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2004年6月 5日 (土)

ダヴィンチコードとキリスト密教史

 ダン・ブラウンの 『ダ・ヴィンチ・コード』を読んでしまった。
 角川書店お得意の洋物だった。
 事情で数日間横臥している間に、昨日(2004/06/04金)午後から読書できるほどに快癒し、結局読んでしまった。罪深いことである。合掌。

 さて読書余香だが。
 キリストに関して、さっきから私の過去を調べて自己言及リンクを調整していたら、また疲れてきたので、書評にもならない感想を記しておく。

0.秀、A+、おもしろい。

1.殺されたルーブル美術館館長で、ヒロインの祖父ソニエールという名前は、フランス南西部「レンヌ=ル=シャトー」聖杯ミステリの主人公ソニエール神父(1852-1917)と同名である。この件は下巻解説で荒俣宏も言及している。
 以下に『イエスの墓』からソニエール神父のことを引用する。

ソニエールが33歳(1885)の頃に「祭壇を支えている古い支柱から祭壇石を取り外した際、木の筒に入ったさまざまな文書が見付かったのだ。」
「ソニエール神父の財政状態は激変した。四枚あったといわれる古い文書の発見に引き続いて、いろいろなできごとが起こり……この新任司祭は、巨万の富と豪奢な生活を手に入れ……」『イエスの墓/リチャード・アンドルーズ他』NHK出版、1999.3、より

 作者ダン・ブラウンは、「レンヌ=ル=シャトー」に言及していないが、「ダヴィンチコード」は補足説明以上の新解釈である。

2.レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画『最後の晩餐』は作中重要な働きを持つ。下巻には美麗な口絵もある。ネットで捜したら「絵葉書美術館」というのがあったので、絵葉書を引用しておく。
 この絵のこの部分に、読後覚えている(私は次々と忘れる)5つの謎のうち、4つまでが隠されている。この雰囲気は、以前瀬名秀明さんの『ブレイン・ヴァレー』で絵画を観ながら味わったのと同じものである。しかし作者に云われてみないと、まったく気が付かない。人は見たいものだけを観るようである。何度か激しく云われてやっと「ウワァー、そ、そうだったのか!」と気付く。私は、ダン・ブラウンは作中ラングドン教授と同じく、本当に「宗教象徴学者」なんだと思った。

3.この作品は、犯人Xと、宝物Yと、ふたつのX、Yを解かないといけない。「謎解き」については思うことあったが、まず、Xがだれかはダン・ブラウンの過去パターンを知らないと、直前まで分からないだろう。Yについては驚天動地の宇佐八幡宮、これは高木彬光世界である。(注:「邪馬台国の秘密」角川文庫、参照のこと)

4.ヨーロッパのキリスト密教史にすっきりと柱が立った。部外者にはキリスト顕教史と、裏にある様々な事情がバラバラになっていて、分からなかった。岩清水さやかなヤマトの国からみれば、「異教徒」のことは分からないものだ。

5.巻頭の「事実」告知には、いまだに信じられない思いがする。「シオン修道会は、……ヨーロッパの秘密結社であり、実在する組織である。」まではよい。「オプス・デイは、きわめて敬虔なカトリックの一派だが、洗脳や強制的勧誘、」になると分からなくなり、ニューヨーク市のレキシントン・アヴェニュー243番地の本部ビルと出てくると、おお、である。極みは「この小説における芸術作品、建築物、文書、秘密儀式に関する記述は、すべて事実に基づいている。」とすると、オプス・デイのアリンガローサ司教モデルは……

6.ルーブル美術館が一つの舞台にもなっている。公式サイトの日本語版があるので参考にリンクしておく。

*.疲れたので、これくらいにする。気が付いたら、また付加しておく。

 以下に、キリスト密教史に関する私の感想をまとめておく。実は、参考図書や参考小説は、思い返せば、卑弥呼ほどではないが、いろいろ入手してきた。そのうちの数冊と、分かりやすいサイトを記しておいた。

