2013年6月 7日 (金)

小説木幡記:楠木正成のこと

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  楠木正成像(東京)

 楠木正成(くすのきまさしげ)は戦前には有名な人だったとのこと。今は日本史を丁寧に学んだ学生とか、時代小説の好きな人以外には、あまり知られていないと思う。
 余はさまざまな事情により、若年時から気になってきた人だった。
 その関係小説があったので、なにげなく手に取ってみたら帯に「これは日本版『ダ・ヴィンチ・コード』だ。」という惹句が目に入り、無意識に買ってしまった(笑)。
 だいたいからに、欺されやすいのが余の身上であった。だから佳いことも多い。
で、
 一気に読み終えて、感心した。「こういう風なとらえ方もあるんだなぁ、と」
 太平記時代、そういえば後醍醐天皇皇子、大塔宮護良(もりよしとかもりながと呼ぶらしい)親王もなにやら変化(へんげ)、目くらましがお上手だった。楠木正成ほどの知将ならば、その生死も1000年間人を迷路に誘い込む手管を考えて実行したかもしれぬ(その史的死からは、まだ700年ほどだが)。
 あの時代は、なかなかに興味深い。

参考
  ダヴィンチコードとキリスト密教史(MuBlog)
  ダ・ヴィンチ・コード/ロン・ハワード監督 (映画) (MuBlog)

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2013年5月28日 (火)

小説木幡記:腰痛と信長

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 ちょっとblog記事投稿が途切れた。
 他意はない。
 腰痛で物を考えるのが億劫だったのだ。当然文章なんか書く気力が湧かなかった。
 「痛いな。治らないな。一生腰痛なんかなぁ~」という思考だけが起きている間、頭をうろうろして、なにも手がつかなかった。
 まだまだ続くなぁ。

 と、それよりも。
 最近、信長の小説を読んでいたら、新しい信長像にであった。
 
 初っぱなから、桶狭間の戦い場面で、信長が城に戻ったときは、満身創痍だったという表現におどろき、そのあとを行間に想像していた。
 当時は抗生物質とか、上等過激な鎮痛剤もなかったろうに。
 多分、傷は長引き化膿や疼痛は止まなかったことだろう。

 と、想像し現代医学の元でも、肩凝りや腰痛はなかなかうまく行かない事実に愕然とした。
 まだ試していない東洋の鍼や灸をそろそろ試してみるつもりだ。
 昔、韓流のチャングムの鍼はよく効いたからなぁ(笑)。

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2013年5月21日 (火)

小説木幡記:癌の必然 『NHKスペシャル 病の起源「がん」より(2013年5月19放映)』

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  ↑近つ飛鳥博物館の建物模型

 癌の由来、起源は以前から気になっていた。和田洋巳(ひろみ)先生の『がんとエントロピー』(NTT出版、2011)では、癌とは老化の必然とのお話だった。これに対処するには、18~19世紀以来の西洋医学における対象をたたきつぶす発想の「細菌戦」とは異なった考えをもたなければ、克服できないという説に出逢い、目から鱗が落ちた。つまり癌とは敵ではなくて、我が身の一部なのだ。殲滅思想だと、自分自身も滅びる。共生する考えを導入しないかぎり、克服出来ないというお考えだった。この著書については縁あって、余も随分熱心に読んだのでいずれ、感想を記そうと思っている。
 
 さて、数日前に放映されたNHKのスペシャル番組でがんと人類史の関係をより具体的に知った。

 人間と99%も遺伝子構成が同一のチンパンジーに引き比べて、人類(統計的には日本人と限定した方が正確かもしれない。仮に人類全体としておく)はその30%が癌で死亡する。チンパンジー(日本産のチンパンジーとは考えない)の癌死はわずかに2%である。そしてまた通説では人類の50%は目立った癌に罹患する。わかりやすくいうと、人の100人のうち、50人が生涯にめだった癌を発症し、そのうちの30人は癌死する。これはチンパンジーと比較するととんでもない統計数値であり、異様な現実に人類はさらされている。

