出雲と現代詩
『わが出雲・わが鎮魂/入沢康夫』
二十代のはじめに偶然書店で買ってしまった入沢康夫の詩集をひもといて、赤面してしまった。本来私の書架に詩集はない。あるとしたら、・・・そう確かめてみた。ランボーの全詩集翻訳、中原中也一冊、萩原朔太郎一冊、伊藤静雄一冊、後鳥羽院、新古今和歌集、万葉集。現代詩と和歌集をあわせて詩集というのは乱暴な話だが、その程度の背景しか持ってはいない。赤面したわけのひつとには、そういう感性しかない男がどうして、『わが出雲・わが鎮魂』というような名作を、三十五年にもなる大昔に、書店に出たとたん買ってしまったのだろうか、そのことが思い出せない。もしかしたら、当時の青年特有の「知的ファッション」俗物趣味じゃなかったろうか、という恐れがふとわいたからである。定価が800円だったから、換算すると7倍(初任給が当時3万円、現在20万円程度)で、時価5千円程度の詩集である。このとき私は無収入だった。今だったら身を飾るために図書なんか買いはしないが、当時は自信がない。まともな女性の気持ちを得るには詩のひとつやふたつは話題にできないと、という雰囲気はたしかにあった。そうなのか、という恐れが赤面をもたらした。しかしそうではなかった。詩集自身が私を惹きつけた。ダンボールの鞘箱に入っていた。おや? だった。一見墨絵のようなデザインだった。巻頭から私を引きずり倒してしまった。
やつめさす
出雲
よせあつめ 縫い合わされた国
出雲
つくられた神がたり
出雲
借りものの まがいものの
出雲よ
さみなしにあわれ
詩集の後半部はおびただしい自注だった。全詩句について、出典が注されていて、それはパロディのパロディ、本文も注記も「もどき」であると、後書きにはあった。私は、パロディを楽しんだ覚えはなかった。明確に入沢康夫の言葉と詩集全体が持つイメージに惹きつけられて、家に持ち帰るしかない状態に陥った。注記を読んだ記憶が鮮明ではない。今なら読むかも知れない。当時の私は今の千倍、自分の感性に自信があった。注記を読むほどすれてはいなかった。

しかし本当の赤面は、昨日からしっかりと甦っていた。私は生涯この詩集や入沢康夫に頭があがらないだろう、という諦念さえもたらしてしまった。私は当時の自作に幾度となく、わたし自身の『わが出雲・わが鎮魂』を組み込んでしまっていた。そのことに昨日明確に気が付いたのだ。
深夜の国道2号線。岡山から雨にぬれ。時速90キロ。ゴーグルにつきささる氷雨(ひさめ)。尾道をすぎる頃。
これを書いていたから、わが出雲を買ったのか、わが鎮魂を読んだから、深夜の国道2号線と記したのか。本当のところはよくわからない。しかし自分の中で幾度となく繰り返している言葉「深夜のルート2。号線。海をめざして」こんなぶった切ったようなリリシズムを自分自身が紡ぎ出せるわけがない。赤面するほどに入沢康夫の影響を受けていたに違いない。
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