2004/10/10-2(日)新撰組と言葉
新撰組、最後の将軍がとても不気味で、きょうてぇなあ~。
天子さまも、疱瘡か毒殺か。古来、俗説では岩倉卿の関与せしかと、少年時耳にした。
しかし、十五代さんは、天子のしんきんを悩ませたてまつりましたような。いかぬな、一橋。
慶喜さんは、鳥羽伏見戦でしたか、味方を残したまま、船で江戸へ逃げるわで、賢い人だったようだが、新撰組の視点からは、絶悪なお上だったようで。
あの時代の小説を読んでみても、大抵よくは書かれて居らぬ。慶喜だけは許せぬと、言い切った御方も幾人もあったとか。他方、会津中将は、神主さんにおなりになって、新撰組顕彰にも秘かな尽力あったとか、耳にした。
しかし、今回慶喜卿、あの不気味さを醸し出す俳優さん、すごいですよ。あの配役で、まあ、一安心。変に善人のように描かれると、近藤さん斬首のおりに、怒りのやり場もなくなる。
沖田と藤堂が語り合った。
近藤派、伊東派にそでをわかつ時期。斉藤一はきっちりと高台寺党(スパイとか)にはいるらしい。それにしても、御陵衛士とは伊東参謀も智慧がまわる。絵に描いたような、策士策にはまるの前夜であったな。
沖田は、伊東と共にする藤堂が、言葉によってしか安心できぬ未熟者、となじる。
つまり、藤堂ヘイスケを、近藤からであれ伊東からであれ、言葉をかけてもらえないと真意もつかめぬ男と、言ったわけである。
これは難しい。
古来、以心伝心というのは、ほとんど、絵に描いた餅であって、約定なくして他人同士は動けるものではない。だからこそ、やまのような誓詞と、その反故とが歴史のゴミ箱にうずもれておる。
古代であっても、神との、幽契ということすらある。
言葉を尽くさなかったのは、武士の世界では不用意に話し、記せば、詰め腹切らされる懼れあったればこそ、沈黙は金。なれど、本当は、呉越同舟が世の常人の常、主従であれ恋人であれ、言葉なくしては何も伝わらぬ。
近藤と沖田に言葉が少なくても良いのは、圧倒的にそばにいる時間が長く、身振り手振り顔付きで、充分に伝わっただけ。
まれな言葉や励ましで、ころりと騙される事例が多いのは、無意識に、そのあたりの操作を上手にする者もおるからであろう。
終極。新撰組は武装集団。正確な命令方針の授受なくしては成立しない。
よって、沖田総司の藤堂ヘイスケへのなじり言葉は、沖田自身の苛立ちであったろう。
そう考えてみれば、今夜の沖田君、うまく表現できている。という、アイロニー。
おお、今夜は優香が知らぬ間に没した。合掌。
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コメント
日本人には言葉は特別に重要視されて来たようですね。
言霊と呼ばれ、言葉には霊魂が存在すると考えられて来たんではないでしょうか。
大事な歴史は”語り部”が受け継いで、口伝でしたね。文字を持たない時代に於いては、なお更でしょうね。
つい最近迄、某広告代理店さんでは人と人の言葉による契約を大事にしたようです。銀行でも書面よりも電話で相手が確認できる人と人の関係で大金を動かして来ました。
言葉は大事ですね。
投稿: jo | 2004年10月11日 (月) 19時47分
JOさん
言葉を使えるのは人だけです。
けれど、言葉には虚言も混じる。
自らを正当化するためや、保身の為の言葉は、言霊を汚します。
やむにやまれぬ言挙(ことあげ)はよろし。
しかし、謙譲をなくしたディベートはよろしくない。
言葉をもてあそぶのは、限定された遊技としてのみ許される。
それをへて、正しい「言葉」を、述べることが大切です。
もっとも正しい言葉の使い方は、事実、事態の列挙陳述だと思います。
弁明は、よろしくない。
言葉は、正確に、使わねばならないと思います。
言葉なくして、人と人との関係は成り立ちません。
よって、武士の沈黙は、破棄しています。
沈黙は弁明であり、遁辞に等しいです。
腹を切ったくらいで、すべてが解決するなど、武士道のいびつな所であります。
歌残し、戦い、戦いの行動に言葉を記すのが、正しい人の命の使い方でありましょう。
投稿: Mu | 2004年10月11日 (月) 20時48分
先生、
私は竜馬の詠んだ
「世の人はわれをなにともいわばいへ わがなすことはわれのみぞしる」
という歌がすきです。あの時代革命は「血」が流れるもので、戦に勝たなければ時代は変わらないというのが常識でした。でも竜馬は「薩長同盟」など画策して無駄に人が「血」を流すことが無いようにと奔走していました。「腹を切る」ことが武士道の時代に、生きることの大事さを世間は受け入れてくれません。それでも自分が正しいと思うことを貫こうとした、そういう竜馬の気持ちがこの歌によく現れているようで大好きなんです。
投稿: 羊 | 2004年10月11日 (月) 21時16分
羊さん
どうにも、気軽に身をかわせるコメントではないようですね。
私は。
死は死であり、いかなる形容、修飾も無にする絶対的なことだと思ってきました。
感情を滑り込ませる余地もないです。
切腹も、斬首も、自害も、病死も、事故死も、同じです。
私は。
「言葉」を盾にして、生き抜きたいと思います。
つまり、「生」は死に至る寸前まで、大切にしたいと思います。
そして、「生」はよりよくしたいです。
よりよい「生」は言葉でしか、私には確立できません。
だから、MuBlogに言葉を書きとどめたいです。
もし、言葉を亡くして死に往く者があれば、その生を言祝ぎたいです。
竜馬は、知る限り、死に美や意味を見いださない人です。
私もそうありたいです。
この世の「生」にこそ、美や意味を見いだしたいです。
重ねて申します。
言葉を失って死んでしまった人を、その死を顕彰するのではなく、その「生」を正しく記述したいと、思うのです。
投稿: Mu | 2004年10月12日 (火) 02時23分