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2004年9月28日 (火)

2004/09/28(火):ユリシーズ発見

 今日は一日MuBlogを休んでいた。授業もないので日長休暇をとってまどろんでいた。
 午前三時頃に眼がさめて、五時頃に朝食をとって、また午前中眠っていた。
 昨日の、3つの授業がこたえたようだ。
 いま午後10時頃。

 さて、MuBlogの記事ネタを読もうとしたら、ユリシーズ全3巻が別部屋の書架の奥底から湧いて出た。集英社の1996年版だ。訳者は昔と同じ(これは調べないとわからない)の、丸谷才一、氷川玲二、高松雄一共訳だ。これを再読しようしようと思ってから、もう8年も経ってしまっていた。ついこの間、大枚はたいて買ったばかりとおもっていたのに、いつのまにか所をかえて隠れてしまっていた。

 この一年間、ユリシーズ、あんなもの読む奴はいないはずだから、貸すはずもない、売った記憶もない。どこへ逃げた、と探し回っていたのだが、ついに「Mu現代古典」に合わせるように、ようやく昨日姿を現してきた。不思議。

 しかし。風呂にもはいって、いましげしげと三冊を眺めていたのだが、たとえ翻訳でも、これを一気呵成によむのはおおごとだ、と頭を抱えた。最初読んだのは20歳だったが、それでも記憶には十日間くらい朝から晩まで読みひたり、やっとこさ、スティーブン・ディーダラスの世界から抜け出たという、そんな思い出がある。

 こりゃ、冬休みにしようとおもったが、ハリーポッタの前作も今回作も未読だし、……。
 まあ、いつか再読してわがMu現代古典には必ずいれるつもりだ。
 
 さっき、最後の章「ペネロペイア」をちょっと覗いてみたら、昔のまんま記憶のまんまに「おお、Yes」が連発されていた。ついでに解説をちらと覗くと、YesはNoのニュアンスもあると瞥見できたが、私はこのYesをペネロペイアの幾分セクシーな意味でもなく、また現地ニュアンスでもなく、まったき全肯定、この世、世界、生へのYesと、これまでも、いまでも思っている。

 確かに、桶谷さん(評論家)がどっかで言ったように、ユリシーズは袋小路文学かもしれないが、20歳の時受けた印象は、読了後たしかに「よっしゃ、Yes、僕も生きたい」と思ったのは確かなんだ。だから、私はユリシーズを宝物に思ってきた。初版は、青地に白抜き文字だったと覚えている。白地に青抜き文字かな、とも思ったがどちらでも良かろう。そういうデザインを当時どこかで真似たくらい、入れ込んでいた。
 文学形式の総てがある、と思っていた。いまでもそうかもしれない。
 (そうなんだ、総てがあるから、袋小路なのかもしれないが)

 さて、本当にいつ読もう。
 もう一度読んでおくべきだと思って、また眼前の書棚に収めた。
 ユリシーズ、ULYSSES/James Joyce、おそらく20世紀最大の世界文学。
 のめり込めた青年時代に乾杯。

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2004年9月26日 (日)

2004/09/26:今夜の新撰組始末記

 今夜はのっけから寺田屋のお風呂がでてきて、困りました。
 とてもあっさりと竜馬遭難を描いていましたね。司馬遼太郎さんの竜馬では、あの日竜馬は、足か太ももを怪我して、後日治療に新婚旅行へ行ったような気がします。
 刀傷って時代劇の端役はばったばったと切られますが、実際は少し切られただけで、手足が麻痺したり、化膿したりで大変だったのでしょう。

 竜馬が材木置き場の屋根に潜んで、薩摩屋敷へたどりつくまでの行程がとてもハラハラしたのですが、今夜の新撰組は、あっけなく、ヌッッツオさんの新撰組讃歌にチェンジしてしまいました、とさ。

 寺田屋は番組最後に実写がありましたが、私が8月末に撮したのよりも何十倍も美しく風情がでておりました。
 それにしても、今年の寺田屋付近はいつも人があふれています。
 うろうろしていると写真にとられそうです。
 先年はそうでもなかったようなのですが。

 沖田総司君が凄惨なメークになってきました。
 斎藤一さんが、人斬りの夢魔に寝汗をかいていました。
 
 一冊の翻訳書? フランスかアメリカか英国のかまでは知りませんが、歩兵操典(?)のようなマニュアル本をめぐって裏切りと虚偽と切腹とは、つらい一夜でした。切腹介添えも失敗しました。
 市中見回りなんて、いつも戦争しているようなものだから、殺気だってくるのでしょう。

 なお、司馬遼太郎さんは、たしか近藤局長の広島行きをよくは書いていなかったような気がします。
 気がするがおおいですが、昔読んだ竜馬は行方不明(たぶん、納戸の奥底)、先年は借り物だったので、テキストなしなんです。典拠なしだと、憶測推測だらけで、……、それはそれで、まあよろしかろう。

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賜死皇子大津

 Mu現代古典の最初にあげたのは小品である。保田與重郎の「大津皇子の像」、これを選んだ。

「秋の日の暗い午後、といってももう懐中電灯の光が部屋の中ではあかあかと見えるくらいな、夕ぐれ近い時刻であった。」

 この冒頭が二十ころの私に、鮮烈に、すみついてしまった。博物館を若い保田が懐中電灯で照らしながらゆらゆらと歩く様が浮かんでいた。「あかあかと」照らすほのぐらい博物館の一角に、その像、小さな「大津皇子像」があった。

「何ゆえに皇子がこのように悲しんでいるか、それは皇子の「賜死」のためでないだろう。「賜死」の主観的な事情の心なすものを私はやはり描いてみる。それは史が語らず皇子の詩歌が語っている心である。」