 なお、目立った癌に罹患するというのは番組からではなく、和田先生の著書をよんでいると、人類はしょっちゅう身体のそこら中で癌化が発症している。しかし癌と言えるほどになるには時間もかかり、また人間の強力な免疫システムで癌がうまれても消えてしまう場合も多い。だから、病院でわいわい騒ぐ癌は、それが現代医学で「癌」と認定された、いわば癌システムの一部なのだ。余の感想では、癌は単純に生きることの側面の一つに思えた(笑)。

 そこで番組の構成を忘れぬうちに記録しておく。詳細なデータや物質名はすでにわすれた。

1.SEXが遠因:精子増産
 チンパンジーと人類が別れた頃に、人類の繁殖革命が起こった。それまで猿やほ乳類などは明確に発情期があって、その事情を♀は♂に隠さなかったから、繁殖のためやその他において♂は年がら年中SEXに没頭しなくて済んだ。しかし人類らしくなったとき、♀は食料調達を円滑に進めるために、SEXを♂にたいしての労役代償と化した。食料は年中必要だから、♀は♂にたいして受胎時期や発情状態を隠すに及んだ。よって、♂は子孫を残すため、その他ももろもろのために、年間通期で♀を追いかけざるを得なくなった。その結果として精子製造に異様な能力を身につけてしまった。
 と、その能力が人類に固定化したとき、遺伝子複製ミスが原因の癌細胞もまた、精子製造のスキルを利用しだしてしまった → それが人類の癌化増大の原因。
 さて、となると、生涯卵子の数が限られている♀にも癌はあるが、そういう精子増産能力を♀癌にどうやって継承したのか、ちょっと疑問だった(笑)。

2.大脳肥大の必然
 人類の大脳が極端に大きく成長し、緻密になったのは、脂肪酸が大きな原因らしい。そのために脂肪酸合成酵素「FAS」のシステムが躍進した。
 ~、とこの話はすでに忘れかけているので詳細は専門書や専門家に聞かないとわからぬ。
 ただ、人類は異様な大脳巨大化のために脂肪酸を使った。しかしてこの好機を癌細胞システムが見逃すはずもなく、まんまと癌増殖システムにFASを取り込んだ。らしい。
 知恵がつくことと引き替えに人類は、癌持ちになってしまった、といえよう。

3.出アフリカ:紫外線の減少
 人類は適度な紫外線をあびて、体内にビタミンDを自製しないと免疫が落ち、癌化が促進されるようだ。6万年前に紫外線に満ちたアフリカを出て世界に散らばった人類のうち、紫外線の少ない地域に定住したもの達は、ビタミンDが不足し、癌発症が高まってきたとのこと。たとえば北米アメリカの東海岸あたりは紫外線が少なく、大腸ガンの発症とぴったり重なるようだ。そこである町では組織的に日々ビタミンDの錠剤を飲んで影響を検証しているとのこと。

 ただし過剰な紫外線は皮膚癌をもたらすので、過ぎたるは及ばず也。番組では15分以内が適当とのこと。

4.現代病:光と産業革命以降の諸毒
 産業革命以降、人類がありとあらゆる有毒物質のエッセンスにかこまれ癌化が促進したのはタバコや食品添加物や公害で著名なので、省略する。
 さて。
 エジソンが発明した電気電灯が癌化の大きな要因とのこと。
 夜勤の人達、がんばって夜を警備してくれる人達には申し訳ないが、人類は夜は眠る生物としての素因があって、それを破ると癌化が進むらしい。
 昼間勤務の看護師と夜勤常勤の看護師では、乳がんが3倍に増加するとのこと。
 夜は暗くして熟睡すると、癌化を阻害する物質が自製されて、健康を保てる。
 余はおもうに、夜に活動すると無意識に過大なストレスをうけるのではなかろうか~。

*.まとめ
 こうして番組を見終わって、ため息がでた。癌というのは人類の属性なんだな。必然、宿命におもえてきた。
 人間が上等な知恵を持っているのが特徴なら、癌持ちなのも人類の特徴なのだ。
 そこで、今朝の結論。
 癌はたたきつぶす敵ではない。もしかしたら鬼子かもしれない。子にかわりはない。
 だから。
 癌化老死という普遍的な寿命を受け容れる精神性も必要だし、癌とつきあう発想も必要なんだろう。
 ただし、若い人の癌は人生を真っ暗にするし、悲惨すぎる。
 ~
 となると、癌の進行を遅らせる手法が一番大切なのだろう。癌は老化と考えると、癌になるのは人類史、個人史、両者にとって「さだめじゃ~」である。せいぜい気楽に長生きできる薬や療法がでてくればよいのう。
 (癌にたいして不老不死の考えを持ち込むのは失敗の元だな)