小説葛野記1999年7月5(月)曇り

昨日日曜
 キリスト「最後の誘惑(1988)」を、丁度2時間見た。午後のことであった。あと1時間程度残っているはずだが、息苦しくなって夕方見るのを中断し、横になったら、寝てしまった。
 息苦しいというのは、しかし否定的に言ったのではない。キリストに感情移入してしまって、爆発しそうになったからである。
 もともとウィレム・ディフォーは好みの役者であった。いや、映画の話はよそう。すなわち、ジーザス・クライストも、画面のディフォー以上に魅力ある人間だったのだろう。
 余が、中断したのは、キリストがエルサレムのユダヤ神殿に、弟子達と2度目に訪れ、神の言葉も、啓示もないままに、逃げ出した後の場面であった。キリストはユダに後始末を懇願する。神の導きによって、ユダに裏切りを依頼し、自らが十字架にかかることを予言し、その手助けをユダに頼むところであった。キリストは、ユダに自分を密告し売れと、懇願するのである。

 これは寓話ではない。余には真実と感じられた。だから息苦しくなったのである。キリストは幾たびも迷ってきた。ただの人であるか、選ばれた神の子として生きるかの迷い、とは感じられなかった。神が何をジーザスに求め、ジーザスはどのように行動すべきなのか分からない、というのが悩みの第一のものであった。

 映画はこのあと、十字架にかかり、父よ父よ何故私を見捨てたのか・・・が続くはずである。そうして、この映画が全米いたるところでボイコットにあった原因であるところの、キリストが意識の遠のく中で、家庭をもち、子を為す幻想にひたるところへと、続く筈である。
 この残りの部分を見るのは、後日にする。またしても余は息苦しくなる。それは否定としての息苦しさではない、キリストへの感情移入を伴い、身体と心とが苛まれるからである。

 それにしても、砂漠の断食に苦しみ、同時に、イスラエルの民衆に「私が、神だ!」とさけび、神殿の商いを破壊し、忘我状態になり、弟子達に抱えられて逃亡するという、一連の描写に、余はリアルさをみ、悲しみを覚えた。

 ジーザスは、ガラス細工のこわれもののようであった。ただ、ユダをはじめとする屈強の弟子たちが、かれを抱え込んで、争乱の場から待避させた。実にリアルである。選ばれた者は、現実世界では無力である。

 2000年も昔のユダヤであるという時代相もあろうが、映画はあますところなく当時を再現し、その中でのキリストは、まるで乞食であり、狂者であり、そうしてたぐい希な選ばれた者のオーラを放っていた。現代の宗教者にこれほどの人はおるのだろうか。

 (それにしても、当時のエルサレムも、それ以前のソドム&ゴモラも、現代の都市にくらべてなんとおだやかなものであったろうか。貧困と飢餓とだけがめについた)

 そうして、「神は、富み傲慢な神官や、イスラエルのためだけの神ではない。神は人々全員の神である」と、キリストが叫んだとき、余は落涙した。
 それはそのときのキリストへの想いと、そうして、後日歴史的に、この発想が同時に逆転し、世界普遍宗教と、中世以降現代にいたるまで異端狩りと宗教戦争の、両面で、人類史の多くの場面で災いももたらしたからであろう。余は、ネイティブ日本の人間である。だから、ゴッドもキリストも無縁である。余は砂漠の民ではない、過酷な律法を押しつける必然性のない、緑なす島国、うましくにやまとの住人である、四季のなかに、ユダヤの過酷さ、想像を絶する地獄はない。

 (朝の四条大橋から見た北山とくらべ、なんと砂漠は過酷なのであろうか)

 で、重ねて申すなら、余はキリストに同時性を味わい、ナザレのキリストのために涙した。やはり、そういう時代だったのだろう、そういう過酷な時代だったのだろう、と。ひりひりと、キリストの想いが伝わってき、余はビデオを停止した。・・・・

 それにしても、ユダという存在もまた、人間の一つの典型であった。マスターを裏切る者として歴史に名を残す、というのは、これは普通の人にはできないことであったろうに。ユダは、密告を依頼するキリストにたずねる「あなたは、師を裏切れますか?」

