2004/07/01(木)曇:訃報・原田勝教授
原田勝先生の訃報があった。
急逝である。
謹んで冥福を祈る。
訃報
本学図書館情報メディア研究科教授 原(はら) 田(だ) 勝(まさる)殿(享年五十九才)には、平成十六年六月三十日(水)午前一時二十七分 急逝されました。
ここに、謹んでお知らせいたします。
なお、告別式等は、左記により執り行われます。
記
一、通夜 平成十六年七月三日(土)午後六時~
一、告別式 平成十六年七月四日(日)午前十一時~
一、場所 鉾田セレモニー田口会館「やすらぎ」
〒 311-1517
茨城県鹿島郡鉾田町鉾田104-1
(電話 0291-34-1600)
(交通機関)
鹿島鉄道「鉾田駅」より車で三分又は
鹿島臨海鉄道「新鉾田駅」より車で三分
一、喪主 原田 とみ(母)
平成十六年七月一日
筑波大学図書館情報等支援室総務係
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コメント
原田先生が、京大にいらっしゃった頃、一度だけお会いして、少しお話させていただきました。
柔和な先生だな、という印象を受けました。まだ、こんなにお若くいらっしゃったのに・・・。
謹んで、ご冥福をお祈り申し上げます。
投稿: wd | 2004年7月 2日 (金) 06時08分
御冥福お祈りします。
原田先生とは2~3度、玉井さんとMuせんせの御紹介で勉強会と宴席を同席させていただきました。
温和な方でお酒がお好きで、長尾先生がお帰りになったあと玉井さんと連れ立ち、居酒屋を徘徊されてましたね。
原田先生の居酒屋に玉井さんと二人でこっそり、行きました。
”北帰行” もうお歌、玉井さん弔辞にあるように、お聴きできません。
合掌
jo
お母さんが喪主とは・・・・。
投稿: jo | 2004年7月 2日 (金) 06時28分
原田先生59歳でしたか。
信長は、え~と、49歳でしたね。
開高健は・・・59歳だったと思います。
先生は小林旭の歌しか歌いませんでした。
中でも(北帰行)が十八番でね。
あの歌コチラも好きやから何度もリクエストしました。
甲高い声でね。
59歳か。
もうすぐやね、彦さん、JOさん。
投稿: ふうてん | 2004年7月 2日 (金) 11時08分
MuBlog を媒介にして、霊波で原田先生に皆様の言葉や思いがつたわることと思います。
なお、ふうてんさん、節をまげてのコメントありがとう。機縁です。
原田先生と私は、国立駅前かどこかで、ふうてんさんのフェアレディ2000を待っていました。どちらかが助手席に乗り、どちらかが後ろの補助シートに座りました。
あの日、繁寿司へ行ったような記憶があります。
朧な風景です。
投稿: Mu | 2004年7月 2日 (金) 12時30分
ふうてん親爺殿
あんさんも、もう直ぐやで。
日頃、何時あの世からお呼びが来ても、悔いのないよう身奇麗にしおこうね。
私の、親爺は外に出る時は何時も、下着に気をつけていました。
そして、現金を必ず当時(20年前)10万円は懐に入れていました。
それは、何時娑婆で倒れても、人様に迷惑かけないでいたいというおまじないでした。
私は1万円位しか手持ちはないです、昔の人の方が偉いと思います。
原田先生の朴報は衝撃でした。
投稿: jo | 2004年7月 2日 (金) 18時35分
今朝起きたら最初のニュースが原田先生の訃報でした。まだまだお若いのに、お亡くなりになるなんて。
しばし考えはしましたが、死後の世界を信じない私は、やはり参らないことにしました。遥かに哀悼の意を表するのみです。
投稿: Blessed | 2004年7月 2日 (金) 19時54分
JOさん
たしかに衝撃でした。
けどね。
ようやく元気がわいてきました。
今日葛野で、午後中眠って、起きたらスッキリしました。
原田センセのことで湿っぽくするのは似合わないと、起きたときに感じました。
頭脳明晰。これは掛け値なしでした。
そして飲んべえ。これもすごかった。
で、意外にも、私十年傍にいて、いつも感じたのは、とてつもなく剽軽なセンセだったことです。
私、酒席のたびに原田センセの話に、お腹の皮がよじれていた。笑い転げていた。
物まねとか、ウィットとか、皮肉とか、いやはやものすご面白かったです。
ご飯を召されないのが、ふうてんさんと似ていますね。
原田センセと歌舞伎寿司(百万遍角)へいくと、おつくり、お酒、酢の物、お酒、お酒、お酒。
冷や酒というと怒られました、「Muさん、これはレイシュというのです。あなたは、いつまでたっても、理解が浅いですね」
思い出すと、またわらけてきた。
・・・
投稿: Mu | 2004年7月 2日 (金) 21時14分
Blessedさん
あなたはもしかして、不埒なXさんですか?
