2012年1月26日 (木)

小説木幡記:心が病むと言うこと

Sdsc_0152 世間や同僚や学生や余自身や~を眺めていて、心が病むと言うことはどういうことなんだろうと、考えることがある。

 ただ、相対化すると、何割かの人が余を眺めて「あの人は、心が病んでいるな」と、思っているのかもしれない。
 いろいろな病み方があろうが、明るくて騒々しい病み人を阪急電車で二駅、数分間眺めていた。初老の男性だった。ミステリ好きか警察すきか検察好きなのか、あるいはそういう世界ですごした経験があるのか、あるいはTVドラマのミステリ物によく出演していたのか、ファンなのか、大声でやたら「捜査」とか「証拠」とか「現場」とか言い出して、誰か若い者を叱責している様子だった(全部、独り言だ)。ふ~む。

 学生達の場合は。
 余は一応センセ役なので、騒がしくなく静かな心の病み人に出くわすと、それなりの対応をしなければならない。気にしなくてはならない学生数が、赴任した20年前よりも増化したとするのか、あるいはその頃は余自らのことに気が向きすぎて、学生のことまで手が回らなかったのか(笑)、ともかく近頃スロット(要するに余の記憶管理域の小部屋)数が増えてきた。何かをするわけではない。気になると余は小部屋にその学生の名札を貼り、なにか発生するとそこにメモを投げ入れておく。要するに顔色を見ているわけだ。欠席数が増えてくると面談もする、……。

 同僚達の場合。
 余がいろいろしなくても、大抵は他の同僚達や上司達がなんとかかんとか破綻しないように持って行く。余もその破綻しない温存列車にしらぬまに乗せられているのかもしれんがのう。そういえば、おもいあたるふしもあるなぁ~ケケケ。

 世間。
 これは相当に狂っておると思う。以前はまともだと思っておったが、今の眼からみると相当におかしい。どうおかしいのかといちいち記していくのは、日曜評論家では出来ない。
 ただ、こうはいえる。
 世界を動かしているのは大体50代の男女が参謀本部で、40代の男女が実践指揮部隊で、30代が尉官クラス。そして20代が突撃隊。とするなら。
 50代の男女の考えや根性やねじくれた思想や世界観で世界を動かしていることにナル。どうりで。この何年間、いやこれからも、これまで一応敬意を持って眺めていた政治や経済の中枢達の言動が、本当に馬鹿馬鹿しく思えてきた~。考えて見れば、未熟で経験不足でアホな連中が、世界や余の老後を動かしておるのだ。

 と。相対的に見るならば。余も、小さな世界で、そう思われてきたのだろうなぁ、と長嘆息。おもいあたるふしもなきにしあらず。
 世界は動く、万物流転、パンタレイ。合掌。
 心が病んでおると言うよりも、人間存在自体が歪なのじゃろう、この虚空のただ中で。

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2012年1月24日 (火)

京静華(京都市・岡崎)の杏仁豆腐

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 京都岡崎、観世会館の西にひっそりとお店がある「京静華」に行ってみた(ワープロ変換は大抵、「精華」とでるが、「静」の華である)。まるで美味しんぼ世界だった。要するにひっそりこっそりしすぎて、普通に生きているとなかなか気が付かない。私は暇だから昼日中にFMラジオを聞いていて、その店の噂を聞き、その日の内に予約した。

 グルメでもないし、たべなれているわけでもないので、写真をまとめて記録しておく。もし言葉でいうなら、ふんだんに京野菜を使って、丁寧に、出来るだけ無駄油をぬいて、あっさりと、しかも中国3000年の歴史を偲ばせる豊潤な味わいをかもし出した。

 料理は全体芸術と思うなら。
 もう少し言葉を尽くそう。
 インテリアがすっきりしていた。お皿や器が清潔・上等に思えた、トイレが美しかった。お店の人が実に懇切丁寧に接してくれた。ご主人が、見送りまでしてくれた。気持ちがこもっているなぁ。

 そんな中でも、絶品と思えた品目を三点あげておく。人によって好き好きもあるだろうが、これまでも意外にこういうものに心をうばわれてきた。もともとヒラメやカレイの煮魚が好きだし、スープは飲むのじゃなくて食べると考えてきた。そして、デザートはそれまでの料理を全部白にも黒にも変えてしまう恐ろしい魔力を秘めた食べ物なのだ(笑)。