意味深長なキーワード
  FAS、C31、ビタミンD

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2013年5月15日 (水)

小説木幡記:雑記帳>元気がでてきたかな? 三つ子の魂~

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  ↑夏の鳥居本鮎「平野屋」

 平成25(2013)年の1月~3月は病で生死をさまよった。
 4月になって新学期に臨んだが、GWまでは依然として、講義時間以外はなにも出来なかった。組織からは「養生してください」という理解を得ていたので、ぽつぽつ授業をして横臥して帰宅していた。その間、心身とは悪い事態にも良い事態にも慣れるものだと思った。

 つまりこの5月の黄金休暇週間が始まり、それを終えた頃に、元気が戻ってきたわけだ。
*まず単純なことからだが。
 ベッドから即座に起き上がれるようになった。
 食欲が定常的にもどってきた(4月ころは、バナナ一本で昼食をすませた日々が続いた)。
 近未来への自由感を取り戻してきた(沢山の旅行、読書、コンピュータ系のもろもろ、日曜作家などなど)。
*そして眼前の仕事の濃淡が見えてきた。
 5月からゼミ学生の追加個人面談時間を取りだした。
   いろいろあるが3つの題目だ。{卒業論文、就職、個人部分}
   卒論テーマ内容は昨年とこの4月のゼミ時間で大体の個々志向や流れを把握できた。
     夏期休暇明けには全員草稿完成を指示した。
   就職活動は、もともと余のゼミ生達が派手な就活タイプではないので(笑)、そこそこ安心した。
     まあ、資質に応じてぼちぼちと、きばりなさいや。
   個人問題は、全員異なった問題、軽重いろいろある。聞き役に徹することが大切だなぁ。
 研究はしばらく休む。
   暇そうな大学教授の隠居仕事と思われがちだが、真剣にやり出すと心身疲労が大きくなる。
   充実感や世間体と引き替えに若死にするのは嫌じゃわい(けけけ)。
 教育内容は。
   大きな変化はないが、過去の見直しと現在・近未来への微調整だろうな。

*さて元気が一番でてくる隠居遊び(笑)
 立て続けにRPGコンストラクタを入手し、毎夜眺めておるが。
 数十年前に比べると格段の進化があるが、しかし、依然としてゲーム創造世界の裾野は狭い。
 極端なプログラミング言語志向、これはゲームアルゴリズムを達成するために必須だが~
   Cから派生して、いまではC++やC#が盛んだ。
     余の学科の他のゼミでは、C#が卒論のネタになる学生もおる。
   あるいは無料、強力・昔懐かしい風姿をもつ書式・HSPの隆盛。
   あるいはJavaScriptも息を吹き返しておる。あるいはRubyゲーム・スクリプト~
     そうそう、数年前にJavaでゲームを試したが、そのときは「処理が遅い~!!」
     つまり期待値が大きすぎて、遅く感じ、あげくにノートマシンが熱暴走した。
   PascalやDelphiは息絶えかけておるな(笑)。残念だな。
   意外に、Pythonゲームは未来がある。
   ~いろいろあるぞ。
 RPGコンストラクタ自体の数はワープロ並に種類が少ない。
   数週間で見た範囲では、日本語RPG関係では、有料が一つ、無料が一つ。
   ただし、両者ともに、深い感動をもたらすほどの充実がある。
   ともあれ、無料で使え再配布可能なWolfRPGは本邦の誇りじゃね。
     若いゲーム創造者や、一般教育世界での最良のツールとなっておかしくない。
     つまり、コンテンツを楽しむだけじゃなくて、造る・創造するための教育ツール・マシンだな。
 ~
 と、朝のはよから、こんな雑記帳を書いているとますます元気がでてきた。
 さて。
 今日は、生涯学習概論、卒論ゼミ、そして個別面談、そして会議。~なかなかに貧乏暇無し。
 ああ追加して、Linux系UBUNTUマシンの換装(先週からケースと電源を替えだした)。
   今週はUbuntuのヴァージョンアップ。