 読み返してみると、日本書紀を原文で引用した箇所も多く、読み飛ばせる物ではない。どうして四十年に垂んとする永い年月、この小品を忘れがたく思ってきたのか。
 まずイメージとして。博物館の夕方の情景が常に浮かび、その中に色あせた小さな像がひっそりと立っている。これが焼き付いてしまった。
 次に、当時訳もわからずに、賜死(しし)という言葉に気持ちが動いた。
 死を賜うとは、なんということを、と思った。しかし、後日知ったのだが、日本書紀その他は、天皇の死と下官の死は漢字を使い分けているし、刑罰も言いようが異なる。最近ではNHK新撰組をみていて、切腹と単なる斬首も意味が異なることにも気がついた。
 天武天皇皇子故に、死も上位から賜ったものと、なろうか。死は死である。しかし、保田はその賜死の意味をたやすくは語らない。

 さらに読み進み強い衝撃を味わった。
 「皇子大津謀反発覚、逮捕皇子、……賜死皇子大津於訳語田(をさだ)舎、時年二十四、妃皇女山辺……」
 皇子大津、これはなんという書き方なのだろうと思った。呼び捨てに感じた。「ミコ、オオツ」大津の皇子さまではない、かつて皇子だったオオツよ、そんな風に味わった。二十四歳の若き皇子である。今なら満で23歳になったばかり、それにしても若い。
 妃皇女山辺、つまり年若い妻山辺は、髪振り乱し裸足で御殿を出て共に自害した。

 大津皇子は優れた皇子だった。撃剣もよくし、体格にすぐれ、そしていまだに詩賦は大津皇子に始まるといわれているくらいの、詩人でもあった。

 大津皇子を十代に知っていたわけではない。高校の国語教科でならってはいた。日本史で名前は知っていた。しかし、知識で知ることと、脳内の閃光の中で生身に刻み込むのとは異なる。私は、保田によって大津皇子の生涯、そのたった二十四年間を、博物館のなかをあかあかと照らす懐中電灯の光のなかに、かいま見た思いがした。

 「大津皇子の像」は文庫でわずかに20頁の小品である。しかし、大津皇子の残した漢詩、万葉の歌、そして姉の伊勢斎宮大伯皇女(おおくのひめみこ)の残したたった六首の絶唱歌。恋人が同時期に数名はいた妖艶な石川郎女(いしかわのいらつめ)と大津皇子のこと、それらがすべて入っている。保田は大津謀反を朝廷に密告した友人河島皇子と石川郎女との関係までほのめかしている。

 二十代の私が味わった「大津皇子像」は、その後も永く、まぶたをとじれば眼裏に浮かぶ。
 その墓所は、今も二上山雄岳にある。

 百(もも)伝ふ、磐余(いわれ)の池に鳴く鴨を、
   今日のみ見てや雲隠りなむ  大津皇子
 現身(うつそみ)の人なる吾や、明日よりは、
   二上山(ふたがみやま)を兄弟(いろせ)と吾が見む  大伯皇女

関連記事・サイト
  Mu現代古典
  「大津皇子の像/保田與重郎
  二上山

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Mu現代古典のこと

 この九月十八日に「計画」という記事を掲載した。その日の朝から父の祖地、福井県今庄町大桐へ車で出かけて、帰宅した夜半だった。(日付が17は18日の間違いである)
 法事だった。父三十三回忌、母七回忌、そして明治時代のご先祖さま二名の百回忌。
 私の実家は、蓮如さんの盛んな越前門徒だった。
 寺の雰囲気や、身近な法話を聞いていて、生は有限だと実感した。
 
 メメントモリという言葉があった。たしか、死を見つめるとか忘れないとかいう意味のはずだ。

 そこで。
 人生のまとめ、整理整頓、掃除をしたくなった。
 その筆頭にあがったのが、読書だった。
 読むよりも、工作したり、コンピュータにさわったり、会議にでる時間の方が多かった半生だが、それでも思い返すと私の二十代は、読書が太陽や月や巨大惑星のように輝いていた時代だった。

 もちろん、二十代ばかりではない。それから現在までも、折に触れて年に数冊は影響力の強い本に巡り会ってきた。私は書痴ではない。いわゆる活字中毒でもない。キーボードにふれだしたのが二十半ばからだったから、コンピュータの方がよほど時間も精力も費やしてきた。
 それでも。忘れがたい本がある。
 それは、私の古典になってしまっている。

 名付けて、Mu現代古典とした。
 すこしづつ、私の中でまとめておきたい。

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日本・文学・保田與重郎:保田與重郎文芸論集/保田與重郎

保田與重郎文芸論集/保田與重郎[著] ; 川村二郎編
  (講談社文芸文庫)

  東京 : 講談社、1999.1
   254p ; 16cm
  ISBN: 4061976494
内容著作注記:日本の橋 / 誰ヶ袖屏風 / 大津皇子の像 / 斎宮の琴の歌 / 更級日記 / 木曾冠者 / 近世の唯美主義 / 近代文芸の誕生
注記:年譜・著書目録(谷崎昭男作成): p243~254
別タイトル:保田与重郎文芸論集
著者標目:保田, 與重郎(1910-1981) 〔ヤスダ、ヨジュウロウ〕 ; 川村、二郎(1941-) 〔カワムラ、ジロウ〕
分類:NDC8:910.4、NDC9:910.4
件名:BSH:日本文学(L)
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2004年9月25日 (土)

『天人五衰』の分析終了

 今日、2004年9月25(土)の午後に、三島由紀夫『豊饒の海』最終巻、「天人五衰」を分析終了し、4年間かけた研究も一区切りがついた。
 さすがに、学内編集者に添付ファイルを送信したあと、ぐったりした。

 『豊饒の海』について、語ることは今後も終生ある。
 これで終わりとは毫も思っていない。
 しかし、三島由紀夫の実生活や、事件性についてはできるだけ論評をさけたい。
 そういうことを解明するために、私は生まれて、生きてきたわけではないと、はっきり決めている。

 『豊饒の海』全四巻は私の青春の物語であり、かつ、生涯の物語となってしまった。
 だから、その世界の中を、行きつ戻りつ、迷路に迷いながら、それでも芳醇な物語のエッセンスを十分に享受して、生きるよすがにしていきたい。

 さて。
 第四巻『天人五衰』、最終章、第30章。
 24歳の秋に読み終えた時と、一切の違いはない。
 奈良、帯解の月修寺(円照寺がモデルとかいう)、また行かねばならない。