↓ひたひたスープに蒸したヒラメ
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↓スープ: すっぽんやトリフュ入りの、かみしめるお味。
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↓杏仁豆腐: 絶品。今夜からは他の杏仁豆腐がまがい物に見えてくる。
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京静華、関連ネット記事
☆ 門上武司のおいしいコラム (京 静華)  
☆ 関谷江里の京都暮らし : 岡崎の美しい中華 「京、静華」 2008年12月
☆ いつか・住もう・京都 「京 静華」


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京静華は中央建物二階の右端↑

追伸
 電話は、075-752-8521
 夜だけのようで(2012年1月時点)、コースが8000円だった。贅沢したので三日間ほど絶食する。


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2012年1月23日 (月)

小説木幡記:二尊院と西行庵跡や定家卿時雨亭跡

Simg_7546 この正月あけに嵯峨野で鴨なんば蕎麦をいただいたあと、思い立って二尊院を訪ねてみた。もちろんそのことあるをみこしていつも重い一眼レフカメラを車中に置いておるが、それは後日にしよう。二尊院というお寺は小学生のころからなじみ深かった。嵯峨小学校からは指呼の位置だし、第一に同級生にそこの娘さんがいた。お寺のことはよく存ぜぬので、今も同級生の兄弟とか縁者がおられるかどうかはしらぬ。ただ、同級生は余が小学校5年生のころに重い腎臓病をわずらい、はかなく他界した。お葬式のときに、友人の男子が本堂で弔辞を読んでいたのがいまでも思い出される。もう半世紀以上経ってしまった。

 門を入って左側に、西行法師庵跡の石碑があった。
 たしかに、辻邦生の「西行花伝」では、嵯峨野の奥で西行が歌会に参加していた描写が妙に生々しく余の胸裏を行き交った。森浩一の「京都の歴史を足元からさぐる」の嵯峨や嵐山を扱った巻に、西行井戸のこととこの二尊院総門入る左側の石碑についていろいろ記してあった。

 西行が短期間でもどこに庵していたかは興味深いものである。
 ところで後世の鎌倉時代、新古今和歌集に深く関係した藤原定家が、このあたりに庵して時雨亭(しぐれてい)と号し、あの有名な小倉百人一首を編集したとの話がある。新古今和歌集には西行の歌が94首ともっとも多く採録されているのだから、定家が西行のことを思い出して、二尊院のあたりに庵したのは、本当なんだろう。

 さて。
 ところが、時雨亭がどこにあったのかはこの地域で少なくとも3カ所ある。一つは嵯峨小学校近くの釈迦堂のさらにその近くの厭離庵。もう一つは二尊院より南下して東に落柿舎があって、その南西に常寂光寺がある。そのあたりとも言われておる。

 一番平地が厭離庵あたりで、常寂光寺は少し坂の上、二尊院の時雨亭跡は裏山の法然廟を左に登ったところとなる。今夜の余はそれぞれの時雨亭跡の真贋を糺す程の蘊蓄はないが、実際に行ってみると二尊院奥は山深い。定家は卿と呼ばれる上級貴族だから、ちょっと外れすぎだな、平地の厭離庵か? とも思うが。~まあ、よかろう。いつかいろいろ調べてみよう。


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↑厭離庵、二尊院、常寂光寺

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2012年1月22日 (日)

NHK平清盛(03)源平の御曹司:源義朝という男

承前:NHK平清盛(02)無頼の高平太:白河法皇崩御
NHK大河ドラマ公式あらすじ

先付け
 今朝、ドラマのあらすじを眺めていたら、「瀬戸内海で自称船の警護役」をしていたと書いてあったので失笑してしまった。というのも、現代用語で「自宅警備員」という職業があると學生達の話題から学んだが、これは要するにニート、引きこもり、家にこもった人をさすようだ。隠遁者との違いなど不明な点は多々あるが、この「船警備員」も、清盛が一門のまとめ役、武門の長となることから遁走し、政界財界とも断捨離した状態をさすのだろう。平家の御曹司がこのていたらくのままでは、なかなかドラマが成立しなくなる、のう。

