えちぜんおおのじょう:越前大野城
大野城(福井県大野市城町) マピオンBB地図
わざわざ越前と先に付けたのは、検索エンジンで「大野城」と入れてみると、ほとんどは福岡県の大野城市にヒットしてしまったからである。しかし、私が以前行ったところは、確実に越前、福井県の大野市だった。
(最近、記憶のことを考えていて、ついには時折、自分自身の記憶がゆらゆらとしてしまい、おぼろになるので)
こうして大野市に訪れ、城にあがると、つくずく日本の歴史の重層を感じてしまう。大野城は天正4年と記してあったから、信長、柴田勝家、秀吉の時代、すなわち16世紀のことである。金森長近という武将が築城したようである。(伝聞推測になりがちなのも、記憶だけではなくて、記録自体ももやもやと影が薄くなる感覚にとらわれる故)
朝市がたち、水が美しく、武家屋敷があり、高い山を遠望できる、小綺麗な町だった。宿の風呂が屋上にあり、ライトアップされた城を見た記憶もある。実は、縁戚がここに住んでいるらしい。腹違いの姉らしい。これもまた、今は亡き母に聞いたのか、亡き祖母に聞いたのか、よく覚えてはいない。
以前、近所の大学で非常勤講師をしていた頃(実は、今もしている)、英語力が抜群の(エースという称号クラスにいたような)学生がいて、共同演習で突出した働きをしていた。その学生の名前を遂に覚えられず、ひたすら出身地の「大野君」で通した覚えがある。失礼だと思いながら、どうしても覚えられなかった。出身地で名をいうのは、まるで渡世人の世界だな、と今も我が身を省みて、慚愧苦笑している。「イイオカ、のう」と言えば飯岡村の親分とか、「シミズ、のう」といえば清水次郎長さんをさしていたような、そんな記憶が元々の因だった。
しかし、やはり、大野市になにかしら愛着があったんだろう。幼稚園の頃、「オオノ」という言葉をよく耳にしていた。
総ては曖昧模糊とした世界である。
写真中央の雪を懐いた山は、城の足下に学校のグランドが見えることから、地図でみると方角が東に30キロ離れた、標高1709メートルの大日ケ岳と思われる、が怪しい。大野君に聞く機会があれば、確認してみる。
| 固定リンク
「地図の風景」カテゴリの記事
- 白峯陵の西行(2012.03.13)
- 小説木幡記:瀬戸大橋線・瀬戸内海をまたぐ列車(2012.02.20)
- 小説木幡記:徳島城下・伊予街道の不思議な光景(2012.02.18)
- 伊勢参り(2)伊勢神宮とトポスとしての「おかげ横丁」(2010.02.04)
- 紅鮎(べにあゆ)で湯治ついでに季節の料理(2007.05.08)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
金森の姓は彼が野洲におられた頃に改姓されたそうですね。野洲は私の家内のお母さまが別荘をお持ちで、山の上ですから眼下に琵琶湖が望めます。大野の王==オオノオウ ヲホド王、ですか? これは少し、無理筋でしょうね? 浅茅ヶ原の旦那が大野と大層に関係が深いのは始めて知りました。人間、奥が深いどすね。
投稿: jo | 2004年3月31日 (水) 12時58分
JOさん、継体天皇と大野をひっつけるのは、深読みですよ。毛頭なかった、・・・いや、そばに九頭竜川があるのだから、そんな考えも深層にあったのかも知れませんね。
ところで、小生にはともに育った上3人の兄以外に、さらに姉二人、兄ひとりいたと知ったのは20歳ころでしたがねぇ。目が点ですよ。さらに、別枠で熱海あたりの芸者さんにも、云々かんぬんにいたっては、その先はもう誰にも聞いておりません。いやはや、私が25の時、69でみまかった我が父、人の良い、涙もろい、「そうか、小説を書きたいのか。土木や建築は受けぬのか」と私の受験話に涙ぐんでいた爺さんが、あははは、トンデモ話ですよね。
もっと、父と話をしたかった、という想いがわきあがります、時々。
ああ、以上のことは20のころに、長兄に聞いただけです。
投稿: Mu | 2004年3月31日 (水) 13時15分