« ある日の葛野研机上 | トップページ | うじ・びょうどういん:宇治平等院 »

2004年4月13日 (火)

きなさむら:鬼無里は昔、海だった

鬼無里村(長野県上水内郡鬼無里村) マピオンBB地図

 鬼無里村は長野から西20キロほどの、山の中にある。40年近くも前、そこでは、8月お盆過ぎには秋風が吹いていたような記憶がある。滞在したのは1967年(昭和42年)前後である。記憶では二週間に満たなかった。
 ある日、友人達と夕食のために公民館あたりまで歩いてくると、やけに大きな講演会ポスターがあった。「鬼無里は昔、海だった」。驚いた。一体何を話すのか、と思った。今でもそう思う。
 科学的事実と日常感覚とはだいぶ異なる。だれも地球が回転しているなどと、感じてはいない。だから、山の中の村が、昔、海だったと聞いても、海岸沿いなら信じられるが、信州の山の中の話だから、笑った。
 20歳前後のことだった。

 その村は学生村を運営していた。わずかな費用で、クーラーもない京都から、二週間近く涼しく滞在できる環境だった。要するに避暑地だ。だが、ニュアンスは相当に違う。小荷物で本やノートを二箱も運んでの滞在だった。私は小生意気にも、その夏、ドイツ語の訓練(ラジオ)と読解(辞書引き)。そして、翻訳哲学書の読破(多分、ハイデッガーの「有と時」)を計っていた。日々八時間はそれに費やしたから、うまく行ったと思っている。なにしろ、私はドイツ語の寝言を言っていたらしいから。もっとも、40年後の今日、両方とも、その内容は完全に記憶から抜け落ちてしまったが。

 そういう、今ではあまり見かけられない学生村があった。信州でのその雰囲気は、参考サイトの「信州学生村という民宿」に、ほぼ再現されている。著者の方は存じよりではなく、たまたまグーグル検索で入手できた。

 鬼無里は昔、海だったことを検証したかったのではない。人間の記憶の不思議さ、とんでもなさにあらためて感動して記録した。以後、私は折りにふれて、「鬼無里は昔、海だった」というフレーズが突然先に浮かび、その後でじっくりと「そういえば、鬼無里村があった」と続き、次に「ああ、学生村で勉強していた」、そして最後は決まって「足谷某と、神学部の船越某と、慶応の吉岡某がいっしょだった」と、結論づけるのだ。吉岡某は、この村で出合った。その後東京の彼の家で泊まったこともあったが、交際は途絶えがちになり、以後音信不通。足谷某とは高校・大学と仲間だった、船越某は足谷某の友人だった。二人とも、生死不明。
 40年近くも経つと、お互いに、記憶も、人生も、異世界のものとなる。だから、邂逅、そして一期一会という言葉が生まれたのだろう。

参考サイト
  鬼無里村公式HP
  同上、鬼無里の歴史
  信州学生村という民宿/伊藤 馨

  

|

« ある日の葛野研机上 | トップページ | うじ・びょうどういん:宇治平等院 »

地図の風景」カテゴリの記事

落ち穂拾い」カテゴリの記事

コメント

 鬼無里村という地を初めて知りました。「鬼」がついているので
なんか横溝正史の小説にでも出てきそうな名前だなと思いましたが、よくみると「鬼がい無い里」なんですから平和な村なんでしょう。公式ホームページを見ると美しい自然に囲まれた穏やかな村のようですね。
 「鬼無里村は昔、海だった」というフレーズにも驚きました。日本列島がまだ現在の形のようではなかった時代の話と知って、興味深かったです。
 それに40年前の学生さんは勉強熱心だったのですね。避暑地に辞書や参考書なんか持ち込んで2週間も滞在して勉強三昧の日々をおくるなどとは、自分の学生時代には考えもつかないことでした。
また、どうして避暑地先がこの「鬼無里村」だったのか不思議に思いました。

投稿: ほかもどり | 2004年4月13日 (火) 15時43分

鬼無は数カ月前に四国は高松に仕事で出張した時に、その会社の住所が『鬼無』(きなし)でした! その理由は桃太郎伝説です。屋島の前に鬼ケ島があります、桃太郎は鬼を退治したのでこの村は名前が『鬼無』となったそうです。本当ですよ~~!
不思議やな~~~! 日本では普通は鬼と言えば、製鉄に携わる人々のことを指すらしいけど、ここでは海賊でしたね。