 雑誌を読んだのは正確には、昭和45年末だったと思う。雑誌「新潮」の新年号じゃなかったろうか。いや、翌46年の正月、二月号だったのだろうか。
 ともかく、三島由紀夫が脱稿した最終章を読み終えて、呆然とした24歳の私がいた。
 物語は、ひとりの凡たる人間に、生涯刻印をおしてしまった。

 いま、『豊饒の海』を語り終えて一服一休みする愉悦は、なにものにもかえがたい。
 生きていてよかった、とそれが今の心境である。
 さあ、長生きしよう。

追伸
 ところで。
 三島由紀夫文学館はいつ行けるのだろうか。
 ついにギリシャの地をふまず、生涯ギリシャ、そして多島海を歌ったヘルダーリンのように、宇治川河畔の「塔」に籠もる予感もするが、それも生かもしれない。

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2004年9月24日 (金)

情報図書館学・電子図書館:研究情報ネットワーク論/長尾真、原田勝[他著]

研究情報ネットワーク論/長尾真、原田勝、石川徹也、谷口敏夫、久保正敏、澤田芳郎
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研究情報ネットワーク論/長尾真、原田勝他
  東京 : 勁草書房、1994.3
   xii、186p ; 22cm
  ISBN:4326000112

注記: 付: 参考文献
著者標目:長尾, 真(1936-) 〔ナガオ、マコト〕
分類: NDC8:007.5、NDC8:007.3、NDC7:014.9、NDLC:UL31
件名: BSH:情報管理(L)、BSH:研究管理(L)、NDLSH:情報サービス(K)、NDLSH:データ伝送(K)、NDLSH:通信網(K)

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2004年9月23日 (木)

2004/09/23(木):姦臣と佞臣

 朝から小難しいことを考えているようないないような。
 暇人なのだろうか。しかし今日は旗日、秋分の日。

 水滸伝:虚構のなかの史実/宮崎市定、中公文庫 み/22/10、1993

 この「第5章 姦臣蔡京」はおもしろい章だが、それは、かくまで恥も外聞もなく「悪」だった宰相がいたという事実に抱腹絶倒、人間の深さや怖さを充分に味わった、そんな蔡京(さいけい)に出くわしたからだった。北宋を滅ぼしたのは、姦臣・蔡京と、宮崎先生は明言してらっしゃる。蔡京はあの時代に八十まで生きたというのだから、それだけで化け物じみてくる。

 もちろん北方水滸伝(現在読了は十巻まで)での蔡京は、まだそこまでには至っていない。北宋CIA青蓮寺の長官袁明(えんめい)でさえも時々は心から従わざるをえない「優れた」一面を持つ宰相として描かれている。

 さて。蔡京は、姦臣(かんしん)ではあるが、佞臣(ねいしん)ではないと宮崎先生は記す。
 姦臣蔡京、佞臣王フ[フなる漢字がでてこない。中国関係はむつかしい]とペアで出てくる。
 この、蔡京と王フは30歳程度の開きがあり、前者は硬派、後者は軟派だったらしい。
 史上まれにみる文化人にして超軟派天子徽宗(きそう)の愛人側近、新進の王フは、次のようだったらしい(笑)。

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2004年9月22日 (水)

2004年9月22(水):眠り男

 今朝も午前4時過ぎに自然起床。昨夜はいつ暗転したかも覚えていない。
 読書の秋もふっとぶほどの、早寝の秋のようだ。
 21日からだから、たった一日で夏期体勢がかわり、通常の早寝早起き体勢にもどってしまったことになる。
 おどろくほどの変化である。
 
 悩みは、いつ読書して、いつMuBlog整備して、いつ仕事するのかである。
 これは、すべて夢の中でするしかないようである。

 昼間? これは常時白昼夢状態なので、役にたたないMuしかいない。

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2004年9月21日 (火)

2004年9月21(火)晴:秋の朝長

 今朝はめずらしく午前5時前に起床した。そのかわり、昨夜20日はMuBlog掲載も、読書も、責務も、なにもせぬまに眠ったようだ。おそらく21時過ぎには暗転していた。

 疲れというよりも、それは確かに休日だというのに葛野に12時間滞在し一週間分の仕事をしたから疲れたのかも知れないが、夏期からの心地よい緊張緩和という気がした。

 夜は眠る体質のようだ。秋の夜長を楽しむことはできないが、秋の朝長をじっくりかみしめよう。
 とはいうものの、急な変化なので、朝長をどうたのしむのか、まだよく分からない。

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2004年9月19日 (日)

2004年9月19(日)晴:会津中将や水滸伝

 今夜の新撰組は、会津中将(松平容保:まつだいら・かたもり)のセリフがよかった。
 めぐる因果というか、三百年の後に、島津と毛利が徳川に仇をなす、という内容だった。
 関ヶ原の戦いで、島津は九死に一生を得て故国に生還し、幕末まできた。
 毛利は中国地方の膨大な領国を削られ、周防(すおう)と長門(ながと)の二国を残され、幕末まできた。
 薩長同盟が、徳川三百年の雌伏を覆す契機となった。

 水滸伝:虚構のなかの史実/宮崎市定、中公文庫 み/22/10、1993
 これをちかごろぽつぽつ一章づつ読んでいる。
 碩学宮崎先生は膨大な中国、東洋史の業績を残しておられるが、この著書の前書きを読むと、隠れ読む水滸伝の内容が、本当のことだったかどうかを知りたいために、中国宋代の研究に入られたようだ。
 三つ子の魂百話であるな。

 今夜は第四章「宦官童貫」である。童貫は現代の北方(きたかた)水滸伝では、小柄で宦官出身故に声も高く見栄えはよくないが、計り知れない存在感があるように描かれていた。威圧感。禁軍(近衛軍)を維持しているのは童貫と、そこここに記してあった。
 さて、宮崎先生の研究では、歴史上の「童貫」はどうなのだろう。

 

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2004年9月18日 (土)