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2013年5月14日 (火)

小説木幡記:ひねもすのたりのたりかな

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 日本武尊白鳥陵 (大阪府羽曳野市古市)

 昨日から西日本というか、京都や宇治は昼になると30度cの暖かさになっておる。各地で熱中症がでたともきくが、長袖シャツ一枚で座っていると、暖気のありがたさを深かふかと味わう今朝であった。

 こういう時になると頭の中に、ひねもすのたりのたりかな、という一節が漂い出てくる。小学校か中学校の国語で習った、與謝蕪村が天橋立あたりで詠んだ「春の海 終日(ひねもす)のたり のたりかな」なのだろう。とすると、国語教育は大切だと思った。たとえばそのときそのときの気持ちを言葉にする力がつくからな。

 ああなにかしら暖気はうつらうつらに誘い込むような力がある。うつらうつらとすると、のたりのたりとした気分につつまれる。じっくりゆっくりぼよよんとしたよい気持ちだな。それが瞬間で終わらずに、ひねもす(終日)、じっくりと長くずっと続く。

 ところで。
 写真の白鳥陵だが、この話も余の中では若い頃からのたりのたりと想がうねってきた。忘れた頃に思い出し、思い出すとひねもす目をとじて、古代を想像してきた。

 保田與重郎『戴冠詩人の御一人者』冒頭文はさりげなく「河内古市の近くに日本武尊の御陵と傳へられる白鳥陵がある。」で始まっていた。このたったの一文が半世紀にわたり、のたりのたりと心象文になり心象絵となって余の想念を色付けてきた。文学とは、あるいは国語とは、たったの一文でも人を半世紀以上も支える力がある。

 さて。
 今朝も元気に切り餅二つをきな粉蜂蜜で食した。なかなかに、煎茶と合ってよいものだ。のたり~とな。

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2013年5月12日 (日)

小説木幡記:草喰なかひがし(そうじき なかひがし)探訪

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↑古市あたりの近鉄電車:日本はいつも「普請中」

 余はおそらく半年ぶりに京の夜の町へでた。
 京阪特急を終点の出町柳で降りてタクシーで五分ばかり東山に向かい、銀閣寺に入る前の、銀閣寺交番の丁度前にお店があった。ノアノアの手前になる。「なかひがし」という名は旦那が「中東」(ちゅうとうではなくて、なかひがしらしい)の姓で、草ばかり大原で集めて客にだすから、草食系の店名にしたようだ。もっとも、草食男子はここ数年のことで、店は余がこのあたりを彷徨って近所で安いランチを取っていた頃にはすでにあった。

 と、由来はいろいろあっておもしろそうだが、そうだな~、伝記作家なれば一代記を書けそうな軽妙洒脱凝り性の旦那だが、他のネットを見るとご自身もいろいろ執筆されているようだ~

 余はだいたい店の旦那や大将と話す性分ではない。一人黙々と食べて、サイナラする質だから店の人と懇意になった事例は記憶にない。しかし昨夜は、カウンター越しになかひがしの旦那が直接いちいち料理の説明をしてくれて、その合間に「お笑い」を提供してくれるので、ついつい引き込まれ、終わる頃には余もなんかかんかしゃべり出していた。(ただ、まだ病み上がりと腰痛で、2時間近くの座食で疲労があって、旦那ほどほいほいと話は出なかったがな(笑))

 その軽妙洒脱ぶりを記したかったが、それは付録であって、やはり料理の中身を書いておくのがよかろう。
 めずらしく、写真を撮るのは避けた。カウンターなので隣近所の客や眼前の旦那を含めた板前さん達(狭い調理場に総計7~8名の調理人や仲居さんがいた)の目もあって、撮影はしなかった。いや。撮影も気力が必要で、ああやはりまだまだ病み上がりよなぁ。