 ちなみに御曹司は、当時の言葉では源家によく使われ、後日の平家では公達(きんだち)とよばれた。曹司とは部屋で、若い者の部屋住みをさし、名門名家に多いから、ええとこの坊ちゃんらしい。源家だと似合うとも思った。というのも、後の源九郎義経だが、鎌倉の兄・頼朝のもとへ初めて行ったとき、兵ももたないこの弟に頼朝は部屋を与え、それなりの待遇をしただろうが、回りの者達は、九郎殿とも呼べないし、弟ごさまでもないし、御曹司とよんでいたような、そんなイメージが湧いた。

さてみどころ
☆ 清盛が京の都の雑踏で遊んでいるようなくだを巻いているような場面で、朽ちかけた羅城門(かどうかは?)の2階を写していたが、とてものこと週間TVドラマとは思えなかった。深みや汚れ(笑)や精細さは、当時の平安京を俯瞰している気分になった。
 今回の映像は、良いと、毎回思っている。
 随分丁寧に根気よく写しているせいか、本当に平安京のスラムを歩き回っているような気分になった。

☆ 璋子(たまこ)さんはいささかぷっつんというかあっけらかんとしているというか、ご主人の「鳥羽上皇」に対して息子の崇徳天皇のことを、「白河院の種ですし、叔父子(おじご)といってよいのですから、かわいがってやってください」という意味のことをさらりと言ってのけた。
 つまり白河院の息子が堀河天皇で、その弟が崇徳天皇だから、堀河天皇の息子である鳥羽院からすると、自分の正妻の子である崇徳天皇は、叔父であり、自分の子であるという、じつに『暗黒館の殺人/綾辻行人』的なアクロバットさ加減である。

 勿論、崇徳天皇が璋子さんと鳥羽上皇との間の本当のお子さんなら、こういうことはブラックジョークにすぎないが、その後の騒乱を見ると、実話のような気がする。
 今夜もりょうさん(堀河局)が縦皺をよせて、鳥羽院のことで心を痛めていた。
 (今回の女優陣はいつにもまして、おのおのがた、濃い女性が多いな。このりょうさんと杏さんは双璧だ)

☆ さて、後の西行法師(佐藤義清のりきよ:藤木直人)とか源義朝(玉木宏)とか、今をときめくイケメン君たちがそろそろ姿を現してきた。いつぞやのガクトさんほどの異様さではないので、普通の意味でのええ男という感じがしますな。いやはや史実の上でも、西行さんはなんと北面の武士として、うわさの待賢門院璋子さんと道ならぬちぎりをもってしまうし、また、義朝さんは、正妻との間には後の鎌倉幕府創始者頼朝の父となり、千人に一人の超絶美女「常磐御前」とは天才義経の父となるわで、~史実の色男と現代男優の色男ぶりとが交錯して、なんとも不思議な雰囲気がありました。

★ ということで、来週あたりは、平忠盛が闇討ちに遭うとか遭わぬとか、そろそろ清盛さんも根性いれなおさないと、なんてこった、大変だぁ~。

◇予習復習
 清盛・義朝の年齢差は5歳だった。そのことをまとめると次のようになる。

   平清盛 1118~1181 64年間
   源義朝 1123~1160 38年間

 清盛と義朝がともに世間で一躍名を上げたのは保元の乱だったから、そのときの年齢を次に示す。
 保元の乱 清盛・満38歳 義朝・満33歳 (1156年 保元元年)

 次に3年後、清盛が勝利し武家の代表となり、源義朝が破れ殺害されたのは平治の乱だったから、そのときの年齢を次に示す。義朝が殺害されたのは東国へ逃走中に身を寄せた尾張国だった。
 平治の乱 清盛・満41歳 義朝・満36歳 (1159年 平治元年)

 清盛が5歳年長だった。年齢差が関係するのかしないのかは、多分無関係と思うが(笑)、保元の乱の様子を『西行と清盛/五味文彦』では、わかりやすく、清盛は近畿一円から家の子郎党とその配下による兵300を集め、源義朝は東国を中心に主従関係にある兵200を集めたという。同書によれば、乱平定後の恩賞は平家に厚く源家に薄かったよし。清盛は播磨守(兵庫県南西部)となり、主立った親戚が昇殿を許された。義朝は右馬権頭(うまごんのかみ:兵馬権・警察権のような職の次官あたりか?)で、親族ともども昇殿を許された。播磨守とは差がある。