2004年9月17(土):計画

 さきほど目がさめた。
 眠っている間に、いくつかの計画がわいてきた。

 計画を検証する時間もないが、限られた生なのだから、ある程度は効率よく余生を組み立てておきたい。

(1)読書
 気がかりな図書は再読、再々読して、決着とまでは言わずとも、現状の決算はしておきたい。
 次々と読むことへの「読書依存」をさけて、これまで抱え込んできた蔵書の意味を自分でわかっておきたい。
(2)システムと研究
 なぜ、プログラミング言語に依存してきたのか。その事情を確認し、目的をとらえなおし、再出発したい。
(3)物語
 物、騙る、そのことの本然を再確認しておきたい。

 以上のことで、今秋は常になく、生を味わいたい。

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2004年9月17日 (金)

六万アクセス

 夕方五時過ぎに6万アクセスを越えました。
 今日が17日ですから、先回8月21日の五万アクセスにくらべて少し早めの結果でした。
 普通は、大体一ヶ月で1万アクセスあるようです。
 今回の事情は分かりませんが、青少年の夏期宿題とか、そして涼しくなったので読書の秋にふさわしく、外部アクセスが増えたのかも知れません。
  2004年09月17日(金)
  累計アクセス数: 60013
  1日あたりの平均: 326.16

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2004年9月16日 (木)

北方謙三『水滸伝』十「濁流の章」

 ここで第二部が終了のようだ。葛野屯所にある書棚には、ここまでの十冊が美装箱に入っている。
 屯所には13巻まであり、現在14巻が店頭にでているようだ。
 予定では、一旦この十で北方水滸伝をしばらくお休みにする。15巻がでて葛野に入った時点で、その5冊分第三部を一気に読もう。
 切れ切れに読むのは性に合わないから、そういう方法を採る。いったんその世界に入ると、馬蹄の響き、鹿肉の刺身、スープの匂い、男装麗人の高い雄叫び(?)、宋の時代の梁山泊が私のまわりに現出し、私はタイムマシンにのって、心身ともに飛んでいってしまう。

(1)若き官軍将軍、呼延灼(こえんしゃく)
 三十代の双鞭(そうべん)といわれる将軍。両の手に鞭をもち、自在にあやつる。
 宋国には伝説の将軍が建国時に二名いた。かれらが東奔西走したことで、建国できた。その呼将軍の子孫である。もう一人は、青蓮寺に暗殺された楊志(ようし)、もと官軍将軍、梁山泊に入り無敵だった男の曾祖父楊将軍である。
 結果的に、呼延灼は梁山泊に入った。
 入るまでの経緯ががこの章のすべてだ。
 呼延灼は一万の地方軍を率い、八千の梁山泊軍と対峙し、一度目は完膚無きまでに撃破した。梁山泊の一方の代表晁蓋(ちょうがい)は武松(ぶしょう)ら数名に守られ死地をぬけたが、ぎりぎりの生還だった。梁山泊上級将校も十名は死亡した。兵の損失二千名。完敗だった。呼延灼の果敢さと、戦術に、梁山泊はじめての大敗北だった。
 それだけ勝利した呼延灼がなぜ、梁山泊に入ったのか。そこが、この章のみどころであろう。

(2)連環馬(れんかんば)と鉤鎌鎗法(こうれんそうほう)
 呼延灼がとった乾坤一擲(けんこんいってき:ここぞというところ)の作戦は、最初に八十発の大砲。
 そして、二度は使えぬ「連環馬」だった。三十頭の装甲した馬を鎖でつなぎ、それを30数組で合計一千頭の馬甲軍、一気に攻め込む。巨大なけものが襲ってくる、その圧力に梁山泊は敗走した。なすすべがなかった。
 しかし。それに対応する策を、もと官軍槍騎兵師範があみ出した。
 鉤鎌鎗法(こうれんそうほう)であった。
 委細は読書のこと(笑)
 このややこしい漢字を見つめていると、その方法論がくっきりとイメージできる。

(3)夢
 よくわかるセリフだったが、しかし、何度も反芻せざるをえぬ身につまされる会話があった。
 最初が、梁山泊総帥晁蓋、次が若き将校史進のものである。

「そして、夢がいつも美しかった」
「いまは?」
「夢に過ぎなかったものが、近づいてきた。すると、どうしようもなく、重たくなってきた。こんなはずではなかったと、しばしば考えるぞ」
「それはいい。確かに、こんなはずではなかったのです。私も、王進先生のもとにいた時は、すべてが美しく見えていましたよ。幻を見ているだけだ、と先生はおっしゃいましたが」
「やはり、そんなはずではなかった、ということだな」
「人が生きることについては、すべてそれが当て嵌まるるのではありませんか?」
「そんな気もするな」

 最近ずっと日曜の夜に新撰組を見ているが、こういう会話をみると、新撰組の若者達も、梁山泊の若者達も、胸に迫るところがある。

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2004年9月14日 (火)

北方謙三『水滸伝』九「嵐翠の章」

 この章の帯情報を最初に記す。

「梁山泊の糧(かて)、闇塩の道。万難期して絶たざるべからず。
 豹子頭林冲(ひょうしとう・りんちゅう)、ひとり戦陣を放棄し、処断する宋江(そうこう)、馬謖(ばしょく)を斬る孔明の如し」

(1)林冲(りんちゅう)の処断
 これは難しいところである。まず林冲は絵に描いたような罠にはまり、絶命寸前にいたる。
 罠は青蓮寺の李富(りふ)によって周到に用意され、無敵の英傑林冲であるからこそ、嵌らざるをえぬ仕掛けであった。李富は、林冲が愛を伝えなかった「女」が自殺した前後を一番知っていた男だった。林冲が愛人の死を見たわけではない。
 その李富が鬼になって(愛人の二重スパイ馬桂(ばけい)は何者かに惨殺された)仕掛けたのだから、「心」の動きを知り尽くしたものである。林冲だからこそ嵌る。他の者なら罠に近づきもしない。