1.白味噌の味わい
 これは絶品だった。白みその迫力を知った。旦那に聞いたら、奥様の実家の味噌屋さんからのものだと。

2.蜂蜜を塗るということ
 鰹の生節というか、それに和製百花蜂蜜を塗ったとのこと。味わいが深くなるな。

3.米なのかご飯なのか
 途中で、全員(カウンターには10名ほどの客がいた)に一口ずつ、おくどさんから「米からご飯になる」途中の堅めの粥米が旦那の手で配られた。いや、これってすごい話だよ。

4.(お笑い)メインディッシュ
 めざし、香のもの、生麩とわかめなど~。旦那がめざしを指して「本日のメインです」と言ったので余はつられて破顔した。確かに評判高い絶妙の「朱色おくどさん」炊きご飯には、めざしこそが最高のメイン料理だよな。しかし、このめざしは、眼前で調理される料理の数点前から、炭火で「食速が同じ程度の客」に併せて丁度3尾焼かれていた。これだけの手間暇、繊細さにはなかなか出くわさないだろうな。

5.鯖のなれ鮨と大根一代シャーベット
 まず鯖のなれ鮨があまりに美味だったので旦那に「ちょっと、これここで造っているの?」と聞いたら、さすがにそうではなくて滋賀県の「朽木(くつき)」で造ってもらっているとのこと。滋賀県と言えばクセのある鮒ずしが有名だが、朽木あたりは鯖街道と言って日本海の鯖が京都に運ばれる道筋だったから、鯖の熟れ鮨が成熟したのだろう。
 で、そこに添えてあるのが大根のシャーベットや花や茎で、この季節限定の大根の一生をまとめ喰いできるとのことだった。

6.イワナあるいは鯉のぼりの鯉
 イワナも鯉もそれぞれ間隔を置いて味わった。二つとも、眼前の炭火で丁寧にじっくり焼かれたものだ。煮出しがかけてあって、身をほぐしては煮出しに付けて口にした。鯉の方は塩焼・透明な煮出しで最後にスープとして全部飲んだ。魚もこれだけ時間をかけて調理されると、本望だろうな。

*.と、いろいろあったが
 どれ一つ素材が絶叫しない、穏やかで繊細な草喰だった。いわゆる減塩に近い薄味だが、「うまみ」とか蜂蜜塗りにあらわれている独特の調理でまとめられていた。さすがだなぁ。
 数え切れない多種多様の山菜に目が回った。知った山菜と言えば、細ワラビの海苔巻きかな(笑)。ギボウシ、ゼンマイ、コゴミ、ああ幼少期になつかしい「いったんどり」、~そうそう鯉澄ましにさりげなくそえてあった山椒の葉、~余が知らない異世界に包まれておった。

まとめ
 この世にはお金やシステムや組織では作ることができないものがある。と、感動した。
 この料理はなかひがしの旦那一代で終わるかもしれないが、しかたないと思った。
 だんなが元気な間に、皆の衆、一度はあるいは四季おりおり「なかひがし」に行くべし。
 これだけの山菜を日々集め、調理し、新工夫を重ねるのはなまなかの商売気だけでは続かない。
 めったに予約が取れない! という事実神話もあたりまえだな。
 どんなに考えても、一晩で最大20席分しか用意できないだろう、と思った。
 日本料理の器、葵の皿、魚形の皿~朱色のおくどさん、~炭焼き。
 最後の最後に、4月16日に仕込んだという冷珈琲が小硝子器にいれて出された。あはは、うまぁ~い!
 (注:そえてあったのが直径5ミリほどの黒砂糖金平糖二つ、それと飛鳥時代のチーズかな、「蘇(そ)」)

諸元 そうじき・なかひがし
 606-8406
 京都市左京区銀閣寺交番所前 
 TEL 075.752.3500
 FAX 075.752.3508
 昼 12:00-14:00 (要予約)
 夜 18:00-21:00 (要予約)
 月曜日定休

諸サイトの一品
 北さんの京都Oh!ばんざい
 なお、ひごろはレストランに悪口雑言をあびせる「食べログ」読者達が、めずらしく「ながひがし」に好意的コメントを寄せていた。

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2013年5月 9日 (木)

