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2004年6月11日 (金)

ようげんいん:養源院

養源院(京都市東山区三十三間堂廻り町)マピオンBB地図

養源院高札
 養源院の由緒格式を知っていて訪れたわけではなかったのです。20世紀末のある日の午後、思い立ってカメラを持って京阪電車に乗って、いっとき暗くなって、すぐに京阪七条で地上に上がったのでした。

(京阪電車は、七条駅の前で地下になり、そのまま五条、四条、三条、丸太町、出町柳と終点まで地下鉄です)

 せっかく宇治市に住んで、京都市に職場を持っているのだから、もっと積極的に町中を歩けばよさそうなものですが、休日休暇日になると決まって横臥読書になってしまいます。だから養源院を訪れたこの日は特例だったと申せましょう。
 カメラを持って電車に乗った珍しい日だったのです。
 えてして、そういう時に宝物に出合うわけでして、見知った三十三間堂を何度か往復して足腰を鍛えた後、もう少し歩こうかと外に出て、不意に未知の道を見つけて迷い込んだのです。

養源院
 それまで知らなかった養源院の門をくぐったとたんに、三つ葉葵の御紋が目に入ったのでした。

 その日の驚きはいくつかありましたが、今は二つを思い出しながらあげておきます。

1.ここは、織田信長に滅ぼされた近江の浅井長政の菩提をとむらうためのお寺だった。
 なぜ滋賀県の浅井さんが? と思うわけですが、淵源を尋ねてみれば、長政の娘さんの淀君が豊臣秀吉に頼んで建立した、となっておりました。
 淀君が当時京阪電車沿い淀駅の淀城におられたのかどうかは、調べておりません。雰囲気としては、京阪電車一本で七条まで来られますから、私は勝手に「便利だったのかな」と、思った次第です。
 さて秀吉亡き後、淀君も大阪城落城の露となったわけで、本来なら養源院は大パトロンを失って大変なことになるわけですが。
 ところが、ここに浅井長政にもう一人の(三人おられたようですが)娘さんがおって、なんとこの方は、二代将軍徳川秀忠の奥様だったわけなんです。
 だから、写真のように、徳川マークが鮮やかに今でも残っているのだと、推測しました。

 女性の系図は歴史の表舞台には出にくいのですが、織田信長の妹君が浅井長政と結婚し、娘の一人が秀吉の寵を最大限うけ、一人は徳川家の礎となったのです。つまり、有名な三代将軍家光には、巡りめぐって、織田信長さんと近似のDNAがあるわけです。初めてそれに気付いたときは、呆然としました。

2.もう一つは、伏見城の関係事です。
 今は戦後再建の伏見城も閉じられたままで、近所に住む私は、一体どうなるのだろうかと、不安と期待で一杯のこのごろです。最初は破城方針だったようですが、なんとなく、美術館とか博物館構想が耳に入ってきます。
 されば関ヶ原の合戦時。
 当時の伏見城は現在の明治天皇陵のあたりに天守閣があったようですが、そこを家康麾下鳥居元忠一族が守っておったのです。
 当然ですが、京都市内の豪壮な城ですから、西軍が捨て置くわけがありません。一挙に伏見城は陥落し、鳥居一族は自刃しました。これは、映画小説で観ると、「壮絶」という言葉が直ぐに浮かびます。

 徳川の結束は堅かったのでしょうね。守備した鳥居元忠は、血祭りに上げられることを知った上で、家康に忠誠を誓い、籠城したわけですから。

 その自刃した部屋の板張りを、秀忠夫人が養源院を再建(すでに火災にあっていた)したおりに、天井材に使ったようです。だから血天井という名称が今でも残っておるわけです。
 私、当日それを観ました。
 鳥居元忠の壮絶な死は、以前から知っておりましたので、感慨にふけりました。
 伏見城遺構を再利用した訳や、まして鳥居家ゆかりの書院板間材を使った訳は分かりません。徳川宗家に残った鳥居家が働いたのか、どうか、いつかそんな小説があれば読んでみたいです。

 浄土真宗・養源院。
 京都はいまさらに、ほんとに歴史の街でした。

参考サイト:養源院庭園の整備

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コメント

NHKの大河ドラマで秀忠を尻にひく『おごう』はんですね。
二度の離婚後、六才も年下の秀忠の嫁はんになり、徳川を乗っ取る。家光の件では春日の局と対決しましたね。子供を沢山作り、旦那の浮気を許さず、俳優の西田がうまく演じていました。ドラマの話やけどね。

