつかない。
 この情景はどこかで覚えている、既視感かとも思ったが、MuBlogに書いたはずである。MuDB2004をクリックして、カテゴリーを「小説木幡記」、本文の言葉をただ「月」にしてさがした。21件あった。
 そのまま見ていくと三件目に運良くあった。
  2004/04/06 晴 早朝の月二つ
 読み直してみると、気持は変わっていなかった。
 
 人は変化もするが、変わらぬこともある。進歩、前進、変化がよいとも思っていない。
 昨日と今日と明日とが一続きになった生活は、安定感があってよく眠れる。
 「二つの月」があって、やがて明るくなると消えてしまう。しかし月が無くなったわけではない。
 「月」はあるのだが、見えないだけである。

 地球の傍にある月は実体生物としての私。
 池面にうつる月は、映し出されたMu。
 この世はそういう仕掛けになっていたんだ。

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2004年10月28日 (木)

柳生一族の陰謀/深作欣二 監督

柳生一族の陰謀/深作欣二監督 ; 野上龍雄, 松田寛夫, 深作欣二脚本

柳生一族の陰謀/深作欣二監督[DVD]

  DVD
  オリジナル全長版
  東京 : 東映 (発売), [19--]
  DVD1枚 (130分) : DVD-Video、Dolby、カラー:16:9シネスコ
  (Toei video)
  DSTD02098
製作: 東映ビデオ
出演: 萬屋錦之介, 千葉真一ほか
シネスコサイズ
昭和53年 東映京都作品
著者標目:深作、欣二(1930-) 〔フカサク、キンジ〕 ; 野上、龍雄(1928-) 〔ノガミ、タツオ〕 ; 松田、寛夫 〔マツダ、ヒロオ〕

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2004年10月27日 (水)

2004/10/27(水):とんでも神々

 どうしても腑におちない図書が朝から手元にある。買った覚えも借りた覚えもない。もちろん読んだ覚えはまるっきりない。そして、その本が近頃までどこにあったのかさえ知らない。不思議すぎる本だ。
 今朝、起き抜けに突然私の目にはいってきた。おそらく何重にも図書が重なって入っている書棚の、前面にある図書のいくつかが、なにかの拍子で落下したり、移動して、うしろからぽとりと墜ちてきたのだろう。
 私の書棚は、本を探すというより、本が発掘されるのを待っているような所なのかもしれない。

 出版社は大手、老舗の講談社。
 出版社で出版物を判断するのは、おおよそ間違ってはいない。岩波は岩波みたいな本だし、新潮社は新潮社そのものの本。小学館もこれぞ小学館らしい図書を出している。だから、講談社なんだから、まるっきり嘘っぽい本は出さないだろうという、予断と偏見。
 しかし、予定は未定にして確定にあらず、という名言あるように、……。実はこの名言と対句をつくろうとしたが、力つきた。要するに。

 『神々の遺伝子:封印された人類誕生の謎』アラン・F・アルフォード著、仁熊裕子訳.1998.11

 たしかに、おそらく、著者や訳者や出版社にはもうしわけないが、これは明々白々なトンデモない本だ。
 略してトンデモ本である。
 神さんに遺伝子があるなんて、想像しただけで、うそうそしい。
 帯情報に至っては、推測と蛇足とが入り交じり、正気では理解できない。

「人間は『神々』の末裔なのか!?
 高度な古代文明を築き上げた人間と現代人は、はたして同じ人類(ホモ・サピエンス)なのか?
 古代シュメール文明の科学的分析から導き出された衝撃の結論!
 『神の遺伝子をもつ人間』はどこへいったのか?」
 「著者の主張は、『神々』と呼ばれる存在が、二〇万年前に遺伝子工学を利用して現世人類を創造したということである。その主張は古代シュメールの文献に基づいている。著者はそれらの文献を聖書と照らしあわせ、さらに天文学、考古学、人類学、遺伝学などさまざまな分野から検討し、持論を展開している。そして、地球の誕生、高度な古代文明の謎までもが明らかにされた。その内容は実に多岐にわたり、かつ詳細まで掘り下げられ、読者の興味をひきつけてやまない(訳者あとがきより)」

 と、ここでMuBlog読者は、私が快刀乱麻、どれほどこの本がトンデモない内容なのか、るる執拗に批判し記すとおもわれるかもしれないが。
 とーんでもない。
 涎の出そうなご馳走を、批判してなにになる。

 この本が今朝突然私の眼前に顕れたのは、もしかしたら、神々の啓示かもしれないと、朝からほくそ笑んだ。
 ああ、長生きはするものだな。この世には、こんなに面白そうな話が、まだまだ一杯詰まっている。

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日本・文学・川村二郎:限界の文学/川村二郎

限界の文学/川村二郎著
  東京:河出書房新社、1969.4.30
  定価 640円
  By NDL-OPAC KE121-4

全国書誌番号 75013699
個人著者標目 川村, 二郎 (1928-) ∥カワムラ,ジロウ
普通件名 文学 ∥ブンガク
→: 文学と科学 ∥ブンガクトカガク
→: 随筆文学 ∥ズイヒツブンガク
→: 宗教と文学 ∥シュウキョウトブンガク
→: 宗教文学 ∥シュウキョウブンガク
→: 社会主義文学 ∥シャカイシュギブンガク
→: 戦争文学 ∥センソウブンガク
→: 音楽と文学 ∥オンガクトブンガク
→: 共産主義と文学 ∥キョウサンシュギトブンガク
→: 口承文学 ∥コウショウブンガク
→: 記録文学 ∥キロクブンガク
→: キリスト教と文学 ∥キリストキョウトブンガク
→: 絵画と文学 ∥カイガトブンガク
→: 怪奇文学 ∥カイキブンガク
→: 法律と文学 ∥ホウリツトブンガク
→: 翻訳文学 ∥ホンヤクブンガク
→: 文学と社会 ∥ブンガクトシャカイ
→: 文学と政治 ∥ブンガクトセイジ
→: 文学と技術 ∥ブンガクトギジュツ
→: 文学と道徳 ∥ブンガクトドウトク
→: 美術と文学 ∥ビジュツトブンガク
→: 小説 ∥ショウセツ
→: 戯曲 ∥ギキョク
→: 詩 ∥シ
→: 日記文学 ∥ニッキブンガク
→: 児童文学 ∥ジドウブンガク
→: 紀行文学 ∥キコウブンガク
→: 諷刺文学 ∥フウシブンガク
→: 宮廷文学 ∥キュウテイブンガク
→: バロック文学 ∥バロックブンガク
→: 物語 ∥モノガタリ
→: 比較文学 ∥ヒカクブンガク
→: 文学賞 ∥ブンガクショウ
→: 文学者 ∥ブンガクシャ
→: 文芸批評 ∥ブンゲイヒヒョウ
→: 古典研究 ∥コテンケンキュウ
NDLC KE121
NDC(6) 904
本文の言語コード jpn: 日本語
書誌ID 000001258968

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2004年10月26日 (火)

きょうとえき・けいか:京都駅・桂花・東本願寺

京都駅と桂花ラーメンと小川珈琲と工事中の寺(京都府京都市下京区東塩小路)MSN地図
  駅とラーメンと珈琲と寺

 好物の取り合わせがそろったのだ。過日所用で筑波大学へでかけた。途中帝都で、おおきな寄り道をした記憶もうっすらとあるが、ともかく2004/10/22、私は京都駅に立っていた。
 まず駅舎を一枚。次に、撮った場所の横にラーメン横町(京都拉麺小路)があって、覗いてみた。すると七軒ほどの日本全国有名ラーメン店があった。迷わず、熊本名物桂花(けいか)ラーメンを食した。ここで桂花ラーメンのうんちくを記す予定はないのだが、私が日頃愛食する京都のラーメンに比べて、特色が多々ある。白濁スープののどごしが実にすっきりしているのだ、……。その後、隣の小川珈琲でアイスコーヒーを飲んだ。(なんか、すべて役者がそろった感じだ)

 で、最後に散歩がてらに伊勢丹の屋上へ行き、工事中の大伽藍、東本願寺を写した。
 京都駅大好き、ラーメン大好き、珈琲大好き、お寺大好き。
 都に住むということは、まことにうれしいことであるな。