 その林冲の処断は三国志を思い出させる。
 北方三国志にあって、馬謖の件は私にとって斬新だった。これまでずっと、馬謖は秀才だが鼻持ちならぬ孔明の部下としか思っていなかった。しかし北方三国志では、馬謖がどれほど孔明の指導にしたがい努力し力をつけ、武人として孔明の後を継げるほどの知将に成長するにいたったか、その経緯が切々と描かれていた。
 しかし、馬謖は、軍紀違反、独断専行に走りついには蜀軍を敗走させる結果をもたらした。馬謖の致命的な判断ミスだった。孔明が泣いて馬謖を斬った意味は痛切にわかる。北方の新しい馬謖造形だった。

 林冲は「女」で戦線を離脱した。

 しかし、その「女」あればこそ林冲が希代の英傑に成長し、無敵の騎馬隊指揮官になったその経緯を宋江は熟知している。
 林冲は肺に矢をうけ、絶命して当然だった。天才医師安道全(あんどうぜん)は、乗れぬ馬に蒼白になってしがみつき、夜を徹して走り、治療する。
 九死に一生を得た。
 しかし、梁山泊にもどれば、軍法が待っていた。

 馬謖と林冲との違いは、表層的には一つ。梁山泊軍は林冲の離脱に気がつかぬ者がいるほど、機能し自律していた。無敵のゆえんである。負けなかった。
 
 しかし、軍律の厳しさは、どこの国でも時代でも、激しい。こういう場合、敵前逃亡、脱走は、歴史的には死罪が一般的である。新撰組ではなにがあってもまず「切腹」だった。
 宋江はどうしたか。
 むつかしい問題だった。

(2)流花寨(りゅうかさい)新たな砦
 北方の塩の闇道が青蓮寺の動きで瀕死の状況になった。そこがこの九章ではよく描かれている。
 しかし壊滅したわけではない。
 梁山泊はそれとは別の問題に直面した。すなわち、梁山泊は、北に双頭山、東に二竜山という連携する砦を持っていたが、南に目を転じれば、東京開封府(とうけい・かいほうふ:宋国首都)との間には、遮るものがない。
 ここに、流花寨を設けることが急務となった。

 このあたりの詳細細部の記述が、一般「戦記もの」とは異なる印象がある。
 地勢からはじまり、どうやって資材を運び、どのように構築し、どう守るのか。
 非常に創造的な箇所であった。

(*)いろいろな視点
 北方水滸伝は、戦争だけではない、個人の異能を余すところなく記す。それは武人にとどまらず、医者、薬師、鍛冶、皮革、文官、スパイ、外交、料理、盗賊、政治家、「女と男」、「友情」、「部下上司」、「金勘定」・・・総合的に人と世界を描く。
 そういうところに、くめどもつきぬ、醍醐味がある。

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2004年9月13日 (月)

2004年9月13(月):秋の夜長

 秋の夜長を感じられる季節になってきた。
 なんということもないが、過去多くの年月、秋は充実してきた。
 もちろんそうでない年もある。

 今秋は読書にはげもう。
 目処ははっきりついているわけではない。

 この年齢になっても、宇宙のことや、人類のことや、そして真理について考えたくなる。
 読書で、そういう世界の一端を味わえれば、今年の秋は万歳だ。
 しばらくしたら、図書館や書店をあるいてみよう。

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2004年9月12日 (日)

北方謙三『水滸伝』八「青龍の章」

 梁山泊は、いま三つの拠点をもつ。梁山泊、北の双頭山、西の二竜山{二竜山、清風山、桃花山}。
 兵力は総数一万五千にすぎない。
 この三つの拠点は丁度三角形をつくり、その領域を梁山泊は国と考えていた。
 ところが青蓮寺(宋のCIA)は、丁度その真ん中に「荘軍」を設定した。
 祝家荘(しゅくかそう)である。
 いつの間にか、村人全員を一万数千の軍に入れ替えてしまったわけである。人口が変わらぬから、物資の流れなどからは、梁山泊の目を欺いてこれたわけである。
 第八巻は、この攻防戦である。
 

梁山泊、全軍を挙げて、二十度、祝家荘を打ち、解珍(かいちん)と李応(りおう)、獅子身中に在り。(帯情報)

(1)203高地
 私は、梁山泊の二十度近くの猛攻に反撃する青蓮寺(宋国)の様子をつぶさに描いたこの巻に、乃木将軍の203高地陥落を思い出していた。乃木さんが梁山泊軍師呉用で、ステッセルが若き(20代末、30前後)白面の聞煥章(ぶんかんしょう:禁軍参謀)である。
 乃木さんのことは、漱石の「こころ」(すなわち明治の精神)以来気になっていたが、司馬遼太郎さんの「坂の上の雲」に緻密に描かれていたので、昨日のことのように思える。

 聞煥章はありとあらゆる罠をめぐらす。梁山泊は総力戦だから、この戦いが膠着すると、留守にした本拠の梁山泊を押しつぶされてしまう。すでに、地方軍を併せると十万の宋軍が取り囲んでいる。祝家荘を落とさない限り、のど元に刃を突きつけられているようなものである。

(2)猟師、山の生活
 解珍と解宝(かいほう)の親子猟師が光っている。解珍は25年前、祝家荘と同程度の力をもった解荘の保正(庄屋さん)だったが、祝家荘の奸計に足をすくわれ山に隠った。今は、祝家荘保正に這い蹲って猪や熊の肉を売る立場に落ちぶれている。しかし、心はねじ曲がってはいなかった。
 この猟師親子の山の生活が生き生きと描かれている。秘伝のタレをつかって猪の生肉を食べる描写など、あとあとまでイメージがくっきりと残る。

 彼らは、近在の李家荘の李応とはかり、祝家荘で内応し、聞煥章を窮地に追い込む。
 祝家荘から無理な盟約を押しつけられた李応は最初から青蓮寺にマークされ、王和(青蓮寺軍事隊長)が始終見張っていた。立ち上がる時は、あわや王和に暗殺されかけたが、虎を素手で殺した武松に救われる。

