米国・美学・研究:われ、また、アルカディアにありき/エルヴィン・パノフスキー
われ、また、アルカディアにありき;プッサンと哀歌の伝統/E.パノフスキー著、土岐恒二訳
解説抄録[翻訳者、土岐恒二によるものと推定]
「エルヴィン・パノフスキー(1892-1968)はドイツ生まれのアメリカの美術史家。
1933年、ナチにハンブルク大学の教壇を追われてアメリカに渡り、ニューヨーク大学、プリンストン大学、同高等研究所で教鞭をとった。
ルネサンス期のドイツの画家、アルブレヒト・デューラーの研究から出発して、ルネサンス絵画における遠近法の解釈に先鞭をつけ(「象徴的形式としての遠近法」)、1935年、『図像学研究』を出すに及んで、この方面の権威となった。
また美術史方法論についても卓抜な識見をもち、夫人ドラとの共著『パンドラの筺(はこ)』では神秘的象徴の研究にも踏みこんでいる。
以下の論文「われ、また、アルカディアにありき--プッサンと哀歌の伝統」は、はじめエルンスト・カッシラーに捧げる論文集に収められていたものに改稿の手をくわえたもので(後出、注11)、『視覚芸術の意味』Meaning in the Visual Arts に収録されている。」
抜き書き(By Mu 2004/06/08)pp391-392
「しかしながら、ルーヴルの絵に向かうと、鑑賞者はその碑銘を文字どおりの、文法的に正しい意味において容認することに困難を感じる。髑髏が無くなったいま、Et in Arcadia ego という句中のegoは墓そのものを指すと受け取らねばならない。そして、「もの言う墓」というのは当時の挽歌では未聞のことではなかったものの、この奇想はあまり異常だったので、ミケランジェロはそれをひとりの美少年に寄せた五十編の碑文体詩のうちの三編で使ったとき、読者を啓蒙する必要を感じて、ここでは例外的に、「この詩を読む者に語りかけているのは墓である」という趣旨の注釈をつけている。
しかし、そうした言葉は、墓ではなくそこに埋葬されている人物のものとしたほうが遙かに自然であろう。
……中略……
かくてプッサンは、碑銘の字句をまったく変えずに、鑑賞者のほうでegoを墓にではなく死者に関連させ、etをArcadiaにではなくegoに結びつけ、欠けている動詞をsum〔わたしは……である〕ではなく、vixi〔わたしは生きた〕またはfui〔わたしは……であった〕という形で補うことによりそれを誤訳するようにしむけている、あるいはほとんど強制している。」(下線はMu)
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