賜死皇子大津
Mu現代古典の最初にあげたのは小品である。保田與重郎の「大津皇子の像」、これを選んだ。
「秋の日の暗い午後、といってももう懐中電灯の光が部屋の中ではあかあかと見えるくらいな、夕ぐれ近い時刻であった。」
この冒頭が二十ころの私に、鮮烈に、すみついてしまった。博物館を若い保田が懐中電灯で照らしながらゆらゆらと歩く様が浮かんでいた。「あかあかと」照らすほのぐらい博物館の一角に、その像、小さな「大津皇子像」があった。
「何ゆえに皇子がこのように悲しんでいるか、それは皇子の「賜死」のためでないだろう。「賜死」の主観的な事情の心なすものを私はやはり描いてみる。それは史が語らず皇子の詩歌が語っている心である。」
読み返してみると、日本書紀を原文で引用した箇所も多く、読み飛ばせる物ではない。どうして四十年に垂んとする永い年月、この小品を忘れがたく思ってきたのか。
まずイメージとして。博物館の夕方の情景が常に浮かび、その中に色あせた小さな像がひっそりと立っている。これが焼き付いてしまった。
次に、当時訳もわからずに、賜死(しし)という言葉に気持ちが動いた。
死を賜うとは、なんということを、と思った。しかし、後日知ったのだが、日本書紀その他は、天皇の死と下官の死は漢字を使い分けているし、刑罰も言いようが異なる。最近ではNHK新撰組をみていて、切腹と単なる斬首も意味が異なることにも気がついた。
天武天皇皇子故に、死も上位から賜ったものと、なろうか。死は死である。しかし、保田はその賜死の意味をたやすくは語らない。
さらに読み進み強い衝撃を味わった。
「皇子大津謀反発覚、逮捕皇子、……賜死皇子大津於訳語田(をさだ)舎、時年二十四、妃皇女山辺……」
皇子大津、これはなんという書き方なのだろうと思った。呼び捨てに感じた。「ミコ、オオツ」大津の皇子さまではない、かつて皇子だったオオツよ、そんな風に味わった。二十四歳の若き皇子である。今なら満で23歳になったばかり、それにしても若い。
妃皇女山辺、つまり年若い妻山辺は、髪振り乱し裸足で御殿を出て共に自害した。
大津皇子は優れた皇子だった。撃剣もよくし、体格にすぐれ、そしていまだに詩賦は大津皇子に始まるといわれているくらいの、詩人でもあった。
大津皇子を十代に知っていたわけではない。高校の国語教科でならってはいた。日本史で名前は知っていた。しかし、知識で知ることと、脳内の閃光の中で生身に刻み込むのとは異なる。私は、保田によって大津皇子の生涯、そのたった二十四年間を、博物館のなかをあかあかと照らす懐中電灯の光のなかに、かいま見た思いがした。
「大津皇子の像」は文庫でわずかに20頁の小品である。しかし、大津皇子の残した漢詩、万葉の歌、そして姉の伊勢斎宮大伯皇女(おおくのひめみこ)の残したたった六首の絶唱歌。恋人が同時期に数名はいた妖艶な石川郎女(いしかわのいらつめ)と大津皇子のこと、それらがすべて入っている。保田は大津謀反を朝廷に密告した友人河島皇子と石川郎女との関係までほのめかしている。
二十代の私が味わった「大津皇子像」は、その後も永く、まぶたをとじれば眼裏に浮かぶ。
その墓所は、今も二上山雄岳にある。
百(もも)伝ふ、磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を、
今日のみ見てや雲隠りなむ 大津皇子
現身(うつそみ)の人なる吾や、明日よりは、
二上山(ふたがみやま)を兄弟(いろせ)と吾が見む 大伯皇女
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Mu現代古典
「大津皇子の像/保田與重郎」
二上山
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コメント
悲劇の皇子やね。
高市皇子、草壁皇子、大津皇子の三兄弟。
持統天皇がお母さんやったら、悲劇は起こらなかった訳ですよね。
壬申の乱の小説とか、万葉集とかに触れると、お姉さんの大伯皇女が可愛そうやね~~。二人は、寄り添うように生きていたのでは、ないでしょうか。
高貴な血筋に生まれるのも、悲劇が待ち受けているんやね。
良かったな~~、北河内の海人族の末裔で。
投稿: jo | 2004年9月26日 (日) 20時52分
JOさん
この時代、お母さんがいっぱいおるから、わけがわからんようになる。高市さんは長男だけど、お母さんの家柄問題、大津さんと姉の大伯皇女は、お母さんが早くに亡くなったしね。
持統さんの息子は草壁だけ、違ったかな。
そうそう。黒岩重吾さんに大津皇子があって、長編でしたな。
投稿: Mu | 2004年9月26日 (日) 21時07分
今、思い出せないけど、黒岩さんの長編は一気に読みました。
高市皇子は戦闘においても頑張りました。けど、確かお母さんが尾張かなにか地位が低いね。
大津皇子と大伯皇女はお母さんが持統さんのお姉さんや。だから、危険やったわけね、草壁の皇子にとり。
当時は誰でも、濡れ衣やと知っていたんやろね。
投稿: jo | 2004年9月26日 (日) 21時50分
Joさん、
直前まで、羊さんのコメント返しで土方歳三のことを考えていたから、急に古代に行って、目が回ってきました。
ちょっと、理由はないのだけど、なんとなくJOさんの剣幕に押されて黙っておりましたが、私ね、黒岩さんの古代ロマンものは9割読んでいいるはずなんです。あはは。(一体、いつどこで読んできたのか、不思議)
で、大津や有間皇子を、真性謀反だなんて、だれも思っていなかったんじゃないでしょうか。
持統さんは、天智の娘ですから、複雑怪奇ですね。
大津も幼い頃オジの天智に可愛がられたようです。
・・・
それにしても。大津は持統さんにとって、姉の子供でしょう?
女性は怖いですね。
と言うよりも、自分の兄(天智)の娘をまとめて面倒見た天武さんって、一体なにものなんでしょう。
そこに額田王なんかをプラスすると、もう、ぐちゃぐちゃになって参ります。
壬申の乱も、件の保田先生はしっかりと戦前にかいておられますがね、天武記、持統記は面白いし複雑怪奇です。
御存知ですか? 天武さんは、天智の弟じゃなくて、実は兄だったとか、あるいは、天武さんは騎馬民族のタルドゥという人だったとか。あれ、それは聖徳太子のことか?×△@@@、わけがわからなくなりました。要するに、酔夢ですなぁ。
投稿: Mu | 2004年9月26日 (日) 22時07分
酔夢と言えば:
天智さまも兄弟同士の間柄から生まれておられるので、なかなか天皇にはなれなかったそうですね。
天武さんも異説が色々ありまして、兄弟ではないと言う話もありますね。天智さまとは。
ま~壬申の乱の話になると、夜が明けるさかいに、やめときます。
投稿: jo | 2004年9月26日 (日) 22時25分
JOさん
そうやね。明日は3つも授業があるので、これくらいで。ぐうぐう。
投稿: Mu | 2004年9月26日 (日) 22時35分