京都駅の底
 これは、大階段の屋上から写した。中央テーブル状の向こうが、グランヴィア・ホテルの喫茶室である。ここには時折出没する。
 ともかく、渡り廊下も含めて、金属と硝子の織りなす空間は、私の好きな場所である。ただ金属の接合部分をよく見たのだが、京都駅は少し古い様式に思えた。
 この件は、滋賀県山中のミホミュージアムとか、サイトや建築図書写真で見た森博嗣邸(書斎ガレージ)を参考に、いずれ記してみたい。

大伽藍工事中(東本願寺)
 伊勢丹の屋上というのか、京都駅の屋上というのか、よくわからぬが、大伽藍工事中だった。つい最近新聞で知ったのだが、寺をすっぽり覆うシェルターのような、なんとも豪華な修理に驚いた。
 奈良の大仏さんはどうだったのだろう。以前、開眼供養式典だったか(開眼は奈良時代の話かな)、ビデオで観たが、昭和の大仏修復作業も相当に大規模だった。一度調べてみる値打ちがある。
 で、ここは京都。
 東本願寺が、巨大な太陽電池に見えた。

参考
  京都駅の雑踏[MuBlog]
  桂花ラーメン[公式HP]
  京都拉麺小路
  小川珈琲本店[MuBlog:京都駅の店は京都拉麺小路にあります]

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2004年10月25日 (月)

2004/10/24(日)新撰組:さよなら竜馬

 昨夜日曜、竜馬とさよならした。

 近藤さんが幕府要人から竜馬の存在意義を教えられ、護衛を引き受けたことで「新撰組」は一つの青春を上手に見送った。
 最初の頃の江戸、近藤や竜馬や桂がみんな知り合いだったことに、違和感を覚えていたが、昨夜の筋立てで決着をみたと思った。彼らは剣術家だった。竜馬も桂も北辰一刀流免許皆伝だったはず。もちろん近藤さんは養子に入った試衛館で天然理心流免許皆伝。

 昔の、若い頃の知り合い達の笑顔が、権謀術策陰謀で曇っていくのを見たくはなかった。
 見なくてすんだ。
 竜馬は綺麗なまま、逝った。近藤は助けようとした。桂は姿も影もなかった。

 岩倉と西郷がどす黒い政治家としてトドメをさした。
 斬った佐々木は、道具だった。
 幕府見回組の佐々木が斬り、それを横からそそのかせたのが、岩倉具視、西郷隆盛となっていた。
 佐々木らが竜馬と中岡を暗殺した後、遅れて護衛にいったのが、新撰組の永倉と原田。
 このあたりの脚本は本当に良くできていると思った。

 竜馬は共和制を持ち込むつもりだったのか。共和制は薩摩、長州にとって受け入れがたい体制だったのだろう。

 昨夜の竜馬暗殺で、私の緊張も融けた。
 竜馬はいつもはらはらする。見ようによってはつねに策士、周旋屋にとどまらず、やることなすこと大博打。受け入れられる間は痛快だが、政治・保守反動の反発に出くわすのを、見るのが辛かった。
 一般に、政治とは保守反動である。
 革新政権こそ、徹底的な反動である事実は、歴史のおそろしいまでの皮肉であろうか。

 もう、その辛さを味わわなくてすむ。
 竜馬は、現代に生きていたら、高校を中退して、そのまま消えていったかもしれない。
 いや、免許皆伝を得るほどの努力家でもあったから、そうでもなかったかもしれない。
 わからなくなった。

 近藤さん。土方さん。沖田さん。
 よかったな。私の好きな竜馬、その暗殺に君らが画策していたという筋書きだと、2004年毎週日曜の夜に君らを愛しんできた私の立つ瀬がない。よかった。

 もう一度、竜馬の青春がこもった伏見寺田屋をじっくり見ておこう。

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2004年10月24日 (日)

ミスター・スタンプス・ワインガーデン:MSWG[その2]パンと葡萄酒

六本木のワインガーデン[その2]パンと葡萄酒(東京都港区六本木4-4-2)MSN地図

フランス風1996年ワイン
 昨日の記事[その1]に続いて今朝はパンと葡萄酒について記しておく。なぜパンと葡萄酒なのかは記事末尾追伸に記しておいた。
 さて暫くして梅翁が選んだワインはこの写真のものだった。
 私に美味しかったのか、まろやかだったのか、芳醇でしたか、などと聞かないでほしい。日頃は国産ワインを飲んでいるだけなので、異国の品々を味わい分ける経験もない。ただ、雰囲気の中の話としては、これがないと話にならない、これをたとえ三口でも舌にのせないと、行った甲斐もないと。それくらいは分かったつもりだ。
(ところで、夏にJOさんからフランス南部の上等極まるワインをいただいた。これは木幡でリラックスして飲んだので、味わいを覚えている。もう一本飲めば味覚データベースに完全に格納されるであろう)

酒棚
 これは座った席から、途中の板の仕切りのスリットを通して撮してみた。いわゆるコニャックとかブランデーとか、そういうものもあるのかもしれない。それにしても、JOさんの別のコメントでは、この店のおじさんはワイン類に相当な愛着があるらしい。だからおいてある酒はそれぞれに、高度な味わいを持っているのだろう。想像である。

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2004年10月23日 (土)

ミスター・スタンプス・ワインガーデン:Mr. Stamp's Wine Garden [その1]

ミスター・スタンプス・ワインガーデン(東京都港区六本木4-4-2)マピオンBB地図
梅翁通称:六本木のワインガーデン

六本木のワインガーデンのマーク
 秋の深まった週末、思い立ったように都を後にして江戸へ行った。江戸には3年ぶりだった。夕刻旅籠(はたご)に休み、ほどなく風雪梅安一家の梅翁が自ら迎えに来てくだすった。タクシーにのって皇居前を通り過ぎたとき、私も梅翁も「これが皇居なのだ」とつぶやいていた。梅翁は国立(くにたち)に庵しているので、帝都の中心を十年に一度くらいしか訪れぬようである。
 真空地帯故に、それでよいと私も思った。にしても、濠で囲まれた江戸城は武ばった宮城。宮都とは、京をおいてほかにはない。

指南車留のJO
 まずは虎ノ門の指南車留(しなんしゃる)へ行き、ディスプレイで人別照合の上、JOさんの迎えを受け、冷えたブルーマウンテンをいただき、巨大なフロアを瞥見(べっけん)した。虎の皮は部屋になかった。
 写真は、当夜おとずれた六本木のワインガーデン前にてくつろぐJOさんその人である。

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2004年10月22日 (金)

ながたにはちまんぐう:長谷八幡宮

長谷八幡宮(京都市左京区岩倉長谷町)MSN地図

長谷八幡宮参道
 十月上旬の日曜日、思い立って京都市の北、岩倉へ行った。点から点の移動で、まさしく、行った、見た、帰った。であった。
 岩倉と言えば明治の元勲岩倉卿である。私の父の若き日通った、帝都「岩倉鉄道学校」に岩倉卿が深い縁があったとは、驚きだったが、この記事は「長谷八幡宮」に関してのもの。
 最初に、ここは「ナガタニ」であって、決して「ハセ」ではない。長谷と書いてあれば自動的に、こもりくの初瀬、ハセとなってしまう少年期をすごしたが、しかし、あくまでナガタニ・ハチマングウ。
長谷八幡宮由緒高札
 由緒高札は判読できなかった。いちいち史料と引き合わせたり、調査すればそれほど難しい内容ではないが、ともかくそのまま掲載しておく。
 祭神が惟仁親王と、仁徳天皇であることが分かれば、私程度の者には十分である。神さんを間違えるのはよくないが、細かなことは忘れてしまうものだ。

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2004年10月21日 (木)

お茶の化学実験

 名も知らぬ和風喫茶店(京都市中京区中島町)マピオンBB地図

お茶の化学実験
 忘れられない情景がある。
 化学実験のようなお茶のいれかた。
 場所は、もう何十回行ったか分からないほどなのに、店名をいまだに覚えていない。
 三条大橋の西すこし、南側にビルがあって、その上の方だ(多分、6階か7階)。
 見晴らしのよいところだ。道をはさんだ北は、おそらく「がんこ」のビルだろう。

 写真は、お湯を入れて暫くすると、紫がピンクか、はたまたピンクが紫か、変色するというお茶。ハーブティーかもしれない。
 この硝子製の、まるで特別にあつらえたビーカーかフラスコのような器具が、たまらない。

 お湯を注いでいる人は、UCLA関係の人(いまどこにおられるか知らない)。その左はDJと言われた人のはず。この方もどこにおられるか知らない。

 要するに私の記憶は、関係する地名、人名、対象名をすべて忘れて、ただ、イメージだけがある。
 イメージを言葉にメディア変換するなら「お湯を入れると色が変わる、化学実験」