小説木幡記:雑記帳>七十の手洗い(もとい、『手習い』)

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 まだまだ(のっけ笑)間があるが、最近七十の手習いとつぶやく事が多くなった。言い間違えて、手洗いと言ったまま話を続けていたら、なぜか爆笑があった。正確には「七十の手習い」に落ち着くだろうが、なぜかしら「手洗い」も棄てきれぬ~

<気温と腰痛の因果関係はあるかな:医療篇>
 ところで夕風呂にはいって、ノズルを消防仕様に回して腰を湯で強打するとえもいえぬ快楽に満ちた。そうなのだ、余はこの3月末頃から腰痛になって、以前blogでも愚痴をこぼした。ふむ。この腰痛が40度cくらいの湯に浸かり、強打水流で打ち付けると不思議なほどに楽になる。湯がもったいないとの気持ちも頭をかするが、この痛みには替えられぬのう。

 さてそこで、今日は珍しく風呂に入る前にもすでに腰が多少楽になっておった。まさか、簡単に腰痛が治るわけもない、それでも随分楽に歩き楽に湯船にはいり、気楽に湯船を出て体中をタオルで拭けた。~この原因をしばらく考えていたが、おそらく。そうなのだ?。今朝は京都は8度Cだった。桃山御陵の抜け道にある外気温計も余のRSの外気温計も8度だった。寒かった。

 しかるに、帰路国道一号線で外気温計をみると、な、なんとぉ~30度cだった。あわててRSの外気温計でも確認したが、やはり30度Cだった。
 腰痛が緩和したのはもしかしたら、この気温のせいかもしれない。してみると、北海道や東北は鬼門だな。やはり西南への旅のうれしさ、九州や沖縄に旅をすれば、しつこい腰痛も治るかもしれない。
 と、高齢ながら余はいつもかくのごとく推理推論能力を鍛え、医療篇70手習いをしておる。

<RPGコンストラクションシステム:ゲーム理論篇>
 不意に思い立って、ゲームビルダーというか、ゲーム創成メーカーというか、つまりはコンストラクションツールに郷愁を覚えた。もともとは30代の折に、RPGやアドベンチャーゲームを、当時のSONY-Basicとか、C言語でゼロから造っていたのが余の前半生じゃった
 さて、その詳細はまた別途おりあればまとめよう。

 それよりも、郷愁を覚えてネットをさがしたら、無料であったぞ!
 WOLF RPGエディター公式サイト
 数日前からさっそく熱中しだし、ついでにアマゾンで図書も発注したら、即日届いた。
 『WOLF RPGエディターではじめるゲーム制作:イベントコマンドとデータベースで、ゲームシステムを自由に作る/SmokinngWOLF著.工学社、2011』

 このシステムや図書に感動したのは、イベントドリブンとデータベース管理システムを上手に組み合わせて、複数大量の登場人物は当然として、イベント(遭遇するとかなんらかの事件発生)そのものの属性も実に丁寧に整理出来る所だな。
 いやいや今時のRPGコンストラクターなら当然でしょうという空耳も聞こえるが、世間はどうあれ、余はこの世界から30年以上も隔絶していた~それ故にSONYマシンで往時、全てのイベントと全ての要素項目を、すべてゼロから言語レベルで設定していったことを思いだし~ああ、感涙、号泣したわけである。
 まるで浦島太郎だな。
 しかし、70の手習いとして、「幻の古代王朝」のようなシステムをもう一度生きておる間に余生の間に作り上げたいというせつせつとした思いが、この数日余をさいなんでおる。

<純文学に目覚めたのか、無理矢理めざめかけておるのか:古典文学篇>
 つらつら思うに、この十年間余は結構「ミステリ小説」を造るのに気持ちを込めてきた。一応数作定稿ができ、今も2作ほど書いておる。しかるに、どうにも世に出ぬ(笑:)。いい加減にミステリにも飽きが生じてきた。これは挫折が連続すると、いわゆる「心が折れる」現象じゃね。やんぬるかな。

 そこで。
 某日、新潮、群像などの文芸雑誌をぱらぱら開けて読んでいると~、おお、「まるで、おもろない」という感想がふつふつと湧いて出た。
 ただ、筒井康隆の評論は結構活けていた。