 キリストはいう「それはできない。だが、ユダ、君にはそうしてもらわなければならない。私を売るのだ、それが神の意志だ」というような文脈で、ユダを説得する。

 この映画は、異国の余をかくまで感動せしめた。まさしく、秀作であり、絶唱である。ちなみに、このビデオはすぐる日の余の生誕祝いに、木幡研究所から贈られたものである。一度見て、衝撃に、これまで再鑑賞することができなかった。


↑参考サイト
   最後の誘惑:キネマ旬報DB
   最後の誘惑:all cinema online
   パッション:未見です。(2004/06/05付)


小説葛野記2000年2月12(土)晴

小説の効用
 若い頃から死海文書に興味があった。何冊か持っている。数年前に、エヴァンゲリオンが流行したときも、それなりの観点から、10数回の放映を2回も見た。しかしエヴァンゲリオンの死海文書解釈は、ははは、ちょっといろいろ問題が多いなあ。

 最近気に入ったのは、フランスの作家のものでエリエット・アベカシスという1996翻訳当時27歳の才媛による「クムラン」(角川)であった。イエス・キリストが死んだのは、なぜか。イエス・キリストは誰だったのか。死海文書の主要な巻物の著者は誰。現代ユダヤ教のすがた・・・

 なんとなく、旧約と新約聖書との違いが解った。キリストの立場が解った。ユダヤとイエスとキリスト教の関係が解った。実は、何十年来、解らなかったことである。アベカシスは、極東の皇帝、余ムアディブにも、わかりやすく、異教のおもしろさを伝えきった。まこと、ユダヤ、キリスト、おおいなる異教の徒たちは、この2000年以上がんばってきたのである。感心したぞ。

 で、興に任せて、ただちに、バーバラ・スイーリング「イエスのミステリー」(NHK出版)を再読し始めた。原題はJesus The Manだから、ミステリーではない。以前(数年前)スキャンしたときに比べて、字句の一つ一つが不思議なほど、身体と脳にとけ込んできた。(帯には、どこかの、翻訳賞をとっておるようである、と書いてある。)

 なんと申しても、イエスが単なる大工の息子ではなくて、ユダヤの主流の家系の一人であった、という説には、こころから納得できた。むろん、アブラハムさんにまでさかのぼる家系である。

 ファリサイ、サドカイ、エッセネといういまから2000年ほど昔の、ユダヤの宗教分布が、くっきりと浮かび上がってきた。イエスは、エッセネ派であったとは、小説「クムラン」でも述べている。「イエスのミステリー」では、そこが丁寧に、研究されている。

 ともあれ、たしかにイエスのミステリーは、一度読んだ。全部忘れていた。そうして、小説クムランを読んだ。現代のユダヤ教原理主義の世界にからめて、著者アベカシスの作るイメージは、余を2000年前のイエスの前にタイムスリップさせた。

 そうして、目が覚めて、スイーリングの図書を読んでみると、なんとなく、死海文書を継続して何年も研究しているような気分で、着々と、そうやそうや、いやそんなことはない、やはりねー、などとうなずきながら読める。

 若いアベカシスの小説作風は、完全に受け入れられるものでもない。フランス風のもってまわった文学作法は、歳をとると、あほかいな、と感じるこのごろである。むろん、そういうさほうの原型を現代文学論、現代思想としてみすぎよすぎにする我が国のインテリも、けけけ、猿みたい。しかし、アベカシスは最低限の正しいミステリー作法は捨てなかったので、まずは、及第。そうして、そのイメージの奔流によって、余は、こむつかしい学術図書もよむことができる。これは、まずは、文学というイメージ創造マシンの効用であろう。

イエスとヨハネ
 それにしても、人間、イエスは、ずいぶんな苦労をしたようである。そうして、迫害を受けた。ローマからではない。宗団からである。これは、永遠の繰り返しなのであろう。どうにも、人間の本性として近親憎悪、は、ぬきがたいものであるな。