 昔、私とお茶をつきあった方達に申し訳ない思いがする。なぜなら、私の脳には、ハーブティー一つ入れて見て飲むときも、それは「狂気の科学者の化学実験」になってしまっているからだ。浪漫の薫りもありゃしない(笑)

 私は、いま確認した。私は、正真正銘の「男族」なんだ、と。
 これは、実に大切な自覚だ。

 この何十年来、かつての職場の女性司書の方達、そして10年以上、学生達(女子大)の言葉がほとんど翻訳理解できず、困り果ててきた経緯は、当たり前なのだ。種も文化文明も、概念構成、言葉さえ異なる世界だったのだ。
 それに気付いて、今朝は非常に機嫌がよくなった。

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2004年10月20日 (水)

うじがみじんじゃのきりはらすい:宇治上神社の桐原水

宇治上神社の桐原水(京都府宇治市宇治山田)MSN地図

宇治上神社・桐原水
 MuBlogの別の記事(宇治上神社)で桐原水のことをMuは気にしていた。その後なにも分からなかったのだが、撮した写真を調べていたら数葉あったので、追加掲載しておく。宇治七名水が昔あって(中世か)、現在はこの宇治上神社境内の桐原水(きりはらすい)だけが、事実上残っているようだ。今度は桐原という言葉がさらに気になったので、少しだけ見てみた。
 平凡社の寺院神社大事典:京都・山城から引用しておく。
「境内は『山城国風土記』逸文にみえる応神天皇の皇子莵道稚郎子が住した離宮桐原日桁(きりはらのひげた)宮の旧跡と伝え、旧社名離宮明神もそれにちなむものという。境内およびその付近には「天降石」または「岩神さん」とよぶ巨石があり、磐境信仰によって創祀(そうし)された神社とも考えられている」

宇治上神社本殿
 この写真の本殿とは奥に見える建物をさし、右側の大きなものは拝殿である。先の引用から考えて、桐原は離宮の名前であり、往時は桐木が数本あった原っぱだったのだろうか?(トンデモない想像でした)。もう一つは、巨石がごろごろしている様に書いてあることだ。Muは実は気が付かなかったのだが、今度行くときは巨石を捜してみようと思った。しかし、石と清水と言えば、古神社であり、それは日本の原型である。そういう意味では、宇治神社上下は、伝承とおりに応神天皇時代と仁徳天皇時代のはざまに栄えた土地だったのかも知れない。と、夢想した。

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2004年10月19日 (火)

2004/10/19(火)雨:ながめせしまに

 ながめせしまに。
 長雨。
 眺め。
 昼夜横臥し、天井を眺めて暮らした。
 万葉時代は、雨が降ると男女の逢瀬もできなかったようだ。そういう時代、自然現象にあわせて日常を営む世界も、今から考えると理にかなっている。
 私は晴耕雨読ならぬ、晴講雨睡、ということになる。
 四六時中うつらうつらとしていると、現(うつつ)と夢とが相互にいりこんで、なにがなにやらわからなくなる。夢も過去夢、現在夢、未来夢と複雑なので、組合せをすべて体験するには、ちょっとしたことでも、一日かかってしまう。

 というわけで、夜が来た。
 秋の夕べはつるべ落としというが、「つるべ」がなにやら、四の五の説明しなくては通じぬ世間になってしまった。

 さて。
 明日水曜日に、超大型台風が関西に来るとの噂がある。
 超のつく台風が今年は多かった。
 台風の通り道の九州では、休校の相談をしている間に台風が通過するのは、日常茶飯事らしい。これも、さはんじ、と正確に言わねば、お茶漬けとしか通じぬ世の中になってしまった。

 いまから茶を一杯飲んで(銘柄は男茶)、ぜんざいでも一椀いただくとしよう、善哉善哉。
 たくわん、ぽりぽり。
 ながめせしまに、気が付けば、目覚めて朝。
 人の世は儚いが、一瞬一瞬に励起するなにかがあって、心が躍る。
 そういうわけで、今宵は、般若心経なと目で追ってみる。

 ぎゃーていぎゃーてい、はらぎゃーてい、はらそうぎゃーてい、ぼじそわーか。
 

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2004年10月18日 (月)

米国・文学・SF:幼年期の終り/アーサー・C・クラーク

幼年期の終り/アーサー・C.クラーク著、福島正実訳
  東京:早川書房∥ハヤカワ ショボウ、 1964.4
  280p;19cm
  (ハヤカワ・SF・シリーズ;3067)
原題: Childhood's end by Arthur C. Clarke

全国書誌番号 64003258
個人著者標目 Clarke、Arthur Charles (1917-)
NDC(6) 933
本文の言語コード jpn: 日本語
書誌ID 000001053095
By NDL-OPAC Y81-106

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2004年10月17日 (日)

2004/10/17(日)新撰組:直参旗本

 今夜の新撰組。
 最近は、熱狂は少ないが、秋が深まり季節感にみあった落ち着きが出てきている。
 滋味がある、と記しておこう。

1.近藤さん、直参旗本
 壊れかけた徳川幕府、それでも足利幕府に比べてまだ形は残っている。
 (ああ、昔、鎌倉幕府の末期を、俳優:鶴太郎が狂気じみて演じていた。印象が深い。)
 近藤さん、今夜は会津中将から直参旗本の達しを受けた。
 これはすごいことである。あれほど硬直した幕府で、百姓から旗本になるというのは、そうだね、私が文部科学大臣ではないが、それに近いポストを得るようなものかな。
 こういうことを小馬鹿にする人もおるし、私もそうしてきたが、あのドラマの連続性の中では、胸のつかえがすっととれるほどの爽快感と、そして悲劇を味わった。複雑。

2.観柳斎末期
 彼の最後は、なるべくしてなったとも言えようが、NHK新撰組は好意的な最期を選んだ。三谷さんの力量だろうな。
 どれほど堅物の女性でも、めろめろになるという(私も事例を目撃したが)あの美形沖田総司が、観柳斎の墓参りを目撃したという設定は、優れているな。
 沖田は、本当に研ぎ澄まされてきた。斎藤一の凄さと入れ替わっていくようだ。
 私は、男性として、斎藤一が好みだが(笑)、このごろ女性の好む沖田に肩入れしだした。もっとも、つい先だって八つ墓村では、沖田イメージとごちゃごちゃになって、困ったが。27歳死亡。まだ、悲惨な鳥羽伏見戦では生き残る。

3.永倉シンパチの物堅さ
 あのキャラは、定見があって安心する。なにかあると必ず、目玉をぎょろつかせて土方や近藤に迫ってくる。明治まで生き残った人。物堅い男性は、女性に好まれるようだが、あの物堅さが身を守った、好例かもしれない。

4.竜馬暗殺前夜
 竜馬は、西郷にうとまれるほど、切れ者だった。西郷は藩を背負った政治家である。
 竜馬は好きにできる自由人。
 今夜の西郷の描き方も上手だった。いまだに竜馬暗殺はいろいろあって、薩摩が黒幕説とはよく耳にする。
 王政復古、公武合体。徳川もメンバーの一人。たしかに、こういう考えは竜馬でないとうまく説明できない。
 しかし、薩長は武力で幕府と交代したかったに違いない。
 ああ、それにしても竜馬も終盤になってようやく雰囲気が滲み出てきた。最初の頃は、どうにも書き割りの、なんとなく浮いた感じだったんだが。斎藤一にピストルを突きつけた瞬間は、よかったね。

5.優香
 また生きかえってでてきました。
 今度は、とっても伝法な町娘。
 原作、演出、みんな優香にぞっこんなのかもしれない。
 そうやね。私が演出なら、やっぱり、何度殺しても、生きかえらすやろね(笑)。
 ところで、あの女優さん幾つくらいかね。すこし落ち着きがあるから、24くらいだろうか。読めない。

*.というわけで
 前にも書いたが、この新撰組、季節の移り変わりにしたがって内容も動から静になっていき、しっとりとしてきた。
 いまさらながら、近藤さんも、土方さんも、当分は役になりきった人生を歩むような気が、ふとした。
 (役柄が、顔から離れなくなった仮面のように、俳優自身を規定していく。これは、大変なことだと思う)
 (超有名な事例では、ピーター・オツールが、私の中で生涯「アラビアのロレンス」だったように)

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2004年10月16日 (土)