 大昔、文学に志したのは、当時、余が本当に読みたい文学が無かったからである。もちろん、そのころは、安部公房とか、三島由紀夫とか、(限定:若き日の)大江健三郎とか、おもろい作品はいろいろあったが、どうしても細かな所で合わずに、自分用の物をつくりたくなった。
 だから書き出した~。
 と、この話も長くなるので、結論。

 余は、一週間前に純文学風の短編を書き出した。いつ出来るかわからぬが、それでも一行書き出した。
 と、これこそ余の70の手習い:古典文学篇じゃね。
 なぜ古典というかと? そもそも今の時代、もう現代文芸の言霊は消えた。だから文学するということは、古典でしかあり得ぬ。いや、なにも古事記、源氏物語の世界をさしておるのではない。現代に古典を記すつもりにならないと、文芸は成り立たなくなった! そう思ったね。

 さて、最初の問い。
 なぜに、七十の手習いが、手洗いに変わっていたのか。
 それは謎だな。
 生きている間に、解き明かそう。

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2013年5月 6日 (月)

小説木幡記・聖徳太子・磯長(2)

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推古天皇皇太子聖徳太子 磯長墓↑

 磯長墓(しながぼ、しながのはか)となっていて、陵(みささぎ)とは呼ばれていない。これは聖徳太子が摂政であっても、天皇ではなかったからであろう。例外的に古市の日本武尊は「陵」と尊称されているが、この根拠を余はまだ調べていない。もちろん、倭武天皇(常陸国風土記)という言葉が残っているくらいだから、余の心底では納得している。してみると、摂政まで勤めた聖徳太子さまが「墓」あつかいなのは、これは複雑な要因がからまっていたからかもしれない。実在と極端な非実在説にかかわらず、正史に名をとどめた太子は、母親の関係から蘇我出の皇太子であることも明白で、他方、事情はどうであれ正史は蘇我を逆賊扱いしている。どれほどの尊称に値するとしても、天皇位と同値にはできないのではなかろうか~。

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 近つ飛鳥博物館の展示に、聖徳太子墓の内部構造があった。現代の調査ではなくて、1929年頃の梅原末治(考古学者:うめはら・すえじ)の論考から、1300年代の「聖徳太子絵伝」→1790年の「乗如上人の実見録」→1879年の「富岡鉄齋の実見録」→1921年の「梅原末治の考証」である。それぞれの詳細は見ていないが、乗如上人の記録を写真でみると、東側から西に向かって、太子御棺、太子母の御棺、太子妃の御棺と、3人の合葬とわかる。
 昔は古墳や伝説墓を自由に見て回る余地があったようだ。京大名誉教授の梅原末治先生は、横紙破りの個性派だったらしいので、聖徳太子廟もずいずいと実見されたような想像をしている。


大きな地図で見る
 ↑叡福寺北古墳 (円墳・直系55m:聖徳太子廟)

参考
  景行天皇皇子・日本武尊・能褒野墓(MuBlog:亀山の能褒野は墓)
  古市の白鳥陵(MuBlog:古市では景行天皇皇子日本武尊白鳥陵)

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2013年4月30日 (火)

小説木幡記:聖徳太子・磯長(1)

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磯長山 叡福寺境内図 ↑ しながさん えいふくじ

 磯長(しなが)地帯は飛鳥時代の王家の谷(つまり墓所)と言われた。聖徳太子の時代だと、蘇我氏が隆盛を極めていた時代で、まだ「天皇家」とか「皇家」という言葉は使われず、「大王家」だったのだろう。
 太子廟には、621~622にかけて相次いで亡くなられた、実母の穴穂部間人皇后(あなほべのはしひと)と、聖徳太子、そして妃の膳部大郎女(かしわべのおおいらつめ)のお三人が合葬されている。この廟内の様子は、近つ飛鳥博物館での展示物でよくわかる。
 この地域の地図を眺めると太子廟から「近つ飛鳥博物館」にむけて、敏達天皇、用明天皇、推古天皇、孝徳天皇、二子塚~と御陵(あるいは真陵比定墓)が続く。この博物館のある「近つ飛鳥風土記の丘」にはもともと102基もの古墳がある地域だから、たしかに広大な墓所といえる。