 そうそう、ヨハネさんの大きさとか、重さも、この数週間、味わった。あの、ヨハネさんは、なかなかに偉いひとであったようだな。

 異教の徒にも、優れた人が輩出してきたようである。


↑参考サイト
   松岡正剛の千夜千冊『クムラン
     [豊かな書評です]
   クムラン-甦る神殿:紀伊國屋書店
   田川建三著『イエスという男』とキリスト教/渡辺比登志
     [今もキリストを抹殺する現代人、という言葉がよい]
   スィーリング『イエスのミステリー』のミステリー/渡辺比登志
     [徹底したスィーリング批判]

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コメント

 「ダヴィンチ・コード」近くの本屋では品切れみたいです。 いつ行ってもありません。
 (アナログ人間なもので、インターネットで買い物というのになかなか馴染めないんです。)
 こうなるとますます読みたくなります。
 

投稿: 羊 | 2004年6月 9日 (水) 18時38分

羊さん
 図書館では当分借りられないでしょう。
 cityの大型本屋さんにいけばあるでしょう。
 六地蔵は(ど)田舎ではないけど、田園ちゅうか、まあイナカですわな。
 とても読みやすいです(作者が聡明なのと、彼は相当に推敲を重ねていて、おそらく元原稿の6割5分くらいまでスリムにした形跡があります)。

投稿: Mu | 2004年6月 9日 (水) 21時03分

先生、
 「ダヴィンチ・コード」を読んでいて思うことがあります。
 暗号読解についてなのですが、
 本や手紙でも何でも、誰かの書いたものを読むときに行間を読んだりしますよね。
 
 人は頭の中の雑然とした考えを文章にするときに、文章用に言葉を整理して書きます。
 そうやって書かれた文章を読むわけですから、当然目にした文章から書き手の伝えたい事を推し量りながら読み手は読みます。その文章の真意を考えます。
 これって暗号読解ですよね?(気がつくのが遅い?)
 
 文字を読むことすべてが暗号読解なのかと思うと、ワクワクして、読書欲が沸いてきました。
 (これ、なんだか変な感想文です。)

投稿: 羊 | 2004年11月 5日 (金) 23時40分

羊さん
 文字も文章も、人工のものですね。
 で、暗号は普通には送信者が「隠す」意図をもって作ったメッセージ(相手を選択して、伝えたい内容)ですね。

 ミステリは、結論を外したなら、伏線で織りなされた暗号書でしょうか。結論と一緒に本はまとめられているので、暗号と解読とを兼ねています。

 特定相手の特定メッセージが暗号でしょうね。
 不特定の者が横からメッセージを知ろうとするとき暗号解読作業が必要なんです。
 特定された者は、解く鍵をあらかじめ与えられているから、単に図書の扉を開くだけにすぎないことなんでしょう。

 文学は暗号解読なのか。
 隠す意図が作者にはあるのか。
 特定読者指定なのかどうか。
 おお、むつしくなってきました。

投稿: Mu | 2004年11月 6日 (土) 04時41分

 なるほど、
 そうですね。ちょっと勘違いしてました。
 特定の人にだけ読めなくちゃだめなんですね。
 
 暗号の隠された書物を偶然手にして、その意味がわかるなんて状況は、
そうそう無いことです。
 
  もっと素直に本を読むことにします。

投稿: 羊 | 2004年11月 6日 (土) 08時27分

羊さん
 ミステリは騙される面白さの方が、私はぴったりです。
 途中で明瞭にわかると、普通のミステリだとがっかりします。

 ある本や事象が、この世にうまれたことじたいに謎をあじわうものがよいですね。
 たとえば、なんでいまさら、薔薇十字の、秘密結社の、米国紙幣のデザインの、……。そんな本がうまれたのだろうか、と考えるとおもしろい。

 ところである有名作家が申されていた。読者に少しだけ謎が解けるようにしておくのも、作者の手練、とかいう意味のことでした。途中で「もしかして、トリックは、犯人は、こうなのでは?」と、思わせるくらいの技量は必要のようです。
 その通りだったとしても、じつはそれがトンデモどんでん返しだったとしても、読者に「賢く」おもってもらうのは大切なようです。
 してみると、MuBlogも壮大な(自画自賛)ミステリなのかも、しれまへんでぇ〜。
(Mu代行著者[MuMu」記す)

投稿: Mu | 2004年11月 6日 (土) 09時16分

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