2004/10/16(土):星々

 少年時、夏や秋の夜は大抵寝っ転がって、ひとしきり星々、宇宙を眺めていた。
 吸い込まれそうな感じ。
 というよりも、当時は燈火も少なかったから場所を選べばまわりに何もなくなって、宇宙の中に浮かんでいるような思いがした。
 手を伸ばせば星をつかめる。

 考えていたのは、「果て」だった。
 宇宙には終わりがあるのだろうか、と真剣に悩んでいた。
 それは、いまも解消していない。
 宇宙の「外」はあるのだろうか。
 「外」も「内」もなくなるのが宇宙なのだろうか。

 分からないまま、終わりそうだ。

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2004年10月15日 (金)

七万アクセス

 今日金曜の夕方に、7万アクセスを越えました。
 先回の6万アクセスは9月17日(金)でしたから、ほぼ一ヶ月単位で1万アクセスになるようです。

   2004年10月15日(金)
   累計アクセス数: 70000 (ドンピシャですね)
   1日あたりの平均: 330.19

  一万アクセス記事
  二万アクセス記事
  三万アクセス記事
  四万アクセス記事
  五万アクセス記事
  六万アクセス記事

ワードランキング
 今回からは、一週間単位にしたいので、先週の記録を上げていきます。
対象日: 2004年10月04日(月)~ 2004年10月10日(日)
合計数:1632

順位 検索ワード 件数
1 じぶり 42
2 地図 38
3 ダヴィンチコード 37
4 ウィトルウィウス的人体図 34
5 シオン修道会 24
6 ダビンチコード 24
7 京都 23
8 映画 20
9 水滸伝 19
10 mublog 13
11 ダビンチ 13
12 写真 12
13 北方 12
14 肉うどんレシピ 12
15 ハリウッドハイランド 11
16 ハリウッド&ハイランド 11
17 最後の晩餐 11
18 河村能舞台 11
19 葛野図書倶楽部 11
20 三角縁神獣鏡 10
21 京都の城 9
22 卑弥呼と大和 9
23 山南敬助 9
24 水野正好 9
25 アートスペース上三条 8
26 卑弥呼 8
27 奈良 8
28 石見銀山 8
29 篠田一士 8
30 終戦のローレライ 8
31 折口信夫 7
32 死者の書 7
33 角川 7
34 みたかのもり 6
35 コード 6
36 ダヴィンチ 6
37 チャイナ梅の花 6
38 北方水滸伝 6
39 北方謙三 6
40 川村二郎 6
41 映画化 6
42 美しいサイト 6

 単語単位検索ですと、ときどきトンデモなアクセスも混じっています。そうですね、14番の肉うどんレシピ、これはたぶんJOさんのコメントでしょう、内容はとても良いのですが、まさか利用者が肉うどんblogと間違えたわけではないでしょうね? 
 この週は穏やかな内容でほっとしました。
 そうそう、18番の河村能舞台と、19番の葛野図書倶楽部は、わが女子大学の関係学生卒業生が妖しいですね。ただし、18番はお能の世界では著名な舞台ですから、一般の人かもしれません。19は、世界中にこんな倶楽部はここしかない! と言い切れます。

検索フレーズランキング( 3件以上のみ)
対象日: 2004年10月04日(月)~ 2004年10月10日(日)
合計数:480
順位 検索ワード 件数
1 折口信夫  死者の書 6
2 ダヴィンチコード  映画 5
3 ダヴィンチコード  映画化 5
4 ハリウッド  ハイランド 5
5 水滸伝  北方 5
6 包丁式  古式四條流 4
7 ダヴィンチコード  最後の晩餐 3
8 ローレライ  映画 3
9 保津川下り  地図 3
10 北方  水滸伝 3
11 古事記  夢占 3
12 宇佐神宮  卑弥呼  亀山 3
13 日妻  太陽神 3
14 角川  ダビンチ 3

 フレーズ検索は目的が明確なので、データは少量ですが傾向はよく分かります。
 ダヴィンチはしかたないですね。とても多くの読者がいるから、MuBlogの固有性指標にはならないでしょう。5と、10の北方謙三水滸伝は、記録がすでに10あるので、これはMuBlogの特徴と考えています。あと、古代史は有意に特徴的です。
 してみると、MuBlogは現代文学、古代史というくくりになりますね。当然でしたかな。

曜日別
対象日: 2004年10月04日(月)~ 2004年10月10日(日)
合計数:2216
曜日 グラフ アクセス数
MON 323
TUE 388
WED 293
THR 246
FRI 280
SAT 344
SUN 342

 曜日単位ではよく分かりませんね。木曜がすくないですか。土日が意外にあります。自宅からのアクセスがおおいのでしょう。ただ、日々昼休みがとても多いですから、もしかしたら会社勤めのひともご覧になっているのかも知れません。
 だけど、ブラウザにMuBlogなんて痕跡が残ったら、早晩、その人クビになるよ(妖しいblogを見る者は職員として不適切!)

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Delphiの祖父

 今日のMu現代古典は、「プログラミング言語の設計から計算機の構築へ/ニクラウス・ヴィルト」(中田育男、訳)を上げておく。原題は、From Programming Laungage Design to Computer Construction / Niklaus Wirth となっていた。
 収録図書は『ACMチューリング賞講演集』 共立出版、1989.
 (ACM Turing Awarad Lectures : The First Twenty Years)

1.昔、偉い人が偉い賞をうけた
 ヴィルト博士もチューリング賞も、くわしく書くと、この道に無縁な人には目がまわる。要するに、ヴィルト先生はPascalというコンピュータ用の優れた言語を造った(1970前後に完成)偉い人。そして、チューリング賞というのは、コンピュータ世界でのノーベル賞(1984)、くらいにしておく。

2.Delphiの祖父、その心は
 偉業の継承、ととく。
 さて、DelphiとはMuがこの10年ほど愛用しているコンピュータ言語というよりも、開発システム一式である。
 とても豊富な、過剰なまでのサービスがあり、そして基本が「はやり」のオブジェクト・オリエンテッド(この話は無視)な仕組みなので、謎のようなシステムを、次々と自動的に生み出す。つまり魔法のようなシステムである(嘘かな?)。
 Delphiの基本仕様・言語はヴィルト博士が造ったPascalで、それをボーランド社(1983)創業者のフィリップ・カーンという人がTurboPascalという名称で商業化した。変遷を経て現代は同名の会社が「Delphi」として販売している。(途中社名が代わって社長も替わって、社名が戻って、複雑)

 カーンは大昔、スイスでヴィルト先生に師事している。だから、現代Delphiの父はカーンだが、カーンの父はヴィルトのPascalである。ということになる。
 私はTurboPascalのv3から本格的に使い出したから、すでに20年来ボーランド社の長期ユーザーである。

3.ヴィルト先生の影響
 私は時々自分の言動を、こだまのように聞き返し見返して、おや? と思うことがある。
 よく考えてみると、30代前半からヴィルトの影響が浸透してきたようだ。
 今日、表記エッセイを読み直して、それが明白な事実だったことに気がついた。
 以下に引用するが、決してマシンに対面しているときばかりでなくて、授業や会議や人生や、いろんな所で彼のセリフを思考の中で引用していた。
 なお、このエッセイ以前に私はヴィルトの著作や関連図書をいくつか読んでいる。このエッセイはまさに、それらのエッセンスだったと言えよう。

4.ヴィルト先生格言
「時々、Pascalは教育用の言語として設計されたと主張されます。それは正しいのですが、教育に使うだけが目標ではありませんでした。事実、実際上の仕事に不適当な道具や表現形式を教育に使うことは意味がないと思います」
 私はかねがね、司書資格(情報図書館学)を教えているので、こういう現実への配慮を常に思い起こしている。できれば、理屈や理論は、各人が現実的な道具と、身体と脳を動かすことで、自ら作り出すのが最良と思っている。

「(Pascalを使うことで)教師はそれで言語の特殊な機能ではなく構造と概念に、すなわち技巧より原則に集中できたからです」
 学問や理論、屁理屈は、どうしても些末な迷路に迷い込む。それは時に技巧的である。原則、それも現実に対応出来る強靱な原則を自然に身につけるのが最良と思っている。