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2012年1月21日 (土)

小説木幡記:JMRIだけでなく、Appleが冴えてきた: iBooks Author

Simg_7547 昨年は電脳関係が豊かだった。今年も続き、余は日々快調な思いが胸に溢れる。

1.DCC: 鉄道模型
 これはJMRIの深さにますますのめり込んでおる。と、実は別の事情もある。国産のDCC用品でDP1という機器がある。これを国際的なJMRIと接合させるために、南福岡九州急行鉄道さんがアプリケーションを開発し、以前から公開されていて、余もこれになじみ初めて、実に満足である。
 JMRIは底深いのでいろいろな利用法があるが、余は必要な列車のスロットル(制御板表示形式)をPC画面にすべて開き、さらにポイントもすべて番号単位で開き、マウスクリックするだけで、必要な列車、必要なポイントをまとめて操作出来る状態にして使っておる。

 Python、Jythonでプログラミングする醍醐味よりも先に、画面にすべてを描きだし、ボタン操作するだけで車両がある程度自由自在に個別に扱える醍醐味を、昨年から味わっておる。
 これは想像以上に素晴らしく思えた。

2.iBooks Author
 昨夕インターネットニュースでこの、iBooks Authorなる文字をみつけ、「Author?」と引っかかり、もしかしたら電子書籍オーサリングシステムかぁ~と思い、記事を読んだらまさしくそうだった。しかし、昨夜は疲労激しく眠ってしまい、今朝確認し、夕方からダウンロードして使い出した。無料で日本語化されていた。

 今は詳細は語らぬ。
 ただ、余は電子書籍制作に関して学内の某所から研究費をいただいておって、昨日までずっと考え込んでいた。要するに、資源、データ要素はすべて集めていた(Word文書、写真、ビデオ~)のだが、一昨日までの世界では、それを自由自在に図書化するにはものすごい年季というか技術とそして資金が必要だった。
 報告書を書くのはすぐそこに来ているのに、事態は絶望的だったので、秋からはとりあえずのPDF化を始めていた。勿論、それだけでも2年間の授業や研究成果のまとめとしては意味を持つのだが。

 で。昨日から今日にかけて。
 余が求め、想像し、考えていたところの電子書籍オーサリングシステムを、アップル社は無料で世に問うた。
 なかなかに、世の中は面白い、脳。

3.それにつけても作品採点、繁忙極致
 余の葛野職場は従来からICT先行投資がされていて、成績管理や出欠管理には実績がある。だから、昔に比べると随分と気楽になったのだが~しかし、學生達の制作した作品やレポートを自動判定するほどには革命が進行していない(笑)。依然として、学生の作った色鮮やかな目録やレファレンスチャートは、余が肉眼でながめ、頁をめくり、採点しておる。(うむ、紙質にねばりがあって、良い脳~とか、ふむインク色に潤いがないな。これは廉価再生インクを使っておるな)
 いやはや採点、これさえなければ大学教員はうむふむ気楽じゃが~しかし試験採点が無くなれば、余は何をしてよいのか、立ち止まってしまうぞよ。

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2012年1月20日 (金)

小説木幡記:言葉の背景「先生とK」

Simg_7553 「先生」と「K」といえば夏目漱石の「こころ」のことだが、先週、ある若い同僚の近代文学講義を授業参観した。非常に優れた講義として、人から参観を薦められたわけだ。実は昨日も続きがあったのだが、すでに余は猛烈な、いつ終わるともわからぬ目録作品の採点に入っており、欠礼した。で、一週間前の授業内容の詳細については措く。ただ感動が実に深く、機縁あって、その先生と話をする機会が生まれた。同じキャンパスにいても学部や学科が異なると、よほどのことが無い限り、エレベータ中での立ち話程度しか生まれないものだが、幸運にも専門家の話を直にうかがうことができた。