(3)林冲(りんちゅう)
 梁山泊軍の度重なる綱渡りのような戦いで、いつも勝利に導いたのは、林冲の騎馬隊だった。
 青蓮寺李富や袁明、聞煥章はそれを分析し終わっていた。
 愛人馬桂を梁山泊に惨殺されたと思った李富は狂気の目で、暗殺の謀略を次々と紡ぎ出す。次は林冲が標的となった。

 茫洋とした宋江が戦いにおいても、謀略戦においても、人の生死をどれほど澄み切った目でみつめているのかがよく分かる章だった。すでに林冲は戦線を放棄し、みすみす青蓮寺の罠にむかった。その生死を、宋江は部下の軍師呉用に対して言う。

  呉用「豹子頭(ひょうしとう)林冲(りんちゅう)、絶対に死なせたくない男なのです、宋江殿」
  宋江「人の生死に、余計な思い入れを紛れ込ませるな、呉用。~(略)」

 コンテクストなしでは理解しがたい引用をしてしまったが、万軍を蹴散らす英傑である林冲は、そこに至る深く辛い過去を背負っていた。宋江はそれらを含めて林冲の生死を見つめる。おそらく、第九巻では、たとえ生還しても、悲劇が待っているのだろう。予兆。

 

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2004年9月11日 (土)

北方謙三『水滸伝』七「烈火の章」

(1)異能の男、陶宗旺(とうそうおう)
 南で死地を逃れた宋江達は、梁山泊には入らず北へ行く。
 既に通信が遮断され、どことも連絡がつかなくなっていることに、武松(ぶしょう)は気が付く。相変わらず宋江は無頓着なまま、のんびり旅をする。一行五人。
 ついに窮地に追い込まれた。
 五人は山中の洞窟にこもり、眼下を眺める。
 宋江を滅するために一万六千の軍が山を幾重にも取り囲んでいた。
 直近の山寨まで約700キロ。援軍が来るはずもなかった。
 粘った。10日以上、五人は粘った。
 怒濤のように兵が山を登り始めた。

 男を一人、旅先で拾っていた。陶宗旺(とうそうおう:百姓、石組みの天才)。
 彼の仕掛けが、数千の兵をつぎつぎと谷底に落としていった。
 林冲の騎馬隊が駆けつけたとき、間一髪だった。

 北方『水滸伝』は、騎馬隊の描写、機動性、破壊力、調練の様子がとてもリアルだ。北方さんの馬は、以前北畠顕家(あきいえ)の騎馬親衛隊も、三国志の場合も、「お家芸」というほどに、神域に達している。馬蹄の響きが、土埃りが、いななきが、斬撃の音が、目に耳に全身に躍り込んでくる。

 その後、幾人かの優秀な将校を失い、宋江は梁山泊に入る。

(2)青蓮寺の動き
 二つある。
 宋帝国は、すでに徐々に梁山泊を内乱と観だしてきた。たんに賊徒の暴動ではない。国と国との戦争である自覚がでていた。
 聞煥章(ぶんかんしょう:禁軍参謀)は、李富と協力し新たな罠を設ける。荘軍。すなわち、荘、村全体の住民を兵と入れ替えることである。人口の変化、物資の動きを秘匿でき、梁山泊の目を覆い、間近に兵を進める計略である。
 もう一つは、馬桂の動きである。楊志暗殺の手引者が彼女だったことは、まだ梁山泊に知られていない。次は、梁山泊軍師暗殺の命が馬桂に出された。軍師呉用(ごよう)は、三国志諸葛亮孔明に近い存在である。
 さて、どうなる。で、第七章終了、また明日(笑)。

(*)北方『水滸伝』を、
 「革命の書」という雰囲気がインターネット上に散見する。私は、現代の唯物史観、階級闘争、そういうレベルでの革命という言葉に興味はない。それはハッタリであり、幻想に過ぎないと30歳前後に決めた。マルクスなどが生まれる二千年以上も前に、革命という言葉はあった。

 北方『水滸伝』は、言葉のオリジナルな意味での「革命」を表していると思う。
 わたしは、むしろ、建国、建軍の戦略という観点で毎日楽しんでいる。
 もっとわかりやすくいうと、そう、建国も、建軍も、建人も、
 つねに、
 「挽歌」ぬきでは、かたりえない。

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2004年9月10日 (金)

北方謙三『水滸伝』六「風塵の章」

 大体、三時間で一冊を読める。
 途中で止められない。
 しかし夜は眠りが訪れる。朦朧としてくる。
 二夜で一章分読んでいる。
 
 すでに、登場人物表には90名ほどの人物が登録されていた。ほとんど、名と役職をみればイメージが再現される。これほどの書き分けがなぜ可能なのか、不思議でならない。


荒ぶる将、湖寨に来たれ。

梁山泊は異国なり。
摘むべし。
大宋国の新たなる胎動。

霹靂火・秦明(へきれきか・しんめい)、叫びて三寨を揺がし、武松(ぶしょう)と李逵(りき)、ふたたび、虎口に入る。(第六章帯情報)


 この章では、聞煥章(ぶんかんしょう:禁軍参謀)が登場する。ある日、とつぜん李富(りふ:青蓮寺幹部)の前に現れる。宰相蔡京(さいけい)と青蓮寺総帥(ケネディ時代のCIA長官のような)袁明(えんめい)の推挙らしい。李富より十は若い。
 この北方水滸伝の解釈の優れたところは、これまで「塩の道」を経済の源泉としてとらえ、梁山泊がそれを闇の塩として押さえたところにある。現実感が明確になる。いま、背景が不明なまま、しかし皇帝に拝謁したことで絶大な権威を持った若き禁軍の参謀が現れる。軍と諜報機関を一手にする勢いを持つ設定である。
 その男、聞煥章(ぶんかんしょう)は、通信に目を付ける。あの広大な中国の通信を途絶させることにより、旅先の宋江と梁山泊の連絡を絶ち、梁山泊を中心とする各山寨との連絡を遮断する。
 通信の遮断。すばらしい考えである。
 北方『水滸伝』は、現代に生きる。と、思った。