「(あるマシンを設計し、成功した。それは)一時的流行や委員会の標準との互換性とかの制約がまったくなくてできる設計でした。
 しかし自由であるという感動だけでは技術的なプロジェクトで成功はしません。厳しい作業、決断、何が本質で何がその場限りのものであるかがわかる感受性、それと少しの幸運がなければなりません」
何が本質的で何がその場限りのものであるかを早期に見分けることが必須であります」
「その場限りのものは、すでに出来上がっている良い構造の骨組にうまく適合するようにつけ加えるべきです」
 この三つをまとめた引用は実に含蓄がある。私は日々これを、無意識に反芻してきたようである。
 大きなミスも、失敗も、成功も、「一体、なにが本質で、大切なことなのだ!」と叫び声をあげて、次に心鎮めて考えてみると、解決の道が開けたことが多い。
 それと最初に、感受性、幸運という言葉がある。これが実にリアルだ。対象に関する感受性とか、幸運とかいう曖昧な要素なくして、現実には対処できない。これを知ると、多くの困難事、不成功も、心安まる。(ああ、運がなかったなぁ、とか、まったくわからんかった、感受性ゼロやなぁ、とか)

5.断章
 ヴィルト博士は、私にとって実に良い先生だった。
 人生は、時にあって麻のごとく乱れ、自他ともに、なにがなんやらわからない状況にでくわすものである。それは現在の私であり、迷える学生達であり、人生の岐路や、システムを構築する際や、研究の際に、つねに出くわしてきたことである。
「君ね、この件で、一体何が本質的に大切なことなんだ?」と、ヴィルト先生が一言つぶやく。
 それだけで、答はでたようなものなんだ。

 異邦の、生死も人柄もしらない人の著書が、ヤマトの國の私に、かくまで永く、人生の指針を与え続けてくださる。
 ありがたいことである。

関連記事・サイト
  Mu現代古典

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私の不思議

 かんがえるともなく、頭になにか浮かんできた。
 最近は、これを電波が飛んできたと一人でうなずいている。
 Muという私から次々と「飾り」を取っていくと、なにが残る、
 と恐ろしいイメージに浸ってしまった。
 ここに書いてしまえば、考えなくなるから、書いてしまおう。

1.社会性
 大学勤務 → 再就職可能性ゼロ。ツブシがきかない。怠け者。
2.趣味性
 自動車 → 途方にくれて、とてつもなく不安定になる。常時ハンドル操作の四肢動作。
 パソコン → 四六時中マウスやキーボードを操作する両腕動作が抜けないだろう。
 図書 → 24時間横臥したまま天井を見ているだろう。つまり何もしなくなる。
3.妄想
 これは脳を破壊されない限り持続すると思う。
 王宮に住み、数十名の苦み走った若き将軍、将校達に畏怖憧憬され、美姫にかこまれ、うまいものをたべ、山野を馬で駆けめぐり、連戦連勝の戦をしておるだろうな。
(この妄想は現代人つまり近代自我からはほど遠い。私、一体なんだったんだろう)

*.総合判定
 すべての「飾り」を取り去ると、完璧に虚無人になると、診断される。
 (ようするに、がらんどう)
 おおよそ、自力で生きるための、原始基本生命力に欠ける。
 ただし、数日間は、きわめて先鋭化した幻視能力によって、
 にっこり笑い上機嫌ですごし、
 その後、横臥したまま昏睡状態に入るであろう。

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2004年10月14日 (木)

2004/10/14(木):葛湯(くずゆ)

 しょうが葛湯というのにこっていた。

しょうが葛湯
といっても、日に何杯も口にするわけではなくて、思い出したように、葛湯を作って飲んでいたという程度。
 大体、こういうのが好きだ。和菓子党なのだろう。
 ワラビ餅、白玉、ぜんざい、饅頭。
 倶楽部宴会の後には大抵三条大橋ちかくの、和風喫茶店へくりだす。最近は、7月にTA慰労会でいった。眼前で、隊長さんの一人が中国茶を手品のようにして入れるのを見、感動した。しかし、あそこは和なのに、なぜ中国茶? と今疑問に思った。

 吉野葛はとても好きだ。京都には老舗の鍵善良房もあるから。最近もちょっと寄ってみた。くずきり。これは都に住む快感である。葛切りのような単純素朴なものは、よほど所を選ばないと、気落ちする。
 吉野葛といえば、谷崎潤一郎。
 私は『吉野葛』をMu現代古典に入れるつもりだ。だから、この話はその時にしよう。

 で、ショウガ葛湯。
 お湯で溶くと、ねっとりして不思議な感覚だ。これを、授業の合間や終了時に口にする。至福である。
 写真のものは、甘さも控えめで、口当たりがよい。
 また捜して買っておこう。

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2004年10月13日 (水)

葛野の風情:2004/10/13

 今日の葛野の風情です。
 愛宕山は、これからも時々撮していきます。
 自然は、朝な夕な、四季折々、姿が変わりますね。
 MuBlogの読者には、卒業生もおりますので、ご覧になって往時を思い出してくだされば、うれしいです。

愛宕山20041013
秋の愛宕山
噴水
風に舞う噴水
屯所
葛野図書倶楽部2001屯所

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2004年10月11日 (月)

森博嗣『φは壊れたね』

 森博嗣が新しいシリーズをだした。
 シリーズ名は講談社ノベルズにも明確にはないし、噂話も耳にしていないので、取りあえず「ギリシャ文字」「記号」シリーズにしておくとする。短く「Gシリーズ」がよかろうか。
 というのも、この図書はφ(ファイ)だが、次作予告は「θ(シータ)は遊んでくれたよ」になっていた。

 仮称Gシリーズの第一巻『φは壊れたね』(講談社ノベルス)は、φに騙され、犯人に騙された。これでもいくつか森博嗣や他のミステリを読んできたので、それほどひっかかる事はなかったはずなのだが。一気に読了後、「どうしても、騙されやすい私」という自覚が深まるばかりだった。
 何故騙されたのか。
 私は途中、てっきり別の人物を事件の犯人と、誤認した。
 そして、まだ騙されているのかも知れない、という不安。
 作家とは本当に、物騙る人なのだろう。

 ここでどのように騙されたかを記すのは、大逆的破廉恥行為なのでやめておくにしても、それにしても最初からめどを付け、第4章冒頭では確信的に騙されました、と書くくらいは作者も講談社もゆるしてくれるだろうか。(許さぬ!、と空耳)
 似た事例では、S&Mシリーズ第二巻『冷たい密室と博士たち』でも遭遇していた。などと書けば書くほど、ファンやコアなマニア以外は「何の、寝言を」と思うだろうし、普通の純正ファンならよってたかって「許さぬ、二度とblogに書くな」と、いわれそうであるな。

 だからもう、犯人がどうの、あれがこうの、そんな些事・小事はよしましょう(笑)。

 そこで。
 森博嗣作品では、最近とみに「哀しみ」を味わうようになった。『四季』がそうであった。私は詩がわからないので彼の詩集は買っていないが、森は詩人なのだろう。そして、ずっと哀しみがあった。何故か。よく分からない。彼が書くと哀しみになるというのは、それが読者にとって正しい解釈鑑賞なのか、それとも私に固有な感想なのか、よくわからない。

 今回はどんな哀しみだったか。
 時代の変遷。特に学年が毎年変わっていく大学の哀しみかもしれない。
 かつて幼いほどだった西之園萌絵(にしのその・もえ)は、しっかりした大人の女性として立ち現れてきた。犀川先生は背景に見え隠れし、新たな世代交代、犀川(さいかわ)に近しい頭脳を持った大学生が現れる。そして、巻末を叙述する人は、まるで歴史家のような筆致で、しかも簡明に味わい深くエピローグを飾る。
 一時代を画した萌絵が博士課程2年生というのは、それだけで時の遷移があったのだ。
 そして、それに代わる様々な登場人物の萌芽が見え隠れする。萌絵を越える女性がこの世にあってはならない。そういう気持の中でも、少なくとも、この巻でのかつての萌絵は、もう少女ではなくなっていた。落ち着いたふるまいの、しかしなお女優さんだろうかと未知の学生達がさわぐほどの華やかさを持っている。いや、ますます美しくなっている。

 だが、森博嗣が女性美を描く専門家なら、私は読者にならなかった。きっぱりと。
 ある、登場の一場面がとてもよかった。
 萌絵は自分の後輩が事件に関与する情報をつかみ、懇意にしている刑事に電話をかける。

 「今、どこにいるんですか?」
 「ええ、はい、ちょっとその、現場でして、残念ながら立て込んでいるんですよ、はい。数時間前に発生したものでしてね」
 「密室だったりしません?」
 「はあ?」
 「いえ、そうかなって、ちょっと思ったもんですから」
 「思うもんですか、そういうことって」