 そのとき、余はいささか勘違いをしてどうにもサマにならない質問をした。
 そこで、一週間も経ったので冷静にそれを考え直してみた。

 つまり、小説作品中で「K」というよそよそしい記号を使ったのは、「先生」も漱石もKに対して相当に距離を置いた、余の感触では冷淡な関係を持って、描いたのでは無かろうか、という解釈があったとしよう(笑:事実あるようだ)。で、余は「しかし、先生といわれるほどの馬鹿じゃなし、という地口があるほどに、『先生』という呼称も冷淡、突き放した記号用法ではないでしょうか?」と、言ってしまったのだ。

 若い同僚は勿論首をかしげたが、余が高齢(爆:たしかにな)だったせいか、強い反論はなく、「いえ、明治末ですが、そのころはまだ「先生」という呼称は世間的に上等だったと思いますよ~」程度で終わった。

 で、一週間たって思い返した。記号・Kと、記号・先生とでは、後者は「師」とか「老師」とかいうほどに値打ちのあるもので、それが明治大正時代だと、まさに現代のような軽く扱われた「センセ」とか「(代議士)先生」とかとは大きく異なると実感・気付いた。

 ということで、現代でも過去でも、ある言葉がどんな風な意味合いで使われたかを考えるのは大切だと思った。そういう考証は難しいことだが、おそらく象牙の塔の住人はそういうことを解明するために時間と情熱とをかける必要があって、それあってこそ現代「先生」と呼ばれるにふさわしいと思った。

 余の分野でいうと、中国なら秦の始皇帝時代、日本でも飛鳥時代や奈良時代の初期には、「本」といって直ちに現代の紙図書を想起するのは間違いの元だということがある。紙の図書が普及する前に、長い時代、竹や木に文字を書いてそれを紐で綴ったものが多かった~。また、以前にうかがった、萬葉集時代には雨が降ると恋人同士の逢瀬はあり得ないとか~、本当に現代から考えると想像もつかない世界があったと、なかなか「先生」が居ないとわからないものだ。

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2012年1月19日 (木)

小説木幡記:日々朝型人生

↓梅小路蒸気機関車館のジオラマ
Sdsc_0105 毎朝のことだから随分時間をかけたセレモニーだなと、我ながら思う。いや、たいしたことではない。起床から外にでるまでの手順だ。

 目覚める。99%は「うむ、よく寝た。まだ暗いな。おお、4時か、起きるべえ」となる。
 部屋の外には99%、ハルキ猫君が控えておる。冷蔵庫に行って、鰹節をほんのひとつかみ、提供する。
 うがいだけをする(歯を磨くと、味わいが無くなる)
 トイレに行く。
 90%は、トイレのドアにハルキ猫君がぶち当たってくる。要するに、「食べたぞ~、次!」
 そこで8キロ近い猫君を抱きかかえて、外にでる。約50m歩いてそこで解放する。
 まるでわんこみたいなハルキ猫君はそこら中を「くんくん」と嗅ぎ回る。
 やがて家に走って帰る。余は後から付いていく。

 さて、トースト。
 隔日ごとにゆで卵をつくる。
 毎日食べると、さらに太るから。気を付けよう。
    丸い方をカツンとあててヒビ入れる。(抜群に美味くなる)
    沸騰とともに瞬時にガスを切る。
    4分間放置する。
    正確に時間とともに冷水で冷やす。
    完了。岩塩で食べると、半熟で美味しいぞ。
 トーストにはバターを小指の先。蜂蜜を親指の先。
 飲み物は冷茶。

 次に新聞。
 一面と三面記事と文化欄を読む。
 やっと洗顔。歯磨き。
 着替える。
 ハンカチやティッシュ。靴下まではき、完全即時外出可能まで整える。
 PCをオン。
 メルを見て、MuBlogを書くこともある。
 大体午前6時~7時ころに出発。
 葛野に着いたら、まだ早いので、落ち着いて朝寝する(笑)。
 8時半頃に第二の起床をして、講義や演習、あるいは校務に備える。

 うむ。時間を湯水のように贅沢に使っておるな。
 しかしその分、就寝は午後9時ころかな。
 そういう日々である。
 (寝てばかりいるような気にもなる)

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2012年1月18日 (水)