追伸
 通信について、池波正太郎さんは、「つなぎ」と「かご」を江戸市中に設定した。じつに、そのつなぎをまめに描写している。携帯電話も、電話も電報も新幹線もタクシーもない時代、人は、軍は、いかに相互の連携をとりえたか。このリアリティは、北方さんも、池波さんも、本当に丹念に描いている。

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北方謙三『水滸伝』五「玄武の章」

 巻末に至ったとき、気づいたのだが、この章で第一部終了となっていた。

 旅の途上宋江が、江州、長江の中洲の砦で軍に囲まれる。この緊張のなかで宋江のひととなりがますます明瞭になってくる。人心は彼の茫洋さ、落ち着きをみ、かえって奮起する。
 
 寨外、北の遼の国、女真族に単独行していた魯智深(ろちしん:大男の坊主)は手を鎖でつながれていた。救援一名、手首を切って脱走した。

 楊志(ようし:梁山泊、最強の将軍)が暗殺された。梁山泊の名札が初めて裏返しにされ、楊志は赤い名札となった。
 150名の青蓮寺エージェントに捕捉された。
 息子のなついていた、馬桂(ばけい:今は青蓮寺工作員)の犬が仇になった。

「矢。飛んでくるのが見えた。剣で払っていた。正面の敵。斬り降ろした。背中を、斬られた。ふりむきざま、楊志はその男ののどを斬った。口から、血が噴き出してくる。それを吹き飛ばし、楊志はさらに駈けた。叫んでいる。地が、樹木が、天が。また、口から血が噴き出した。視界が、白くなった。それでも、立っていた。躯は動いていた。
 ふり返る。楊令。済仁美に庇われるようにしながら、顔だけをこちらにむけていた。眼が合った。笑いかけようと思った。笑えたかどうかは、よくわからない。父を見ておけ。その眼に、刻みつけておけ。」

 部下の石秀が駆けつけたとき、数十本の矢をうけた楊志が立ったまま死んでいた。青蓮寺の死骸は百名だった。

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2004年9月 6日 (月)

北方謙三『水滸伝』四「道蛇の章」

 今回、印象に残ったのは、宋江(そうこう)の江州への旅。
 そして、李富(りふ)と馬桂(ばけい)とのからみである。

(1)宋江の旅
 宋江は慣れた役人生活を、ある事件でやめざるをえなかった。それは第三巻の人情話の結果である。
 役人の仮面をかぶって十年、中国全土の志あるものの目を覚まさせることに費やした。
 妾をもったり、多少の賄をうけとることも、仮面の奥を隠すためにはやってきた。
 妾は、早く死んだ信頼した間諜の娘だった。娘の母親は馬桂だった。

 妾と別の女間諜とが、つまらない誤解で殺し合い、そこに弟の宋清がからんでいた。
 宋江は殺人を名目にして、潮時とばかりに町をでた。供は、かつて虎を素手で殺した武松だった。
 宋江は、「替天行道:たいてんぎょうどう:天を替えて道を行く」の旗をたてた梁山泊には、あえて入らず、全国の実情を肌で知るために危険な旅にでた。梁山泊にはすでに盟友晁蓋(ちょうがい)がいて、盤石の備えを整えだしていた。
 先々で宋江は、鬱積した力をもてあましたまま方向を見いだせない男達とであう。彼らもいつか梁山泊に入るのだろうか。

(2)李富と馬桂
 馬桂は、娘が宋江に殺されたと聞き、宋江を恨む。志に女は不要という、こころなき言葉を李富の奸計により信じ込まされたからである。
 馬桂を落とすために、李富は時間をかけて宋江の従者を洗脳し、馬桂に「宋江が娘を無惨に殺したのは真実の話」と信じ込ませる。そして馬桂をかこう。
 と、書けば単に色仕掛けで年増女を自由にする、と単純な図式になってしまうが、そこに北方水滸伝のすごみがある。
 洗脳、宣伝工作謀略レベルのことは、青蓮寺(北宋のCIA)の優秀なエージェントである李富にとって日常のことであった。しかし、真に敵方を崩すには、人一人を完璧に二重スパイに仕上げなければならない。
 そのためには、李富自らも馬桂という女に落ちなければならない。
 馬桂と李富は相思相愛になる。
 そして、馬桂は綿密なプログラムにしたがって、梁山泊の主力、元禁軍将校楊志(ようし)暗殺のために、李富のもとを去る。

 李富の上司、青蓮寺総帥袁明(えんめい)は一部始終をじっと見守る。袁明にとっても部下李富の正念場とわかっていた。

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2004年9月 5日 (日)

2004年09月05(日)曇雨:地震と新撰組西本願寺

 19時07分に地震があった。関西だけかと思ったが、NHK新撰組の終了後TVをちらと眺めたら、静岡まで津波情報がでていた。
 和歌山沖、M6.8程度の海底地震で、静岡から広島?あたりまで津波の注意色になっていたので、日本は狭いと思った。
 そういえばすぐに江戸から電話もあった。

 地震の直後、ドアを開け(逃げられるように)、次にNHKを点けたのだが、数分後に名古屋を含めた関西、福井あたりまでの震度がでていた。専門家はどうおもっているか知らないが、なかなか、こういうシステムは進んでいるようだ。もっとも、停電になると木幡研はおてあげになるが。
 京阪電車も出町柳から淀屋橋まで止まったようだ。今日は珍しく午後町にいたので、早くかえってよかった。

 その瞬間約1分横揺れが続き、ヤバイと思った。相当な長時間に感じられた。図書が数冊書棚から落ちた。
 伏見で、90近い婦人と、伏見深草で男性が、ともに倒れて頭を打ち、病院に入ったとTVは言っていた。
 今夜21時前に、各地で満潮時にかさなるようだが、さて。

 そんななかで、新撰組を見た。
 途中TV画面の上部と右部にワクができて、地震テロップが流れた。その分新撰組は小さな画面になった。初めてのことだった、そんな放映が可能とは知らなかった。