 私は、萌絵の「今、どこにいるんですか?」というセリフでぞわぞわと予感がして、最後に、萌絵を女王視する刑事が「思うもんですか、そういうことって」と決めたとき、心になんともいえな春風(いまは秋ですが)が吹くのを知った。もう、このセリフひとつで、ノベルス820円の値打ちはあった、とうなずいた。

 この作品は森博嗣の渾身の力投とは思わない。それがよい。
 肩の力を抜いて、それでも一気に書き上げた、流れるようなミステリと、味わった。卑近に言うなら、ビーフステーキではないが、好きな京つけものでさらさらと味わうお茶漬けの味であろうか。一息で書いた、一筆書き。
 ただし、線刻で終わりはしない。
 精緻なワイヤー・フレームが、最後に表面を綺麗に彩られ、滋味あって落ち着いた結末を持つ。

 好きな章をあげるとするなら、エピローグがそうだ。
 シリーズの主人公になるかも知れない人が、大学研究室の日常の中でぽつぽつと事件を思い返す数ページがとてもよかった。

 2005年初頭の次作も、また買って読んでしまおう。
 新しいシリーズを、しずかな部屋でふむふむとうなずきながら読む、至福也。

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2004年10月10日 (日)

2004/10/10-2(日)新撰組と言葉

 新撰組、最後の将軍がとても不気味で、きょうてぇなあ~。
 天子さまも、疱瘡か毒殺か。古来、俗説では岩倉卿の関与せしかと、少年時耳にした。
 しかし、十五代さんは、天子のしんきんを悩ませたてまつりましたような。いかぬな、一橋。
 
 慶喜さんは、鳥羽伏見戦でしたか、味方を残したまま、船で江戸へ逃げるわで、賢い人だったようだが、新撰組の視点からは、絶悪なお上だったようで。
 あの時代の小説を読んでみても、大抵よくは書かれて居らぬ。慶喜だけは許せぬと、言い切った御方も幾人もあったとか。他方、会津中将は、神主さんにおなりになって、新撰組顕彰にも秘かな尽力あったとか、耳にした。

 しかし、今回慶喜卿、あの不気味さを醸し出す俳優さん、すごいですよ。あの配役で、まあ、一安心。変に善人のように描かれると、近藤さん斬首のおりに、怒りのやり場もなくなる。

 沖田と藤堂が語り合った。
 近藤派、伊東派にそでをわかつ時期。斉藤一はきっちりと高台寺党(スパイとか)にはいるらしい。それにしても、御陵衛士とは伊東参謀も智慧がまわる。絵に描いたような、策士策にはまるの前夜であったな。

 沖田は、伊東と共にする藤堂が、言葉によってしか安心できぬ未熟者、となじる。
 つまり、藤堂ヘイスケを、近藤からであれ伊東からであれ、言葉をかけてもらえないと真意もつかめぬ男と、言ったわけである。
 これは難しい。

 古来、以心伝心というのは、ほとんど、絵に描いた餅であって、約定なくして他人同士は動けるものではない。だからこそ、やまのような誓詞と、その反故とが歴史のゴミ箱にうずもれておる。
 古代であっても、神との、幽契ということすらある。

 言葉を尽くさなかったのは、武士の世界では不用意に話し、記せば、詰め腹切らされる懼れあったればこそ、沈黙は金。なれど、本当は、呉越同舟が世の常人の常、主従であれ恋人であれ、言葉なくしては何も伝わらぬ。
 近藤と沖田に言葉が少なくても良いのは、圧倒的にそばにいる時間が長く、身振り手振り顔付きで、充分に伝わっただけ。

 まれな言葉や励ましで、ころりと騙される事例が多いのは、無意識に、そのあたりの操作を上手にする者もおるからであろう。

 終極。新撰組は武装集団。正確な命令方針の授受なくしては成立しない。
 よって、沖田総司の藤堂ヘイスケへのなじり言葉は、沖田自身の苛立ちであったろう。
 そう考えてみれば、今夜の沖田君、うまく表現できている。という、アイロニー。

 おお、今夜は優香が知らぬ間に没した。合掌。

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あめにかかる橋

 Mu現代古典、保田與重郎「日本の橋」をあげておく。

 「日本の橋」は保田の作品の中でもポピュラーなエッセイである。
 私の若い時代、つまり昭和40年代にもいくつか入手できた。古書で『改版 日本の橋』を入手したのが昭和40数年だったが、それ以前に筑摩書房の文学全集で読んでいた。
 つまり戦後、あれほど禁忌の対象、タブー扱いされていた保田だったが、「日本の橋」だけは残してもよい、と大方の文学・思想・出版関係者が思ってのことだろう。
 こういうことを想像すると、人とは自らの判断を避け、曖昧な雰囲気、世相の流れに乗っかる波乗り人が、多い事よと長嘆息する。もちろん、どんな場合にも政治判断が優先するのだろうから、保田がそういう「生け贄」扱いされたことは、いまとなっては、至高の名誉だったのかもしれない。

1.神の神庫(ほくら)も樹梯(はしだて)のままに
 保田が垂仁紀から引いた石上神宮の神庫(この場合武器庫か)にかかわる伝説で「はしだて」という言葉が、私の中で長く残った。
 この場合、イニシキ命の妹が、兄から神庫管理を頼まれて、高床式の「高い神庫を守るのは女の私にはむりです」と答えたのに対し、兄は「では、天神庫(あめのほくら)に梯子を架けましょう」と諭した話である。
 天橋立とは日本海の、美しい日本三景の一つである。だからハシダテという言葉は幼児から知っていた。天橋立の見える旅館で、伯父かだれかに、食卓の箸と橋の橋との発音がおかしいと笑われた記憶があった。いまでも、どっちがどうなのか分からないが。
「日本の橋」を読むと、橋も箸も梯子も、すべて同一の思いが込められていたようで、私が発音を区別できないのは、原日本人として真っ当であったと、ひとりごちた。

「橋も箸も梯も、すべてはしであるが、二つのものを結びつけるはしを平面の上のゆききとし、又同時に上下のゆききとすることはさして妥協の説ではない」
 食物の箸も、食物と人とを結びつけるはしであった。

 私は、梯子が橋であったと、古代の高床式の倉というよりも、神社を想像して、思ったことである。今となっては、出雲大社の巨大な階段も、橋であったことは明瞭である。
 だから、映画「陰陽師2」のラストで、天上に続く長い階段の果てに鳥居がある場面をみて、膝をたたいた。「このイメージ、実によろし」と。

2.橋づくし
 日本のありとあらゆる橋が、保田の口から流れ出てくるような、文章だった。
 私はそれらを読んでいて、大抵は、雨が降り雨宿りもできない橋上を想像していた。
   一条戻橋
   宇治橋
   勢多橋
   錦帯橋
   眼鏡橋
   渡月橋
   木曾桟橋(かけはし)
   日吉大社本宮橋
   ・・・
 数え切れない日本の橋。よくこの十倍以上の橋橋を古典の中に、そして自らの旅行記のなかに、見いだしたものよ、と往時も今も痛感した。

 保田はローマに代表される西欧の橋は、神殿から直接延び出たものととらえていた。さらに強くいうと、征服の道としての橋、となる。そこで保田はとどまらない。痛快なほどの発想の転換がある。

「まことに羅馬人は、むしろ築造橋の延長としての道をもっていた。彼らは荒野の中に道を作った人々であったが、日本の旅人は山野の道を歩いた。道を自然の中のものとした。そして道の終りに橋を作った。はしは道の終りでもあった。しかしその終りははるかな彼方へつながる意味であった。」

 ローマはさておき、此岸(しがん)から彼岸へ架かる、別の新たな「道」をハシと考えてよかろうか。もちろんのこと、此岸と彼岸を遮る川は舟で渡る。しかし舟は明確に舟橋であり、舟とは橋であったと考えられよう。

3.名古屋熱田の精進川裁断橋青銅擬宝珠銘
 その銘は、保田與重郎を語るに、さまざまな人が言及してきた。私は引用された銘文だけをあげておく。

「天正十八年二月十八日に、小田原への御陣、堀尾金助と申、十八になりたる子を立たせてより、又二目とも見ざる哀しさのあまりに、いまこの橋を架ける成、母の身には落涙ともなり、即身成仏し給へ、逸岩世俊(戒名:いつかんせいしゅん)と、後の世の又のちまで、此の書付を見る人は、念仏申し給へや、三十三年の供養也」(Mu注記:保田引用をさらに読みやすく漢字交じりに変えた)