小説木幡記:芭蕉・西行と讃岐の崇徳院・白峯陵

 NHK平清盛のことで記事を書いていたとき、京都の白峯神宮に行き着いた。そこでなにか記憶の断片が脳の片隅で光り、気になっていた。そのときは、芭蕉との暗合だった。しかし讃岐の白峯陵と縁の深い人は、崇徳院と同時代の西行で、その西行を通して近世の芭蕉が結ばれると言う話を、保田與重郎の『現代畸人傳』で眼にしていたのだ。この、西行と芭蕉の結び付は、保田先生の特徴で、余も先生のいろいろな著書でそのことについて眼にしてきたわけだが、なかなか知識や情感が余自身の深い血肉になっていなかったせいか、NHK大河ドラマの先読み(保元の乱)をしても、思い出せなかった。

 今朝、現代畸人傳を紐解いてみると、崇徳院と西行、後醍醐天皇と芭蕉、そして西行と芭蕉という結び付に日本の文學史の命のようなものがあるという話があった。少し長くなるが、以下に引用しておく。

 後鳥羽上皇の少しさきの時代のことだが、崇德上皇に對し奉つた西行のこころを、近世日本文學史の序章とすることは、まづ穩健な考へ方であるが、西行の身のおきどころとした、西行文學の生命の終着は、白峯陵だつたのである。このことあつて、芭蕉の志の生成の理も理解できるのである。わが國の思想史上に南朝を大きく顯揚したのは、水戸の義公であるが、文學者として始めて、太平記の南朝を詩人のつひの心のなげきとして、文學史上にかかげたのは、他ならぬ芭蕉である。それが元祿文藝復興の詩だつた。吉野山にのぼり、西行庵のとくとくの淸水に身心を淸めた芭蕉が、いよいよ吉野山の數ある名所舊蹟の中へ入つていつた時、すでに日は黄昏に近づいてゐる。この芭蕉は名ある名所舊蹟の數々をさしおいて、まづ後醍醐天皇の塔ノ尾陵に詣でるとしるしてゐる。これはわれ一人ゆく人の激越な文章である。~略~わが朝文人の風習に從つて、芭蕉は白峯陵の西行を先蹤とし、目標としたのである。しかし白峯への旅はつひに生命ある間に實現されなかつた。芭蕉は白峯陵をさす途中、大坂で死んだのである。(現代畸人傳・天道好還の理/保田與重郎)


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↑崇徳天皇白峯陵:白峯寺

参考
 白峯寺公式サイト

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2012年1月17日 (火)

小説木幡記:DNC:センター試験

Sdsc_0143 数日前、日本中のたくさんの若者(高校3年生が中心かな、50万人以上)達が一斉に同時刻、同一の試験を受けた。二日間だった。

 余も某所で、その国語の時間に試験監督をした。
 何科目も受ける生徒達も大変だが、試験会場を設営して、準備して、監督するのも難行苦行だ。余なんかいつもは気楽な大学生活(笑)しておるが、毎年いまごろ、役(えき)のような監督が回ってくると緊張して前夜も眠れなくなり、当日は朝から青い顔して控え室の机に突っ伏しておる。
 まして受験生はずいぶん緊張しているから、ちょっとしたことでも気分が落ち込むようなのだ。
 だから、日頃の余からするとお笑いのような真似をしておる。

1.前夜から水断ちなのだ。
 試験監督の一人がうろうろ廊下に出てトイレへ直行するのはよくない。
2.前夜からスーツや靴を整える。
 年に数回、旗日にしか身につけないネクタイやスーツを用意し、靴音のしない、それでいて目立たない靴を用意する。もちろん靴下の色を赤とか紫にできるわけがない。
3.斎戒沐浴
 一応は教室を巡回するから、ニンニク臭も、加齢臭も、オードトワレ臭も、整髪臭もすべて御法度。まるで無色無臭透明人間になったような~。
4.睡眠十分にとる
 監督中に居眠りしたり、欠伸したりすると、たちまち受験生から訴えられる。
5.監督前
 スマホを研究室に置く。もっていくと無意識にスイッチを入れて、着信音に軍艦マーチなんかがなると、アウト。
6.試験前試験中試験後の表情
 お通夜表情を練習する。受験生に歯を見せて笑うなんて、天誅をうける。

 さて、相当に長く社会生活をしている余にそこまで細々しく強いるのは一体どこのどなたか。受験生さまなのか。それとも日本國の官僚たちなのか、政治家達か、保護者たちか、~あれあれ、余の属する組織か?