 さて、NHK新撰組だが。記すほどのこともない。いや、否定ではない。いつものように、安心して笑って見終わった。局長の大事なお幸さん、優香という女優のことが数日前、新聞の週刊誌広告に名前があった。なぜでるのかわからないが、結構人気があるのかもしれない。

 壬生の屯所、八木家との別れは、私もじんと胸にこたえた。二年ほどいたのだろうか。関東の蛮地からきた、ほとんど二十代の青年達が起居した壬生村。いつの時代にも、二十代の青春は本人達も、まわりも、なにかしらジンと胸にくる航跡を残すようである。

 私はしらないが、京都も以前は学生達になんとなく甘いというか、あたたかく見ていたような話を耳にする。青春は、たいていみんな天才になる。頭も、体力も、そして心も。大切にしないといけないな、と新撰組を見終わって思った。
 今度のNHK新撰組は、「青春群像」ととらえてよいのだろう。耳慣れた常套句だが、常套句の意味を今夜も十分味わった。

 さて、夜も更けてきた。
 眠りましょう。

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2004年9月 4日 (土)

2004年9月4(土)晴:マバカ古墳

 昨日葛野で働きすぎたのか、今朝はまた起床が午前9時だった。珍しくメルが数通はいっていた。返事を書こうとしたが、空腹になってトーストを焼いたら、忘れてしまった。
 (いま、木幡記を記すだんになって、思い出した次第。文章は難しい)
 (要するに、返答に窮するメルが一通あって、それで他のメルも返事ができなくなった、心理的フリーズ)

 さて、と。

 で、古い新聞が机の下にあったので手に取ってみた。色あせて、黄ばんでいた。2002年の11月19日。奈良県天理市で庄内式土器が大量出土と書いてある。マバカ古墳は3世紀前半の築造、邪馬台国近辺、大勢力、と文字が躍っていた。

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2004年9月 3日 (金)

ヴァンパイア・レスタト/アン・ライス

 アン・ライスの『ヴァンパイア・レスタト』を手に取ったのは偶然だった。
 どこの書店で買ったかも覚えていないのだが、こういうコーナーがあって、類書が平置きしてあった。ついたてがあって、どこかスーパーの上階(といっても、職場近くには数カ所ある)で、知らぬ間に買っていた。
 扶桑社ミステリー、文庫上下。1994年1刷り、2004年20刷りだった、よく売れた本のようだ。

 偶然とはいっても、一つだけ惹きつけるものがあった。装幀ではない。
 「レスタト」という文字だった。実に、耳に心地よかった。

 なにかしら記憶にあるので、今夜読了後、後書きやネットをみて、納得した。

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2004年9月 2日 (木)

美しいサイト:吹きガラス

 最近、金魚のことを記してJOさんから金魚鉢のことを知らせてもらった。
 
 その「吹きガラス/渡辺治子」を昨夜見ていて、これを初めてJOさんに紹介されたとき、ずいぶん印象に残ったのを思い出した。なんどか眺めているうちに、このサイトは私のカテゴリー「美しいサイト」にぴったりだと、気がついたので紹介しておく。
 好きな吹きガラスは金魚鉢(ミニ)だ。手のひらに載る金魚鉢は、とても幻想的だ。これが、ガラス管をふいてできあがったものだと思うと、その色や形が不思議で仕方ない。

 思い出1:小学校の頃、私は化学少年だった。祖母と二人で住むあばら屋に実験室さえ持っていた。アルコールランプでガラス管を熱して、綺麗に曲げるところまでは手技が上達した。しかし、先を溶かして丸くふくらませることはできなかった。ブンゼンバーナー?(ガスバーナー)ほどの火力がなかったからかもしれない。

 思い出2:二十代後半に、ヘルマン・ヘッセのガラス玉演技という小説を読んだ覚えがある。本当にヘッセなのか、タイトルが実際にそうなのか、よく覚えていない。ともかくドイツ文学の翻訳書で、ガラス玉を操る不思議な男の巡遊物語だった。いつか調べて再読したい。

紹介サイト
  吹きガラス:渡辺治子
  江戸吹き硝子

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2004年9月 1日 (水)

北方謙三『水滸伝』三「輪舞の章」

 昨夜、八月末深夜読了。
 この巻には、はじめて梁山泊全図が載っていた。
 湖に浮かぶ島。
 桟橋から上がると、一の木戸があり、そこには「招待所」ができていた。そろそろ入島、退島が厳しくなってきたのだが、訪れた未知のものを即座に追い払うケチな了見ではなく、緩衝地帯を設けたようだ。
 そして二の木戸までの間に櫓があり軍営がある。そして、二の木戸と三の木戸の間には、櫓と軍営の他に、練兵所と収容所、さらに養生所、薬方所まである。後者がしっかりあるところと、そして関係者が安道全(あんどうぜん)、薛永(せつえい)という天才的な医師や薬師であるところに、水滸伝の多様性、面白さがある。
 三の木戸を越えるとやっと中心部になる。
 そんなことが見取り図をみているとはっきり分かって、文章だけでは得られない快感がこみあげてくる。これは館ミステリーで、部屋部屋、図書室や書斎や食堂や大広間などの図面でみているだけで、うっとりしてくるのと同じだろう。
 
 今回の見所は、致死軍の活躍と調練の様子だと思った。
 心優しき、鬼になれない上級幹部は退軍を命じられ、別の任務に就く。命じたのは謎多き公孫勝(こうそんしょう:総指揮官)、鬼になれないと見破られたのは石秀大隊長。わずかに部下を三名死なせただけで、石秀は致死軍を追われた。
 致死軍と、青蓮寺(宋国のCIA)李富(りふ)との目に見えない地下、影の戦はもう始まった。今のところ、圧倒的に致死軍の勝利に終わっているが。しかし、李富が部下に命じて、地方軍750名を一挙に屠る荒技には驚いた。そうすることで、軍の配置をその地方に向けさせようとする宋内部での謀略である。

 悲惨な人情話(宋江:主人公)も、ほのぼのとした人情話(楊志:ようし:元青州軍将校)も、ひとつづつあった。
 しかし、今日は人情話にはふれないでおこう。

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