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磯長山 叡福寺縁起 ↑

 聖徳太子信仰に関わる太子様へのさまざまな論(非在説まである)がある。日本書紀の蘇我氏隆盛と太子の話と大化の改新あたりまではすべて虚構という説もあって、日本の正史はまるで小説のようだなぁと感心したこともある。しかし「 叡福寺縁起」を読んでいると、後世の大インテリ、知識人達(空海、親鸞、良忍、一遍、日蓮、証空)がなにはともあれ太子様の御廟にお参りしたというのは、太子信仰の骨太さを味わう。実は余の職場にも、太子堂が設置してあって丁寧に使われている。それほど聖徳太子の我が国、および仏教に関する貢献は長い歴史の中で認知されてきたのだろう。
 ありがたいことである。

参考
  叡福寺(太子町観光情報)
  磯長山 叡福寺
  近つ飛鳥博物館

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2013年4月28日 (日)

小説木幡記:黒笑話「手術は成功しました。なお、患者は死亡しました。」

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 この数週間ずっと腰痛に悩まされている。いやしかし腰痛のプロらしいことは言わないでおこう。腰痛は直立歩行人類のさけられない疾患だとか、腰痛は1年や2年は洟垂れ小僧、10年かかってやっと大人の腰痛~とか。腰痛で糊口をしのいでいる関係諸団体は多いな。整体・カイロプラクティック・あん摩・指圧マッサージ・接骨・柔道整復・鍼灸~整形外科。ああ、膏薬や貼り薬を出している製薬会社。

 ということで、ある日の大病院、生きては帰れぬ、血も氷る禍々しい某診療科、患者の少ない若先生(若先生の技量は最高なのだが、この地点までたどり着く患者は実に少ない。医療マニュアル分類細目の通りに患者を振り分けると、たどりつく患者は数パーセント(笑))と、えらい明るい余との診療対話。まるで「あー、この患者の胃は全摘出しましたから、以後二度と胃がんには罹患しません(実は友人が胃を全部取ったので、この黒笑話はここだけの)、ケケケ」話。

 余「先生! 腰が痛い。なんか、よく効く貼り薬、膏薬はありまへんか?」
 若先生「腰痛を、僕に言われてもね。そのうち治りますよ。なんなら隣の整形外科に行きますかい?」
 余「いやいや。そんなとこ行ったらまた、レントゲンとかCTの、MRIのとかいわれるでしょう? 私の放射線や電磁波の被曝量は相当大きいですよ。(格言:死にたけりゃ、病院へ行ってこいや)
 若先生「うむふむ、困った人だ。じゃね、例の痛み止めと、よく効く大型絆創膏をだしておきますよ。ああそうそう、痛みが落ち着いたら、ラジオ体操とか、腰痛音頭でもためしてくだせ」
 余「ああ。あの痛み止めねぇ。カロナール200mgでんな? 昔使っていたロキソニンとかだったら、こんな痛み一発でとまったけどぉ。カロナールはいまいち効きが弱いなぁ」
 若先生「贅沢言わずに、我慢我慢。ロキソニンは、免疫系を破壊するし、今つかっている薬とは飲み合わせ、食い合わせが悪くてねぇ」
 余「食い合わせ? というとぉ」
 若先生「ウナギ梅干し級、あるいはスイカ天ぷら級やね」
 余「ほぉ。あ、そうか。JR乗るときは、阪急天蕎麦や京阪天蕎麦は食べんほうがええちゅうことでっか?」
 若先生「ようわからんな。要するに、この際ロキソニンは駄目」
 余「へいへい先生、おっしゃる通りに致しまする(格言:薬は毒、さじ加減一つでお釈迦様)

 ということで、余は大量の「モーラステープL 40mg」を大事に抱えて帰宅し、腰に2枚はって、カロナールをとりあえず2錠(一挙に400mg)飲んで、買い置きの腰痛バンドで補整下着して、熱い茶を飲んだら、すこしだけ楽になった。
 まっこと、腰痛とは人類の宿痾よのう。

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