 「日本の橋」終わりに、保田は日本の古き女達の情感をうたいあげた。母とは、三十三年たった息子の死になお涙を流す生命体なのであろう。そして、哀れにつつまれた木の橋を立てた。彼岸への橋だったのだろうか。

4.断章
 日本の橋の文体は、若いころの「保田與重郎」そのものだった。
 めくるめく心地するその流れ、詩情、詩とも散文ともつかぬと祖父に言われたらしい、かつて日本語になかった文体、そのものだった。
 随所にそれがあった。
 折々に古典が、和歌が織り込まれ、地の文にとけこみ重層をかさね、全体が水銀のように形を作りながら、それでも一方向へ流れていく。
 私は、西欧と日本の違いよりも、まさに保田のその文体に青年の一時期をたゆたっていた。
 一般に、AはBである、BはCである、よってAはCであると、世界は語られる。
 しかし、保田は、古き日本について、そして現代日本について、BはBにとどまらず、Bの1から∞までの感性と論理を持つ。よって、AはB1であり、と次にB∞はCであると続き、閃光のようにAはよってCとなる。
 これは論理の飛躍とは思わない。保田は論理学を語ったのではない。
 神慮を語ったといえば、余計に躓く者が多くなる。
 やはり。彼の往時の文体は、詩であったというのが正しかろう。
 
 私が保田を最初に読んだ『現代畸人傳』は戦後のものであり、幼童にも納得できる明瞭さがあった。

続きを読む "あめにかかる橋"

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2004/10/10(日):お笑いコメント稼業

 せんだって、風雪梅安一家が都へみえた。
 そこで。
 JOさんと、blogの将来を語った。
 一つは永代供養の話だったが、これは協議中なので記すのを控える。

 もう一つは、JOさんと話ながら思いついたことだ。
 しかし話題には出さなかった。
 JOさんや梅翁が楽しげに語っていたので、提案する必要もないと思ってのことだった。

 ことはこうだ。
 最近、浪人している者がおり、
 私が「JOさん、あの親爺、どうすりゃよいのかね。ことごとく、誘いを断っていると聞くが」と問いかけていた。
 その男。
 周囲の誘いを、じらして値をつりあげるようなケチな男では決してない。
 そういうことからは極北の地にいた実力者だからこそ、あまた真摯な誘いもかかる。
 私でも、妖しい起業をもしなすならば、彼をそばにおいておきたい。
 そこにおって、昼寝しているだけで価値のある男が、この世には確かにおる。

 ワープロも満足にうてない、エクセルも知らない、blogなんてぇ、であったとしても。
 論理不鮮明、酒が燃料で、ひたすら終日笑顔の酩酊状態であっても、
 この世に値打ちのある男が、確かにおる。

 本人はつぶやくように、「仕事を、したくないのです」と、まるで漱石「それから」の代助さんじみてくる。

 JOさん、こまりはてて、それでも小声で(Mu注:なぜここで小声かは、説明が難しい)、
 「僕の友達で、会社の顧問をしている者がおってな、Muさん」
 「ふむふむ」
 「そいつが、たとえば、顧問料を5万円いただいておるとする」
 「安いね」
 「ところが、Muどん、彼が縁あって20社の顧問をしていると、どうなる」
 「おお、月に100万円の収入か。月に一度昼寝しにいくだけの非常勤顧問で」
 「でしょう」

 ここまできて、私は内心はたと膝を叩いた。
 そうか。
 案内広告はこうなるな。

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2004年10月 8日 (金)

おおぎりえき:大桐駅跡

大桐駅跡(福井県南条郡今庄町大桐)マピオンBB地図

大桐駅跡
 地図がないまま50数年過ぎたことを思い出した。驚くべき長期間、私は父の祖地「福井県南条郡今庄町大桐」を話に聞くだけで、この日本のどこにあるのか、確認することを怠ってきた。
 5歳前後に一度だけ訪れ、この駅頭に立ち、父の縁戚にあたる老婆に手を振った記憶があった。
 それだけだった。
 1998年9月に母が他界した。その前に一度、母も元気だった頃、初めてこの地に訪れたといってよい。
 しかしその折りも、北陸自動車道をただ走り、今庄駅前で兄の迎えを受け、地図を一瞥することもなく、聞光寺へ連れて行かれただけだった。
 2004年9月18日、母七回忌、父三十三回忌、ご先祖百回忌の法事で、初めて一人で寺まで行った。地図を見て愕然とした。深い深い山中と思っていたのに、五キロも西へ行けば日本海、敦賀湾のすぐそばだった。
大桐駅の由来
 大桐の昔話と言えば、この地で蒸気機関車が複雑な操作を経て、初めて峠を上り下りするという話だった。
 それは、こんな由来をみてほぼ正確な事情がつかめた。それを知るまでに、これほどの時間を要したことに気がついて、ため息をついていた。

大桐駅の経歴
 明治41年3月1日、北陸線の難所といわれ、山中トンネルを頂点とした、25/1000 の勾配を有し、列車運転の緩和とスイッチバックの拠点として大桐信号所が開設された。
 その後地元の要望に応え同年6月1日、停車場に昇格し、旅客、貨物の取扱営業を開始した。
 当時、旅客7本、貨物6本、計13往復の列車が運行された。
 昭和37年6月9日、北陸本線複線電化の近代化により、新線開業と共に廃止となる。
 その間54年の永きに渡り、生活物資の輸送等、住民のシンボルとして大きな役割を果たした。
   大桐駅

 スイッチバックとはどんなことなのだろう、おぼろに想像はつくのだが。いつか、こういう事をよく知っている専門家に尋ねてみる。

大桐駅停車場
 本道から少しはいるとコンクリートの停車場跡があった。コンクリートは長持ちするのだろうか。草むした停車場の前は車の少ない道だった。立て看板がなければ私は大桐駅跡を生涯しらないままに過ごしたかもしれない。コンクリートの側壁さえ、支道に入って初めて気がついた。
大桐駅前景
 停車場のすぐそばに家が一軒あった。新しい家だ。表札を見ようと思ったが、なんとなく不審者に思われる気がして、止めた。そしてバス停留場もあったが、おそらく日に数本だと思った。

 山、山、山。滅多に車の走らない道。
 国鉄が消えた村。

 我が父・堅三は、ここで育った。
 そして、関東大震災の折、東京市で書生をしていたと、父から直接聞いた。
 そこの臨月の奥さんを戸板に載せて他の書生と震災を逃げまどった。
 父は当時、岩倉鉄道学校というところの学生だったようだ。

 私の小さな記憶には、父の青年時のことは、これくらいしか残っていない。
 父は、私が26の冬に他界した。69歳。
 こうして、回想にひたると、いまも「父よ」とつぶやくことがある。

参考サイト  岩倉鉄道学校(岩倉高等学校)

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2004年10月 5日 (火)

2004/10/05(火):日々の味わい

 雨だ。
 秋は通例、私の人生では最良の季節だ。春に生まれたが、秋こそ多くの転機を生んだ季節だった。
 Mu流に申せば、わがCPU稼働率は常時80%を越える。これが95%を越えると、残念ながら病臥する(笑)。
 ちなみに、普通は60%程度で優秀状態と自覚している。
 授業演習時が70%である。私は、三度の飯より授業が好きなようだ。
 研究室で調査研究時が丁度50%くらい。
 これが会議になると、3%になり、それはようするに、生命体を維持している程度であろうか。

1.招待あり
 晩秋、奇跡というか夢のような招待を受けている。これは生涯の記念となろう。
 いつかは、私が友人・知人を招いて、その人たちが「生涯の記念」となるような、日を作りたいと思いもするが、今は、人の作ってくれた機会を充分に味わいたい。

2.チンギスハンの霊廟発見
 今朝、朝刊では、日本とモンゴルの合同調査団(加藤晋平・元國學院大教授)は、10月4日、ウランバートルから東250キロ「アウラガ遺跡」を調査中、同地をチンギスハン霊廟址と断定した。墓は探索しないようだ。

3.文学全集の整理
 葛野図書倶楽部2001による、文学全集の目次整理が今夏完了した。現代は名作と言っても絶版がおおく、読めないことに愕然とする。経理局長2003の発案で、昨年倶楽部は日本文学と世界文学全集を古書店で求め購入した。
 今夏、二番隊長2004が同全集の目次を整理しネットに掲載した。文庫本で求められないものも多数あるので重宝する。
  現代日本文学大系
  集英社・世界の文学