 おおもとの、独立行政法人・大学入試センターのサイトをひらき、「何故、こういうセンター試験をするのか」を調べてみた。すると「センター試験の役割」という頁があって、そこに事情がいくつか記されていた。

 ふむふむ。
 なるほど。
 ほお。そうなのかい。

 と、50万人も60万人も毎年一斉に受験してきたセンター試験の事情をながめてみたが、実に日本人らしいというか、学歴世界というか、形式的というか、無意味というか、一体こういうシステムをそもそも発案なさったのはどういうお方なのか、と興味が湧いてきた。善意が仇になるとはこういうことなのか。と、この年になって眼から鱗が落ちた。教育思想の一つが上手に官僚や世間を巻き込んで、人質取られた親御さんの賛同を上手に引っ張り出して、センター入試を超精密システムと同じく完璧に動かすことが日本の未来を保証する。と、そういうノリだな。いや、元来科挙試験に強い官僚が先導したのだろうな。

 教育は難しい、と余の心底の吐息が今、でた。
 義務教育が国家百年の計を支えた。しかし全国一斉「センター入試」が百年の計を支えるかどうかは疑わしい。壮烈な無駄だったと、余は思う。

傍証
 試験の手際を失敗したくらいで、受験生かわいそうとか、試験関係者を犬畜生扱いしたり、試験中に着信音がなったくらいで監督者を厳重注意したり、あるいは試験会場が大騒ぎになったり、~。非現実的な世界を試験中だけに適用し、破綻したからと言って大騒ぎするのは、ほんとうに、みんな正気なのか? この試験さまのおかげで、日本の大人度は著しく減じた。

 余はシステムに対して一家言ある。
 破綻するようなシステムを提案したり採用するのが、一番の間違いなのだ。
 想定外も想定内も関係ない。破綻しないシステムを導入すべきなのだ。もともと全国一斉同一条件なんてのは、発狂システムだな。そういうことは、曲芸であって、毎年上手くやってこれたとしても、褒められることではない。
 1点の違いに数千人が居る。怖い世界だ。発想したひとは、そういう世界が好きだったんだぁ。それに容易にほいほいと乗るのがわが愛すべき日本人なのかもしれないな。

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2012年1月15日 (日)

NHK平清盛(02)無頼の高平太:白河法皇崩御

承前:NHK平清盛(01)ふたりの父:白河法皇と平忠盛
NHK大河ドラマ公式あらすじ

ちょっと小鉢の、あて
 数日前に神戸市の市長さんが、この大河ドラマの画面が汚い! と怒っていらした。あとで記事を読むと、その市長さんの発言に対しても、反対して怒った人が沢山いたようだ。神戸は、清盛が福原遷都をしたというか、別荘を造った縁のあるところだから、そこの市長としてはご自身の美学、様式美にあわせて、NHKドラマにケチをつけたのだと思う。今回のことは「いやはや市長さんでもご当地NHKが気になるのか」とおもって、笑っただけですませた。私も大人になったもんだぁ(笑)。

 神戸市長さんや世間のきれい好きには、面白くないだろうが、いかにも歴史物という仮想現実感を出すには、今回の画面のよごれ、汚さが、私の気持ちをぐーんと引きずり込んだ。視聴率がどうのとあるが、あはは、「余が心底愉しめればそれでよし」と、思っておる。

さて見どころは
 平清盛は殺生禁止令にとがめをうけた自分の友達の父のことで白河法皇に会いに行くが、結局「物の怪の血を分けた男だから、生きながらえた。清盛!」と渇を入れられて退散した。後日、舞を父の忠盛に習い、白河法皇の前で披露するが、法皇からは「武士らしい舞であった」と言われた。