投稿: jo | 2004年6月11日 (金) 11時15分

JOさん
 いま葛野つきました。
 で、俳優の西田って、混乱するな。西田さんは八代将軍じゃなかったけな。

投稿: Mu | 2004年6月11日 (金) 11時51分

 大河ドラマ「葵三代」では、確かに西田敏行が、秀忠役でしたけどね。「おごう」さんが、岩下志麻で、「俺、嫌いや~~!!」といつも横でうるさく言われてたんで、記憶に残ってます。
 オープニングで「又兵衛桜」が使われていました。
 (テレビドラマのことなら、まかしてください、このwdに!) 

投稿: | 2004年6月11日 (金) 12時24分

え?
秀忠役をしてませんでした? 『おごう、おごう』と訛って喋る雰囲気が印象にあるんですが・・・・。
記憶違いでせうか?

投稿: jo | 2004年6月11日 (金) 12時27分

秀忠は関が原で間に合わなく、家康に怒られるけど、真面目な人やったんでしょうね。二代将軍になれましたからね。
戦国時代の人物像は大河ドラマと演ずる俳優でイメージが焼きついているので、功罪が有りますね。
ところで
近藤勇は物分かりが良過ぎませんか? 写真で見るといかつい顔で土方の親爺みたいやけどね。

投稿: jo | 2004年6月11日 (金) 13時12分

JOさん
WDさん
 いつのまにかNHK。影響力強いですね。
 私は、なぜ、だれが「血天井」のような噂の素を造ったのか不思議です。
 現地で、そう言われてみれば、血痕が?
 うむ。
 もしも血の跡がついたまま天井にしたんなら、これや意図があったんでしょうね。鎮魂?
 嘘か真か。
 夢見て判断します。

投稿: Mu | 2004年6月11日 (金) 15時22分

それは父の恨み、でしょうか?父の恨みは信長、秀吉でしょうね。
あたかも家康に忠義、義を通した人物の最後は重なるのではないでしょうか?とにかく、”おごう”はんは強烈な個性の強い且つ、実力のおありの人物かもしれませんね。
あ~~~恐ろしいな~~~。わし、犬歳で家内はゴウの虎、娘二人は虎と竜。息子と私は犬どす~~~。

投稿: jo | 2004年6月11日 (金) 20時39分

JOさん
 可哀想。
 きくだけで、ふるえてくる。竜虎ですかぁ。
 わたしは、ちなみに、最近「猫歳」です。

投稿: Mu | 2004年6月12日 (土) 06時54分

 伏見桃山城についてですが、
 竹生島にある「都久夫須麻神社」は伏見桃山城の「日暮御殿」を移築したものでしたね?行ったことは無いのですが、天気のいい日はさぞ絶景でしょうね。
 
 そして桃山城周辺は良いウォーキングコースです。近くに公園がありお弁当を持ってピクニックしたりします。木陰にレジャーシートを読書している外国の方を時々見かけます。

投稿: 羊 | 2004年6月12日 (土) 21時43分

伏見桃山城は見合いして、最初に出掛けた場所でした。
木幡から近いからやろか、忘れました。
二回目は山之辺の道でしたね。
大昔の話です~~~。竹生島の御殿の話は何か、そんな話聞きましたね。

投稿: jo | 2004年6月12日 (土) 22時30分

羊さん
「竹生島にある「都久夫須麻神社」は伏見桃山城の「日暮御殿」を移築」これは未見未聞でした。ありがとう。
 伏見の城写真はこの10年間に何枚かとったのでいずれ掲載します。
 なんと、羊さんは、ダンナさんと桃山城あたりへ、ピクニックですかぁ。
 まるで異国の話のようで、照れます(笑)。

投稿: Mu | 2004年6月12日 (土) 23時43分

JOさん、までぇ。
 そうすると、つまり、伏見桃山城界隈は、ひところの海遊館みたいなとこだったんですね。
(海遊館は、お見合いとか初デートのお約束場所と、耳にしております。またぞろ、別れる切れるの、占いでもあるかもね)。

 じゃ、ますます伏見城界隈を掲載しなくっちゃね。
 あ、写真は葛野にある。また、これは来週だね。

投稿: Mu | 2004年6月12日 (土) 23時47分

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