そう仮定して話しますよ。
記憶が曖昧ですが。
原田センセのいくつかの研究会のうち、Blessedさんと、現百万遍帝國大學図書館のisoya某さんと、現梅花女子大学のmurakami某さんと、そしてMuは、同門でしたよね。
なんか、ひながロレロレというのかロリロリというのか(酔っ払ったときの原田センセのセリフでしたよね)、プロログを一緒に勉強してたこと、なかったけ。
あのときいつも「Muさん、何十年か後に、またロリロリでもやりながら、若い頃を思い出しましょう」とセンセは言うてはった。
で、Blessedさん、なぜ飯台閥のあなたが、あのとき、百万弁帝國大學に毎週来ていたのか、どう考えても、分からない、思い出せない。
以上、まったく私の記憶違いなら、それこそ、私は黄泉路の原田センセと一緒で、ロレロレ状態なんです。お許し下さい。
投稿: Mu | 2004年7月 2日 (金) 21時27分
何閥でもありませんが、プロログ勉強会にご一緒させていただいていました。Muさんからお誘いを受けたからだと思います。isoya某さんって、今は百万遍帝國大學図書館にいらっしゃるんですか? 存じませんでした。
原田先生の頭脳明晰さには、ほんと、言葉もありませんでした。未だに、他にああいう方にはお目にかかったことがないかもしれません。
年賀状を別にすれば、先生からご勤務先の大学へのお誘いを受けたのが最後の会話になりました。今でも内容を覚えています。関西に仕事を持つ妻がいたのでお受けすることができませんでしたが、そのときのことをセンチメンタルに思い出していました。改めて哀悼の意を表します。
投稿: Blessed | 2004年7月 3日 (土) 22時23分
Blessedさん
原田センセの頭脳明晰さは、そういえば、ときおりBlessedさんにも味わうことがあるね。あなたは酒を一滴ものまないから、酒量の多寡が原因じゃなさそうだ。
脳の動かし方が、原田センセもBlessedさんも、私とは相当に異なるようだ。で、プロログはいま思い返しても、そういう明晰さの上に造られた言語みたいにおもえてきた。あの出生は、フランスでしたかな。
・・・
人の生死とか、生きたこと、死んだことは、記憶と記録にとどめられ、一般に記憶は一代限り、記録は数代につたわる。
それが両方なくなったとき、存在したという証はきれいさっぱり消滅する。
MuBlogに、記憶と記録とを時折書くつもりだが、そのMuBlogも私の終わりによって、あとかたもなく消える。
だけど、存在したら消滅することで、辻褄が合うというか、バランスが取れるんだろうね。
・・・
Blessedさんや、長生きしておくれなさい。
わたしには、20代後半のBlessedさんや、フレームさんの姿がまだイメージとして焼き付いておるで。
投稿: Mu | 2004年7月 4日 (日) 05時23分