 将来の乱を見越したような伏線として、今夜も鳥羽上皇(三上博史)と璋子(たまこ)(檀れい)さんの絡みがあった。その気持ちの複雑さを、上皇が璋子の付き人堀河局(りょう)に愚痴るのがなかなかぐちぐちしていて、ドラマらしかった。しかし堀河さんの反応が今少しわかりにくかった。彼女は後世、西行さんと歌のやりとりをするほどの才媛で、私の考えでは、璋子さんと堀河さんがいれかわってもおかしくないようにおもえたが、……。ようするに璋子さんが鳥羽上皇の寝所に入ったとき、堀河さんが悲痛な顔をなすった。これは鳥羽上皇のお苦しみ、お気持ちを察しての上か、あるいは、鳥羽上皇のお手が堀河局にかかっていたのか。千年も昔のことだからよくわからないが、女優のりょうさんを起用するくらいだから、鳥羽上皇と堀河局とに親密さがあったと仮定してのこととも思える、なあ。
 ともかく、鳥羽上皇のお立場は、堀河さんにぐちるほどにしんどいことだったのは事実なのだろう。待賢門院璋子さんは幼女のうちから白河さんのそばにいてその庇護と濃密な愛(今なら完璧なロリータ役だね)のもとで育てられ、性格なのか資質なのか、男性に対しては自由に気持ちや身を任せていたふしがあり、さらにそれだけ多くの男性を惹きつけるだけの美貌と気質とを備えていたのだろう。

 そうそう清盛や後の源義朝のことだが、まだまだ若い内はなんとも言いようがない。今夜の清盛は昔から見てきた織田信長の若い頃の逸話に似ている。初代・中村錦之助の信長の茶筅髷や荒縄の帯を思い出してみていた。しかし実際清盛の時代の元服がいくつくらいかは調べぬと分からぬが、十代中頃と想像する。するとその年で、実父が忠盛ではなく法皇かもしれないと噂を聞けば、おかしくなってぐれてもしょうがないな(笑)。

 おもしろかったのは深夜に清盛が落馬して大声で愚痴っていたとき、「そんなことはどうでもよい、助けてくれ」という声が天から聞こえたのが実に良かった。その声の主が高階通憲(後の信西)(阿部サダヲ)だったのだが、俳優の声調がなかなか気持ち惹かれるところがあった。

 さて来週は、源平の御曹司がライバルとして顔を合わせるようになる。青春じゃねぇ~。

◇予習復習

保元の乱:保元元年(1156)
 今夜白河法皇(伊東四朗)が崩御されたが、やがて鳥羽上皇(三上博史)が権勢を持ち、さらに鳥羽上皇が崩御される。歴史はどんどん進んでいく。と、保元・平治の乱になるが、これは高校生の時の日本史で、分けがわからずに往生した。要するにここで、平清盛が頭角をはっきり出すことになる。

 つまりこのとき、鳥羽上皇の崩御とともに天皇家で皇位継承争いが生じ、これに摂関家と武士(源氏、平氏)とがそれぞれ身内間で別れて、保元乱が生じた。勝利者は弟の後白河天皇派で、敗北したのは兄の崇徳上皇。

A:天皇家
  ○後白河天皇(松田翔太)+美福門院藤原得子(なりこ)(松雪泰子)
  ●崇徳上皇(井浦新ARATA)→讃岐で憤死
   その後、上皇の恨みと思われる凶事が重なり、
   京都市左京区聖護院塔頭の積善院に「人喰らい地蔵:崇徳院地蔵尊」が作られ、怨霊鎮めがあった。
   また、京都市上京区白峯神宮に祭られ、神となった。
   注記:長岡京時代の早良親王を鎮めた崇道神社と、保元の乱の崇徳上皇を鎮めた白峯神宮
       とを間違って訪れる人のいることをトリックにしたミステリ小説があった。
   注記:日本三大怨霊のお一人。菅原道真(天満宮)、平将門(神田明神)、崇徳上皇(白峯)のお三人。

B:摂関家
  ○藤原忠通(堀部圭亮)
  ●藤原頼長(山本耕史)
C:平氏
  ○平清盛(松山ケンイチ)
  ●平忠正(豊原功補)
D:源氏
  ○源義朝(玉木宏)
  ●源為義(小日向文世)+源為朝→鎮西八郎為朝とよばれ有名


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↑白峯神宮


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