4.共同レポートの整理・閲覧
 昨年、三番隊長2003がこれまでの学生達の秀作、労作をリストしてくれた。今年も三番隊2004メンバーで継続しているようだ。
 学生の作品とは言っても、20を越えた大学生が五名前後、三ヶ月間髪振り乱してまとめたものだから、まず市販品では入手できないような「名作」が数々ある。
 あらゆるテーマがあって、見飽きない。
   共同レポートリスト
 今後は改良として、レポート参加者の全員の学科と「姓」を掲載することや、手軽な検索機能の増強を願っている。

 日々、ふと忘れていたことを、今朝は記した。
 こうしてみると、なかなかに、私のしらないところで、3や4のように、いろいろなことが着々と進んでいるようだ。「知らない」とは変な言い方だが、日々我が身のことに振り回されていると(授業、研究、会議、もろもろ)、自分が以前相談して依頼したことさえ消えてしまい、それが自動的に完成し眼前に顕れると、驚愕するという気恥ずかしさ。
 まことに、若い人たちは、頼りになる。
 振り返ってみても、心底、頼りになるのは若い者。そういう事例は、まだまだいっぱいあるのだが、今朝はこれくらい。

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2004年10月 3日 (日)

木曾殿最期

 Mu現代古典、今回は保田與重郎「木曾冠者」(きそ・かんじゃ(かじゃ))をあげておく。
 とつおいつ再読しながら、今朝末尾にいたって、どうしても、こらえても、ついには落涙せざるを得なかった。

1.平家物語で閉じた「木曾冠者」
 最初に読んだときの印象が再び、甦った。
 つまり、最後の二頁(原本所載では、三頁)が保田本文に続く形で、平家物語の木曾殿最期がそのまま転載されていたのである。
 私は、当時それが保田の文章であると誤認した。大げさに思うかも知れないが、20前の青年時、それは確かに保田の記した文章に思えた。そして内奥で「ああ」と叫び、肩をおとし、巻を閉じた。そしてそれが平家物語そのままの引用だったことに、数刻後気付いたわけである。

2.『改版 日本の橋』
 初読は『改版 日本の橋』東京堂刊(昭和14年10月22日、再版発行)だった。木曾冠者は四つの文章の最後に位置していた。つまり、木曾殿最期の部分が『改版 日本の橋』全体の最終頁にあたる。
 この古書は、棟方志功の装丁、紐掛折板で覆われ、私の宝物となっている。いずれ記載する。

3.架け橋としての木曾義仲
 深い痛みがあった。
 保田は義仲と義経を比べ、義仲を高く評価し、頼朝の冷酷さをるるあげ、それでも頼朝が歴史に組み込まれたその役割を詳述している。頼朝は当時の人たちに頼られ、歴史の転換期に天が下した人だったと結論している。
 また、頼朝と義経のことで、保田は、義経の逃げる先々が頼朝の新しい幕府の根本を突き崩すもので、そこを絵に描いたように逃げる義経、そのルートをつぶしていく頼朝。最後は奥州藤原であった。頼朝が歴史を切り開くために、義経の逃亡があったという。こういう考えには、蒙をひらかれた。頼朝とは、その武運そのものが、天から与えられた人物だったと保田は言う。
 その頼朝が義仲追討の指示を出した。

 木曾義仲は平氏を都から駆逐した。源氏第一等の武勲である。
 しかし、五十日たった今、都落ちが待っていた。

「去年信濃を出でしには、五万余騎と聞こえしが、今日四宮(しのみや)河原を過ぐるには、主従七騎になりにけり。まして中有(ちゅうう)の旅の空、思ひやられてあわれなり」

 義仲は架け橋だった。架け橋は中有であり、また時代が渡り終えたとき、重みに耐えかねておちる必然。時代と時代の狭間に立って、一剣鋭く切り開く人であった。そうして、矢つき、刀折れ、ただ一騎残った幼なじみの今井四郎兼平にこぼす。「日ごろは何とも思わぬ薄金(うすがね)が、などやらんかく重く覚るなり」。

 ここに、保田は明示はしないが、彼が描いた倭建命にイメージが見事に合致する。命は遠征に出るたびに勝利し、復命するやいなや、また父景行天皇に新たな戦いを命じられる。「父は、私に死ねと言っているのでしょうか」と、おば倭姫命の前に伏し、嘆く。

4.粟津の松原

木曾殿は唯一騎、粟津の松原へ駈け給ふ。比は正月二十一日、入相(いりあひ)許りの事なるに、薄氷は張つたりけり。深田ありとも知らずして馬を颯と打入れたれば、馬の首も見えざりけり。あふれどもあふれども、打てども打てども動(はたら)かず。

かかりしかども、今井が行方の覚束なさに、振仰(ふりあふ)のき給ふ所を、相模の国の住人、三浦の石田の次郎為久……石田が郎党二人落合ひて、既に御首をば賜りけり。

……

今井の四郎は軍しけるが、これを聞いて、今は誰をかばはんとて軍をばすべき。これ見給へ東国の殿ばら、日本一の剛の者の自害する手本よとて、太刀の鋒(きつさき)を口に含み、馬より倒(さかさま)に飛落、貫(つらぬ)かつてぞ失せにける」(平家物語)

5.断章
 義仲はみめ麗しい好男子だった。青年期末まで木曾で育ち武人の生活を営み、都にでてから政治闘争、策略、謀略奸計、後白河院、公卿、頼朝、義経、都人すべてが敵になり足をすくわれ、31歳ほどで、主従二騎となり、大津で郎党に討ち取られた。
 保田は義仲を素戔嗚尊(すさのおのみこと)系であると記していた。「優秀な璞玉(あらたま)」と表現している。都ぶり、洗練された立ち居振る舞いを彼に求めるのは酷ともいえるし、愚かしい。
 保田の言うところでは、玉葉の作者九条兼実(かねざね)は当時の超インテリだったが、義仲を日記に、唯一同情を込めて書いていたらしい。義仲を褒めた摂関一流がいたことを知って「すてたもんでもない」と、私は今朝もうなずいた。

 彼を好いた女性が幾人もいたらしい。
 保田は、義経が女性の愛を逆手にとる、その俗説に従い好色と断じ、義仲の女性関係を佳しとした。義仲には、身をもって武をもって彼を守る美女がいた。巴御前である。
 巴御前の描写はぬきんでて美しくたくましい。彼女は敵陣を撃って開いて落ちのびたというが、消息は不明らしい。そういう女性がそばにいたとは、男子の本懐である。
 近頃の読書では、水滸伝にも一丈青(いちじょうせい)・コサンジョウという女性がいて、巴御前と重ね合わせていた。
 なお、大津の義仲寺には、義仲と芭蕉とが祭ってあり、そして保田與重郎も眠っている。この一貫性は、教科書にも、世間教養にも現れない、日本の隠れた文明の証だと、私は思っている。

 義仲寺地図。義仲寺は後日掲載予定。

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2004年10月 1日 (金)

2004/10/01(金):木幡の朝

 すがすがしい。
 午前四時頃に起きたのだが、眼がさめるといつになく気持が和んでいた。
 例年夏は、書き物とか、仕事の夏期宿題の締切が九月末にあって、晩夏は息を詰めて精勤に振る舞う。それが心身に負担になる。ところが今年は、さすがに智慧がまわって20日すぎには多くの責務をはたしたので、身軽なまま九月末をすごせた。
 そのせいもあって、月初めの今朝はことのほか快適なのだろう。

 ここ数日来、Mu現代古典を考えている。どれをそれに挙げるかではなく、一つの評論をぽつぽつ読んでいる。Mu現代古典の、私がさだめたルールは再読することが前提なので時間がかかる。
 時間がかかるという表現はよろしくない。自分で古典と名付けたくらいの作品は、一行一行に含蓄があって、読み飛ばせる物ではない。まして平家物語をあつかった評論で、今になっても難渋な箇所は多々ある。

 世の中の激しい動きとは別の流れが確かにあった。その世界が静的に沈んでいるわけではない。化石でもない。無常迅速という言葉がぴたりとあてはまる「動」を味わっている。
 昨夜も数頁読んで、眠っていた。

 そのせいで、今朝はいつになく、すがすがしい。
 身体を水湯で清めるだけでなく、心も、脳も、清める工夫が必要で、自ら定めた古典を読むのは、気持の清め、心の掃除になるのだと思った。

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