投稿: jo | 2004年4月13日 (火) 17時07分

ほかもどりさま
 横溝正史がお好きなら、後日、横溝さんについて、日頃思うところをいろいろ記します。その際は、ぜはコメントくだされませ。
 最近では、京極夏彦さんの「おんもらけの・・・」という分厚い(あの方のは最近、5センチ本とか、900g本とか、キロ級とか、別称で呼んでいますが)ミステリの中の、まるまる一章が横溝さん登場だったように思います。この部分はメフィストという雑誌で読んだ覚えもあるのですが、何度読んでも面白いですね。
 なお、当時の学生村でドイツ語や哲学書を読むのは、いまで申すファッションかもしれません。それだけ娯楽がなかったのです。TDLもUSJも、クーラーもなにもなかったから、山奥で読書していた。それが実態です。

投稿: Mu | 2004年4月13日 (火) 19時05分

JOさん
 いろいろ知恵をありがとう。もう図書館に頼らずに、定番の地名故事来歴事典でも買おうと思う。ほら、邪馬台国ひとつとっても、九州の甘木(たしか、卒業生一名生存)かな、三輪山や飛鳥と一緒の名前が一杯あるんでしょう? ふしぎやね。
 製鉄ね。これ聞くと、谷川健一さんの図書の目次をblogに入力していないことを思い出して、辛い。5頁分あるけど、びっしり章節項まである。スキャンしようにも、傍線やマーカーで読み取れない。
 まあ、後日。しかしこれを入力しないと、鉄と倭建(先週の世界不思議発見でもあった)とか、そのた出雲の蘊蓄。うむむ、他の極秘ネタもかけない。

投稿: Mu | 2004年4月13日 (火) 19時13分

そう言えば、安曇野これも出雲族ですね、日本海から直江津から南下して出雲の人々は開拓しましたね。鬼無これは製鉄の民と関係があるんと違います?

投稿: jo | 2004年4月13日 (火) 22時34分

JOさん
 トンデモ一族、風雪梅安一家は、関係が在ろうが無かろうが、関係ありとしてしまう、通弊あり。
 私は、断言します。鬼無里は古代、製鉄の地だった、と。(もう、こうなると、いや、まったくトンデモですね)

投稿: Mu | 2004年4月14日 (水) 05時27分

1972年(昭和47年)の夏に、共に大学浪人の友人と二人で鬼無里村の信州学生村に2週間程、行きました。大学に進学後は二人とも新しい世界に夢中で鬼無里村のことは思い出しませんでした。40年近くたって、ふと学生村というのは今もあるのだろうか?鬼無里村はどこなのだろう?と思うようになりネットで検索しておりましたらこのサイトにたどり着きました。
当時、がむしゃらに勉強もしたけど地元の夏祭りを見に行ったり断片的な思い出がとても懐かしく感じます。
現在は鬼無里村も学生村も存続していないようですが、民宿はあるようですので機会があったら訪れてみようと思います。
貴重な情報を有難うございます。

投稿: YAMA | 2010年9月28日 (火) 14時53分

YAMAさん、はじめまして。
 昭和46年ころに大学浪人ですと、わたくしよりはお若いですね(笑)。そのころ私は社会人でした。

 こんな風に、世界中の人達が、想い出、記憶を一杯抱え込んで、年をとっていくわけですねぇ。
 取り戻せない事実ですが、たしかに私は20歳前後、その村でやみくもに勉強していたようです。
 要するに、その時はそういう世界がものすごく好ましく、そうしていたかったのだと想像しています。それと、いわゆる遊ぶ金もなくて、クーラー代わりに急行にのって鬼無里へ行って、安くつく読書をしていたに違いありません。

 ともあれ、過去に近似の方がおられると、ほっとします。 

投稿: Mu→YAMA | 2010年9月28日 (火) 16時31分

鬼無里。懐かしい地名です。大学生の時、学生村に憧れて民泊しました。中村さんという農家民泊でした。当時まだエアコンもあまり普及してない時代でしたので信州、高原 、涼しい所のイメージで行きました。盆踊りに参加したり、戸隠の神社に行ったり民泊で出会った仲間達と遊びほうけた2週間でした。多分、一年生の昭和44年だったと思います。

投稿: 惣兵衛 | 2016年5月28日 (土) 18時26分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/22035/433153

この記事へのトラックバック一覧です: きなさむら:鬼無里は昔、海だった:

« ある日の葛野研机上 | トップページ | うじ・びょうどういん:宇治平等院 »